まどろみたいのに月がきれいで

絵も勉強も誰にも教わらなくたって出来たのに、友達だけはどうやっても出来なかった。そんな俺を「可哀想」だと言う人はそれこそ腐るほど見てきたというのに、あの子だけは違った。「気味が悪い」だの「暗い」だの、休み時間に絵を描いてばかりの俺に投げつけられるのはそうした言葉ばかりだったのに、同じようなそれが彼女の口から出てきたのを聞いたことがない。俺が鉛筆を手に取るといつの間にか机の近くまで寄ってきて、だけど何も言わずに自分の気が済むまで絵を描いている俺の手元をじっと見ている。さんは、そんな女の子だった。


高校三年の春、いよいよ受験の年がやってきて特進コースの教室では全国各地の大学の名前が飛び交うようになった。どんな大学を受けるか、どんな学部がいいか、推薦にするか一般入試にするか、センター試験は受けるのか、受けるとしてどの教科を受けるのか、参考書はどれが一番分かりやすいか、夏期講習を受ける予備校はどこがいいか。人生の岐路に立つ高校生の悩みはどれだけ頭を悩ませようと尽きることはない。
「高橋くんってどこの大学受けるの?」
「……それって教える必要ある?」

つい先ほど配られたばかりの『進路希望調査』と書かれた紙が置かれたままになっている俺の机に、前の席から振り返って身を乗り出してきたさんの影がかかる。さっきまで緩められていた口元が、俺の言葉を聞くなり少しだけ強ばったのを見て、またやってしまったと思った。

言葉を介した他人とのコミュニケーションの正解を俺は知らない。『知らないから出来なくたって仕方がない』と済ませる気はないけれど、でも、本当に分からないのだ。どうしたら、自分も他人も傷つけるに近づいていけるのかが。近づいてほしいのか、放っておいてほしいのか、誰もいないどこかに行きたいのか、自分がどういうところにいたいのかも、本当はよく分かっていないのかもしれない。

――だけど、俺が人よりも絵が描くのが得意で、そしてそれは他者の目から見てもそうだというのだけは紛れもない事実だった。

特進コースの大学進学率は美術コースのそれよりもずっと高い。自習の時間だけじゃなく休み時間にも参考書を開いている人がどんどんと増えていった頃、俺は通っていた予備校に行くのをやめた。休み時間も放課後も、時間さえあれば絵を描いた。絵を描いているときだけは、他に何も考えなくていいような気がした。そしてその度に、さんは「今日も精が出るね」なんて言って、気が付いたら俺の席の前の椅子に座って時折頬杖をつきながらじっとこちらを眺めているのだった。


冬が深まってきて、最後の登校日を迎えた寒い日のこと。いつも気が付いたらそこにいて、気が付いたらいなくなっているさんが、その日は珍しく俺が帰るまでずっとそこから動かずにじっと参考書を読んでいた。そして俺がノートと鉛筆を鞄に入れて席を立つと、いつのまにか隣に並んでいたさんが「ねえ高橋くん」と話しかけてくる。
「高橋くんって美術館とか行ったりする?」
「あんまり行かない」
「そうなんだ。藝大受けるって聞いたから、美術館とか行ったりするのかと思ったんだけど」

そんなこと、誰に聞いたんだろう。橋田だろうか。俺と同じ特進コースのさんが美術コースの橋田と話しているところは見たことがないけれど、こんな俺にわざわざ話しかけてくるような人だから、きっと誰とでも仲良く話せるんだろう。
「……さんこそ、藝大とか受けるんじゃないの。絵好きなんだろ」

しかし何故か彼女は俺の言葉を聞くなりきょとんとした顔を浮かべ、その数秒後にはけらけらと笑い出した。
「私、別に絵見るのも描くのも好きじゃないよ。何だっけ、印象派? そういうのとか、あと技法とか全然分かんないし」
「……じゃあ何でいつも俺の絵見てるの」
「絵描いてるときの高橋くんの顔が好きだなと思って。あと手も好き。ちっちゃいのによく動くなあと思って」
「は?」

思いがけない言葉につい帰り道を急ぐ足が止まってしまった。そして、まるで足の裏から根が生えてしまったかのように、その場所から動けなくなる。
「……やめろよ、そうやって人のことからかうの」
「からかってなんかないよ。高橋くんのこと、ずっと好きだってアピールしてきたつもりだったんだけどなぁ」

あっけらかんとした表情で答える彼女の顔をまじまじと見つめる。――もしも今、『目の前にいる女の子の顔を描け』と課題が出されたとしても、俺には上手く描ける自信がない。俺には絵しかなかったのに、絵だけは他の誰よりもずっとずっと得意だったのに、こんなのは生まれて初めてのことだった。
「……何で俺なんかに構ってくるんだよ」

さんも、他のみんなも。鞄の持ち手を掴んでいた両手にグッと力がこもる。
「俺は、皆みたいにスポーツとか遊んだりとか出来ない。絵ばっかり描いてたし、これからもそうだと思う」
「知ってるよ」
「友達もいないし」
「見てたら分かる」
「女の子とあんまり話したこともないし」
「でも私とは話してくれるじゃん」
「それは……さんが話しかけてくるからだろ」
「話しかけられるの迷惑だった?」
「いや……そういうわけじゃないけど」

迷惑だと言ってやるつもりだったのに、口をついて出たのはまったく反対の言葉だった。何で俺は今、こんなことを言ってしまったんだろう。自分で自分のことが分からなくなって、感情がぐちゃぐちゃになる。とても前なんて向いていられなくて、足元へと視線を落とした。そんな俺をじっと見ていたさんは、相も変わらず突っ立っていることしか出来ない俺の前に回り込んで顔を覗き込んでくると、また顔を綻ばせて笑う。
「高橋くんってさ、多分、自分で思ってるより何考えてるかわかりやすいよね」
「……君にそんなこと言われたくないんだけど」
「いいじゃん、言わせてよ。どれだけ見てたと思ってるの? 高橋くんのこと」

それは極めて明るいトーンの言葉だったのに、今までに他の誰かに貰ったどんな言葉よりも胸に響いてきた。どれだけ見ていてくれたんだろう。こんなにも情けなくて、絵しか描けない俺のことを。

数分ぐらいずっと、そうやって立ち尽くしていたような気がする。それでもさんは何も文句を言わなかった。ようやく顔を上げて見ることが出来たさんの顔は、いつのまにか日が暮れていた街の暗がりの中で、淡い月の光に照らされている。俺の視線の先に気が付いたさんが振り返って空を見上げながら「今日満月だったんだね」と言ったその声に、情けなくも涙が出そうになった。――俺たちはもうすぐ大学生になるというのに、たったこれだけのことで感情を揺さぶられるなんて馬鹿みたいだ。だけど止められなかった。止められなくていいと思った。そして、そう思うのがさんも一緒であればいいと願った。

月は毎日変わらずそこにある。そこから降り注ぐ光も、浮かんでいる場所も、俺の目に映る色さえも、どれだけ時を重ねたって決して何も変わりやしないのに、それを一緒になって見上げる人物がいるというだけで何物にも代え難いような輝きとして映るのだから、もしかすると俺は自分で思っていたほど高尚な人間ではなかったのかもしれない。

そうして、――高校を卒業する間際にもなってようやく俺は、古来からありとあらゆる手を尽くして先人たちによって語られてきた『恋』というもののおぼろげな輪郭を理解したのだった。


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