Trick and trick

ガチャリとドアノブを回してスタプロ事務所の最奥に位置する応接室のドアを開けると、こちらに向かってピストルを構えた天祥院くんがにこにこと天使のような微笑みを浮かべながら立っていて驚きのあまり腰を抜かした。「トリックオアトリート」ドアを押し開けた格好のまま、へなへなと床へ崩れ落ちる私に向かってお決まりの台詞を吐いた天祥院くんの楽しそうな声が降ってくる。……ト、トリックオアトリート?言われた言葉の意味をうまく理解できず、耳に入ってきた響きをそのままオウム返しにして聞き返すと、天祥院くんは「ふふ、ごめんね。驚かせすぎてしまったかな?」と綺麗な顔をして笑った。

構えていたピストルをことりとテーブルの上に置いて、床にへたり込んだ私へと手を差し伸べてくる彼の動きは優雅で無駄がなく、まるで童話に出てくる王子様のようだ。「緊急で仕事が入ったから今すぐ来てくれる?」なんて言って呼びつけた部下を部屋に入るなりピストルで脅してくるなどと、やっていることはとても王子とは言い難いものがあるのだけれど。差し出された彼の手をぐっと握ってすっかり力のぬけてしまった両足を踏ん張らせて立ち上がる。私の手を離した天祥院くんは、部屋の真ん中あたりに設置されている革張りのやたらと高そうなソファへと腰を下ろしてテーブルの上に置いたピストルを指でなぞっている。そのまるで映画のワンシーンかのような様子をまじまじと見つめながら口を開いた。
「……な、何でそんな物騒なもの持ってたんですか?」
「今日はハロウィンだからね。スタプロはもちろん、ESのどこもかしもがお祭り騒ぎだよ」

全然返答になっていない。確かに今日はハロウィンで、スタプロ所属のアイドルもこぞって仮装をして事務所内を練り歩いていて、たまに本当にお化けか魔物 なのではないかと見紛うほどに精巧な衣装に身を包んだアイドルもいたりなんかして、事務所の廊下を通る度に恐ろしいやら微笑ましいやら珍しいやらで度肝を抜かれたりもしていたのだけど。てっきりスタプロのアイドル代表たる天祥院くんもハロウィンらしく何かしらの仮装をしているのではと思っていたのに、目の前の彼はいつも通りのパリッとしたシワひとつない高そうなシャツに身を包んでいた。そのどこからどう見ても良いところのお坊ちゃんだと分かる高貴な佇まいと、手に持ったピストルの無骨さのアンバランスさに脳の処理が追いつかず目眩がしてくる。
「そのお祭り騒ぎと呼びつけた部下に向かって拳銃突きつけてくることに何の関係が?仕事の話があったんですよね?」
「いやだなぁ、そうピリピリしないでよ。クリスマスに向けた新しいイベントの下準備のために倉庫の片付けを依頼したら、去年夢の咲学院でやったサバイバルゲームで使ったこれを発見してね。せっかくだからハロウィンに使おうかと思ったんだ」

よく出来ているでしょう?僕は使ったことはないけれど、弓弦が使うと本物の銃さながらの役割を果たすんだよと子供のように目を輝かせながら微笑んだ天祥院くんに「はあ」と力なく返答を寄越した。……ESとスタプロが出来てからというもの、天祥院くんやTrickstarの皆の突拍子もない思いつきの数々に振り回されてばかりの日々が続いているけれど、今日のこれもそのうちの一つということらしい。緊急だって言うからてっきり今日の夜に開催予定のイベントに何かトラブルでもあったのかと思ってエレベーターも待たずに階段を駆け上がってここまで飛んできたというのに、まさか私はこんなことのために呼びつけられたのだろうか。肩からどっと力が抜けてソファへと沈み込むと、物珍しそうにピストルをいじくり回していた天祥院くんがこちらを向いて微笑んだ。
「そういえば、どっちにするかまだ答えてもらっていなかったよね。もう一度言うよ、トリックオアトリート」
「デッドオアアライブの間違いですよね?」

眉をひそめながら言った私の返答がツボにハマったのか、ひいひいとお腹を抱えて笑い出した天祥院くんに「だ、大丈夫ですか?」とソファから立ち上がって駆け寄った。私たちが所属するスタプロと同じように、ES内に事務所を構えているリズリンの蓮巳くんーー天祥院くんの幼馴染でもあるーーに聞いたことがある。いつも涼しい顔をしている天祥院くんは思いのほか笑いのツボが浅く、学生時代にも笑いすぎて酸欠になって入院しかけたことが何度かある、と。

