Hole


「またあの女のところ?」

そう呼びかけた自分の声が、想像以上に刺々しくて驚いた。水が入ったコップと食事を盛り付けた皿が載せられた盆を手に持ったままゆっくりとこちらを振り返った男のエメラルドグリーンの瞳は、光を映しているはずなのにまるで何も映していない底なし沼であるかのようで、目が合っているはずなのにその実どこも見ていないかのようなうっすらとした不安を覚える。

私の声を聞いて立ち止まった男――ウルキオラに向かってつかつかと近づいていき、その青白い手に支えられた盆に向かって手を伸ばす。そこに載せられている皿とコップを振り落としてやろうとするよりも先に、ウルキオラが放った閃光が私の指先を焼き落とした。

不意打ちなら壊してやれると思ったのに。小さく舌打ちをして一歩後ろに下がると、ウルキオラが手に持っていた盆へと目線を落とし、コップから水が溢れていないかを確認してから「何をする」と抑揚のない口調で言った。

私の攻撃などまったく歯牙にもかけないかのようなその様子に、苛立ちがさらに募っていく。
「人間なんて放っておけばいいでしょう。食事をしなければ何もしなくても死ぬんだし」
「死なないためにこうして世話をしているのが分からんのか?」
「分かってるわよ。そうじゃなくて、どうして私たちがあんな女の世話を焼かされなくちゃいけないのかってこと」

虚夜宮には今、人間の女が匿われている。愛染様がヤミーとウルキオラに命じて空座町から連れてきた女だ。一人で百人分に値するような上質な魂を持っているだとか、魂魄を補給するための生贄ということならまだいいが、わざわざ攫ってきた目的はそのためではないらしい。

破面の本拠地たる虚夜宮に生身の人間がいるのにも関わらず、その女には指一本触れるなというお達しが出たときからおかしいと思っていた。百歩譲って虚夜宮に幽閉しておくのはいいとしても、人質として生かしておくためにあれやこれやと世話を焼いてやらねばならないらしい。

破面ともあろう者が、人間の女の面倒を見るなんて。愛染様の前ではとても口に出せなかったが、内心そう思っているのは私だけではないと思っていたのに。

愛染様の部下として彼からの命令を忠実にこなすウルキオラは、その命令に大した疑問も抱きもせず、さも当然であるかのように毎日毎日せっせと女の分の食事や飲み物を用意しては部屋へと運び、身の回りの世話をしている。

そうした彼の様子を見るたびに私は、何故だか無性に苛立ちを覚えてしまうのだ。
「愛染様の言いつけだ。あの女は生かしておく。それはお前も聞いていただろう」
「……言いつけ言いつけって、あんたはいつもそればっかり」

これ見よがしに大きなため息をついてみても、ウルキオラはまったく意に介していないようだった。温度のない緑の瞳がこちらを一瞥すると、くるりと踵を返して女のいる部屋の方へと歩き出していく。

その細長い後ろ姿に向かってもう一度虚閃を放つもウルキオラの身体にはかすり傷一つつくことはなく、ただ、どこにもぶつけようのない苛立ちだけが残った。



それからも、ウルキオラは足繁く女の元へ通っては甲斐甲斐しく世話を焼いていた。冷えた食事ばかりでは食も進まないだろうとわざわざ温かい食事を用意したり、硬い床で眠るのは柔い人間の身体には不向きだということで新しく女のためのベッドを調達したり、暗い部屋に一人で閉じこもって何もしないでいては気が滅入るあまり死んでしまうかもしれないと話し相手になったりと、召使いもびっくりの献身ぶりだ。

それでも、どれだけウルキオラが――そして、ウルキオラに命じられた私が快適な生活のすべてを与えてやろうとも、女が虚夜宮で晴れやかな表情を見せることはなかった。あの女があまりにこちらの用意した食事や物を受け入れないものだから、虚圏と現世では何か違いがあるのではないか、と現世で人間がどのように過ごしているのかをわざわざ偵察に行かされたりもした。それでも、女が浮かない表情をしていることには変わりない。

