はじまる世界のささいなこと

師も走るほどに忙しいから師走とは、昔の人はよく言ったものだ。12月に入ってからの週間少年ヴァーイ編集部はいつ訪れてもまさに地獄の有様だった。

人の記憶は曖昧で、たった1年前のことすらもろくに覚えていられなくて、だからこそ毎年毎年同じことを繰り返してしまう。昨年の年の瀬、テレビ越しに聞こえてくる除夜の鐘の音を背にあちこちを磨き上げ真っ黒になったメラミンスポンジを片手に持って「来年こそは計画的に大掃除するから。12月に入るまでには全部終わらせるからね」と高らかに宣言したさんが11月になっても12月になってもその重い腰を上げることはなく、2021年も残すところあと数時間だ。今頃さんはこたつでみかんでも食べながら今年最後の歌番組でも眺めていることだろう。 当然大掃除は終わっていないはずだが、今年の俺はろくに掃除も片付けも手伝えていないので何も言えない。思えば去年もそうだった。木兎さんと忘年会をしたり卒論のレポートをやっていたりと、何かとやることに追われてろくに家のこともやれないうちに年を越してしまった。今年とそう大して変わらない。人生とは同じことの繰り返しだ。

そしてきっとこんな風にこの季節が来る度に同じことを繰り返しているのは俺たちだけでなく日本中の皆が皆そうなのだろう。そんなことを考えながら乗り込んだタクシーの窓の外では雪が降っていた。
「赤葦のバカ!」

スマホに表示された名前を指でなぞりながら、最後に聞いた声を思い出す。世の中の女性という生き物は何故こうも記念日とクリスマスの予定には手厳しいのだろう。編集部の仕事が思った以上に忙しく、恒例となっていたクリスマスイブのデートも今年は確約することが出来そうにないと告げたときのさんは親の仇かのごとく俺とヴァーイの編集部の面々を責めた。ついでに原稿を早めに挙げてこない宇内先生のことも責めていた。原稿に関してはもっと言ってもらってもいいくらいだが、俺だって仕事の鬼というわけじゃない。24時間働き続けるなんてまっぴらごめんだ。今日は何としても日付が変わる前に家に帰らせてもらう。

ただでさえ忙しい年末前の時期にクリスマスなんて一大行事を持ってきた誰かさんは日本のサラリーマンの一年のスケジュールを把握していなかったに違いない。そして、一年最後のこの日にネームの打合せを入れてきた宇内先生もきっとそれと同類だ。おかげで年末進行は恙なく終わらせられたというのに、結局年の瀬まで編集部に顔を出す羽目になってしまった。さんとはここ一ヶ月ほど顔を合わせられていないし、忙しくなる前に何とか渡す物だけは用意しておこうと購入しておいたプレゼントの包みは依然として部屋のクローゼットの奥に押し込まれたまま、とうとう今年一年が終わろうとしている。さんは今もまだ怒っているだろうか。そんなことを考えていた矢先、手のひらの中のスマホが鳴った。前の席の運転手に一言断りを入れてから、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「今日何時に帰ってくるの?」
「日付超える前には何とか」
「じゃあ先にご飯食べちゃうからね」
「はい」
「…………」
さん?」
「……赤葦さ、なんか私に言わなきゃいけないことあるでしょ」

スピーカー越しに聞こえてきた不機嫌そうな声色に思わずスマホを耳から離して画面をじっと見つめる。さんに言わなければいけないこと。……心当たりがありすぎてとても一つには絞りきれないが、どうすれば一発で正解を導き出せるだろう。不正解を提示してこれ以上彼女の機嫌を損ねてしまうのだけは避けたい。
「今年もお世話になりました」
「そういうのは直接会ったときに言ってよ」

不正解だったようだ。聖なる夜どころか年の瀬にまでろくに顔を合わさない恋人のことをさんはどう思っているだろうか。相変わらずの不機嫌そうな声色と、うっすら聞こえてくるサブスクの年間ランキングで1位を獲ったらしい今年のヒットソング。こたつに入ってつけっぱなしのテレビを一人不貞腐れて眺めている姿がありありと目に浮かぶ。
「あと20分くらいでそっち着きますから」
「うん」
「怒ってます?」
「まだ怒ってない。今日も帰ってこなかったら怒ろうと思ってた」
「日付変わる前には帰れる予定です」
「分かった。……今年もう会えないんじゃないかと思ったじゃん」
「すみません」
「いいけど。……帰ってきたときに何て言ってくれるのか楽しみにしてるからね」

そう言って切られた通話にスマホをタクシーの座席に置き直し、さてどうするかと思案する。さんが俺に期待していること。それが一体何なのかを解き明かさなければ、俺の新しい一年は始められなさそうだ。

今年もあと残すところ15分となったせいか、車の通行量が少なかったおかげで10分足らずで彼女の住むマンションに辿り着くことが出来た。足早にエントランスを通り抜け、エレベーターに乗って、4階のボタンを押す。たったこれだけの距離なのに待ちきれないと思うのは、さっきの「今年もう会えないかと思った」という彼女の言葉を聞き捨てならないと思ったからだ。

まるで俺が到着したのが分かっていたかのように、チャイムに手をかけたと同時に玄関のドアが開いた。
「赤葦」

おかえり、と言われる前になだれ込むように玄関に入る。「寒い」とかなんとか言っている彼女を抱きしめて、ひとまず今年最後のキスをしようと背を屈めると、「赤葦」ともう一度俺の名前を呼びながら口を尖らせて俺の口元を覆うような仕草をしたさんと目が合った。
「ダメ。手洗いうがいしてきてからね」
「それだと年越すことになりそうですけどいいんですか?」
「そっ…それもダメだから早く洗面所行ってきて!」

ぐるりと無理やり向きを変えさせた俺の背中を後ろからぐいぐいと背中を押してくるさんに思わず笑みが溢れる。こういうところも去年から変わっていない。そしてきっと来年も、俺はそんなところが可愛いと思いながらさんに怒られつつ年を越すのだろう。そう考えると今から何だか楽しい気分になって、さて戻ったらまずは彼女になんて言おうと考えながら念入りに手を洗ってリビングへと向かう。

クリスマスは一緒に過ごせなくてすみませんでしたとか、俺だって本当は会いたかったですとか、寂しいと思っているのはそっちだけじゃないですよとか、今年もお世話になりましたとか。言いたいことはたくさんある。

けれど、それよりも、一番に伝えないといけないことはきっとこれだろう。
さん」
「なに?」
「来年も俺以外とは過ごさないでくださいね」
「……何分かりきってること言ってんの」

今度は不正解ではなかったようで、口元を緩めたさんが抱きついてくる。それを受け止めながら、キスをするのは年を越してからでもいいかと思い直して回した腕に力を込めた。

たとえ息つく暇もないほどに忙しない毎日だったとしても、最後のたった数分満たされた気持ちになるだけで「いい一年だった」と思えるのだから、俺も人のことをとやかく言える立場じゃないなと思いながらキスをして、テレビから聞こえてくるカウントダウンの声に耳を傾ける。

こうした何でもない、けれど幸せだと思える日々が、また次の一年も続いていくことを願いながら。

2022年も宜しくお願い致します!

Inspired by Hard Days, Holy Night/ポルノグラフィティ