こんな状況で、二人っきりの応接室で事務所トップである天祥院くんに倒れられてしまっては、彼を慕っている姫宮くんや蓮巳くんに何を言われるのか分かったもんじゃない。案の定笑いすぎて酸欠になったのか、ひいひいと息をする合間にけほけほと咳き込んだ彼に慌てて冷蔵庫まで走って水の入ったペットボトルを手渡すと、天祥院くんは目尻に浮かんだ涙を拭いながら「ありがとう」と言ってそれを受け取った。笑いすぎて顔が真っ赤になっているけれど、倒れるまではいかなかったみたいだ。良かった。ほっと胸を撫で下ろすと、ペットボトルの蓋を閉めた天祥院くんが「じゃあ、そろそろ本題に入ろうか」と言いながらソファへ座るようにこちらへ促してくる。……なんだ、ちゃんとあったんだ。本題。促されるままに天祥院くんの向かい側のソファへと腰を下ろす。
「本題って、今日のハロウィンイベントのことですか?それかさっき言っていたクリスマスイベントの方?」
「残念だけど両方違うよ。突然なんだけどね、君には今日の午後から3日間くらいお休みを取ってもらうことになったんだ」
「え?」
「君、入社してから今までまだ有休を取っていなかったでしょう?さすがに働かせすぎだって敬人に怒られてしまってね」

な、なんて良い人なんだ蓮巳くん……。本来は関係ないはずの他の事務所のスタッフのことまで気にかけてくれるなんて。今度何かで顔を合わせることがあったら紅月の楽屋宛に菓子折りでも持って行こう。そう密かに決意を固めながら、天祥院くんの台詞を受けてそういえば春に入社してから今までろくに有休を取っていなかったことを思い出した。有休を取っていないと言っても週に一日は必ず休めるようにシフトが組んであるから気にしていなかったのだけど、天祥院くんのように経営に携わる者としては労働基準法がどうたらと社員の働き方には気を揉まざるを得ないのだろう。アイドルをやりながら財閥の跡取りとしての仕事もしてその上事務所の仕事までしているなんて、まとまった休みが必要なのは天祥院くんの方ではないかと私は思うのだけど。

そんな私の考えが伝わっているのかいないのか、天祥院くんはソファに背を預けながら「敬人も学生時代からワーカホリック気味なところがあるからね、似たもの同士として君のことが気になるみたいだよ」とどこか楽しそうに口にした。「……はあ」そんなことを言われても、どういう風に返答したらいいのか分からず困ってしまう。本題はもう終わったのだろうか。終わったのなら今日の夜からのイベントの準備の手伝いに行きたいのだけど、と考えてから、そういや今日の午後から3日間くらい休みを取るようにと言われたことを思い出してソファへ座り直した。時刻はもうすぐ正午に差し掛かるところだ。あと少しでお昼休みが始まる。そうしたら私は有休ということで事務所から帰らなくてはいけない。突然降って湧いた休みに一体何からするべきかと考えを巡らせていると、不意に目線が合った天祥院くんが「この後は予定はあるの?」と尋ねてきた。素直に「ないです」と答えると、ふふふと声を出しながら微笑まれた。

どこへ行ってもお付きの人やら財閥の関係者やら夢の咲学院の生徒やらに囲まれている天祥院くんとは違って、私には仕事以外で人との繋がりはほとんどない。学生の頃にはあれほど仲の良かった友達も、お互い休みのスケジュールが合わないせいで卒業以来疎遠になってしまった。週に一度だけある休みはほとんど寝て過ごしているし、こんな有様では出会いなんてあるはずもなく、彼氏の一人も出来るわけがない。……きっと今の天祥院くんの「ふふふ」は、そういう私のあれこれを見透かしての「ふふふ」だったんだろう。会社から突然の連休を与えられたっていうのに友達や彼氏と遊ぶ予定の入らない可哀想な人だとでも思われてるんだろうな。まあ実際そうなんだけども。どうしよう。世間はハロウィンで浮かれムード一色だし、酒でも一杯引っかけて帰ろうかなんて考えが一瞬よぎったけれど、こんな雰囲気の中で一人でちびちびと酒を飲もうものなら虚しさが天元突破してしまう。今日はだめだ。タイミングが悪い。スーパーで惣菜でも買って帰ろう。確か今日ES内で行われるハロウィンライブはWEB中継があるはずだし、惣菜をつまみながらそれをのんびり眺めるのも乙なものかもしれない。そんな風にあれこれ巡らせていた私の考えを、天祥院くんの「じゃあ、今から少し僕に付き合ってくれるかな?」という言葉が遮った。……い、今から?付き合うって何に?

相変わらずにこにことした笑みを絶やさない天祥院くんは「付き合ってくれるかな?」と一応こちらの意図を確認する素振りを見せながらも、その実私に『彼からの誘いに断りを入れる』という選択肢は用意されていない。天祥院くんはそういう人だ。彼が言い出した時点でもう、今後の展開は決まってしまっている。「いいですよ」と予定調和な返事を寄越すと、ソファの向かいに座る天祥院くんの顔がパッと華やいだ。いそいそと立ち上がると応接室の奥の戸棚からティーセットを取り出してきた天祥院くんが「珍しい茶葉が手に入ってね、ちょうど誰かと飲みたいと思っていたところなんだよ」と言いながらいつのまにか沸かしていたらしいお湯をティーポットへと注いだ。え、嘘でしょ、もしかして天祥院くんが手ずから紅茶淹れてくれるの?