あの女のことなどもう気にしなければいいのに、愛染様に虚夜宮を任されているのは自分だからと言って、ウルキオラは今日も愛染様への連絡事項と称して女の様子をつぶさに報告している。黙ってそれを聞きながら、手元にある紅茶の入ったティーカップを投げつけてやりたい衝動を抑えるのに苦労した。
「ウルキオラはよくやってくれているね。ありがとう」
「……有難きお言葉、光栄です」

ここでにこりともしようものなら、少しは可愛げもあるものを。報告が終わって愛染様の前から下がった後も、ウルキオラはいつもの能面のような表情で微動だにせず自身の椅子に座っていた。この男のこういうところが気に入らないのだ。四角四面な性格も、愛染様の言いつけばかりを守ってこちらの話など一向に聞き入れようとしないところも、破面の誰とも馴れ合う気はないとでも言いたげなその澄ました態度も、ウルキオラの何もかもが気に入らない。そして一番気に入らないのは、どれだけこの男に対しての苛立ちを募らせようと、力においては敵わないであろう自らの力不足だった。


愛染様からの報告が終わり、卓に座っていた破面のメンバーがそれぞれ自室へと戻っていく。苛立ちが募るあまりガタガタとわざと大きく音を立てて椅子から立ち上がると、最後まで席を立たなかったウルキオラから鋭い口調で「待て」という言葉が飛んできて顔を顰める。
「なによ」
「紅茶がまだ残っているだろう。愛染様のお気遣いを無駄にするつもりか?」

ウルキオラの青白い指が示した先には、初めに二口ほど口をつけた後は手付かずとなっていた私のティーカップがあった。よくもまあこんなものにまで気づくものだと男の目聡さを苦々しく思いながら、ますます口を尖らせる。
「それを言うなら、あの女にも言うべきでしょう。人間の食べ物なんて虚圏にないものをわざわざ現世から持ってこさせておいて、一口も手を付けないなんて――」
「ああ、そうだな。だが、おまえはあの女とは違うだろう」
「当たり前でしょ。ただの人間と一緒にされたくなんてない」

吐き捨てるようにそう言うと、ウルキオラは自分の席に座ったままそっと指を組んで、その指の上に顎を乗せ、こちらへじっと視線を寄越してくる。まるで“愛染様のご厚意”とやらを私が無駄にすることのないように見張っているとでも言いたげなその態度に、無性に腹が立った。

怒りに任せてテーブルの上に置かれたティーカップを引っ掴み、呷るようにして一気に中身を飲み干すと、喉を通って腹の方へと流れていく間にじんわりとした温かさが身体の中と広がったが、それだけだった。元々虚として生まれた私たちにとっては、食事なんてする必要がないものだ。それなのに、こんな風に人間の真似事をして、仲間意識なんて微塵もないくせにこうして仮初の仲間ごっこをしているなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。

――もしも、私があの女のような人間だったのなら、ただの茶色い液体にしか見えないこれだって、“美味しい”と感じられるのだろうか。空になったティーカップをソーサーの上へ戻し、眉一つ動かさずにこちらを見ているウルキオラに向かって視線を返しながら、そんなことを考える。


ああそうだ。

もしも私が、ただの人間――あの女のように柔い肌をしていたのなら。

食べるものがないとすぐに死んでしまうような生き物だったら。

事象の拒絶なんていう神さえも超えた御業が使えたなら。

そうすれば、ウルキオラは私だけを見てくれるだろうか。


何もなかったはずの私の胸に風穴を開けたのはこの男だった。しかし、目の前に座る男は私に傷をつけたことなど気付きもせずに素知らぬ顔をして、私の前を通り過ぎては今日もあの女の元へとせっせと通い詰めるのだろう。

そう思うと私は、あの女が憎くて仕方ない。

お題:ウルキオラが私を見てくれない

ウル織は恋愛ではない派なのですが、それはそうとしてウルキオラが初めて執着を見せた相手としてどこかの誰かに消えない傷を残していたら私が嬉しいです