飲み会でのビールの注ぎ方の作法ならまだしも正しい紅茶の淹れ方なんてもちろん一般庶民の私が知るはずもなく、手慣れた様子でテキパキとティーポットとカップを並べてお茶会の準備を整えていく天祥院くんを何もできずに見つめていると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。弾かれたようにソファから立ち上がると、それを片手で制した天祥院くんがドアを開けて事務員の人からお菓子が盛られた皿を受け取った後、ソファへと戻ってくる。
「知ってるかい?『トリックオアトリート』は日本では『お菓子をくれなきゃイタズラするぞ』だけど、トリートには『もてなす』って意味もあるんだよ」
「そうなんですか」
「さっきトリックかトリートのどちらにするか聞いたけど、せっかくなら両方楽しみたいと思ってお菓子を用意させてもらったんだ。味は天祥院財閥のお墨付きだよ」

そう言った天祥院くんが淹れたての紅茶とともに私の目の前に置いたのは、どこの有名ホテルかと見紛うほどの豪華なアフタヌーンティーセットだった。3段に重なったケーキスタンドの上には色とりどりのお菓子が並べられている。チーズケーキにマカロン、スコーンにサンドウィッチと所狭しと並べられた美味しそうなスイーツの数々にぐうと腹の虫が鳴いた。昼食をまだ済ませていない今の私には、目の前のこのスイーツたちから発せられる誘惑は争いがたいものがある。暴れ回る腹の虫を何とか抑えながら、「緊急だ」と言って私をここに呼び付けたのはついさっきのことのはずなのにこんな風に手の込んだアフタヌーンティーまで拵えているなんてやけに準備がいいなと思った。まさか最初から私がトリックとトリートのどっちも選ばないことを予想して、今か今かとタイミングを伺っていたんだろうか。それともどっちを選んでも両方ともやらせるつもりだったとか?天祥院くんならばそっちの線も十分に有り得る。彼の言うトリートが『とっておきの紅茶と菓子でもてなすこと』なら、イタズラの方のトリックは一体何を意味していたんだろう。さっきのピストルで脅かしてきたこと?……それとも、まだ何か他に隠し球があったりして。連日のスタプロやESを巻き込んだ騒動の数々ですっかり天祥院くんの微笑みに対し疑り深くなっている私が一向に紅茶にもスイーツにも手を付けないでいるのを見た天祥院くんが「どうかしたかい?」と首を傾げた。
「いえ、その……想像していたより凄いのが来たので、面食らってしまって。こういうのは不慣れなもので……すみません」
「心配しなくても毒が入っていたりはしないよ。安心して食べてほしいな」

勘繰っていたのがバレていたのか、紅茶のカップに指をかけながらこちらを見つめてくる天祥院くんの瞳がきらりと光ったような気がして、すごすごと彼と同じようにカップへと手を伸ばした。ティーカップ収集を趣味としている彼の特にお気に入りだという精巧な装飾が施されたカップを口元へ運んでカップの中の紅茶を一口流し込む。ふわりと鼻を抜けた香りに「おいしい」と思わず口に出すと、天祥院くんがまた天使のように清らかな表情で微笑んだ。
「気に入ってくれたようで良かった。これで3日後から始まる新しい仕事も安泰だね」

……ん?待って、今、天祥院くんなんて言った?『新しい仕事』って?3日後は確か今日やる予定のハロウィンライブの事後処理と来年のハロウィンに向けての打ち合わせしか入っていなかったはずで、『新しい仕事』だなんて一言も聞いていないんだけど。一体何の話だろうと混乱していると、私の混乱をよそに天祥院くんは楽しそうに言葉を続けた。
「さっきも言ったけれど、君はどうやら敬人と似ているようだからね。寝ても覚めても仕事のことばかりを考えているだろう?そんな人から仕事を取り上げるのも可哀想だと思って、それならいっそのことより大きな仕事を任せてみようと思ったんだ」
「……え、いや、私は別に仕事人間というわけでは」
「2ヶ月後にクリスマスパーティがあるのは知ってるかい?他の事務所とも話し合ってね、それの責任者を君に任せることになったから、存分に頑張ってほしい」

「だから、これは僕からの激励の気持ちだよ。是非君に受け取ってほしいな」と紅茶を一口飲んでから微笑んだ天祥院くんは、まるで天使のような無垢な顔をして、やっていることは悪魔そのものだった。全く、してやられた。淹れられた紅茶はもう口を付けてしまったし、ケーキスタンドに並べられたチーズケーキにはついさっきフォークを突き刺してしまったところだ。今更もう返品するなんてことは出来ない。3日後から始動することが決まっているらしいその新しい仕事も、もうESのお偉いさん方の間では決まってしまったことなんだろう。……ほかほかと湯気を放っている紅茶のカップを口元へと運びながら、天祥院くんの思う壺じゃないかと頭を抱えた。天祥院くんのことを完全に見誤っていた。彼が何の考えもなしにお茶会の誘いなんて持ちかけてくるはずがなかったのに。こんな話を聞いてしまった後、私がこの3日間の休みをどう過ごすと思っているのか。おちおち休んでもいられない。

空になったカップに向かってハァと思わずため息を吐くと、ケーキスタンド越しに色素の薄い髪を靡かせた天祥院くんが「期待しているからね」と優雅に笑った。