My little invisible

77億という途方もない数が存在するこの星の上で、表舞台に立つべき人物というものは確かに存在する。いわゆる生まれながらのスターやカリスマというやつだ。彼らはその卓越した容姿や才能やオーラだったりで人々を魅力して、心を掴んで離さない。

私にとっては青峰がまさにそうだった。



旧知の仲の人間がテレビの中でインタビューを受けて喋っている姿というのは、いつ見ても少し違和感を覚えるものだ。よく知っている人物であるはずなのに、まるで知らない人かのような感覚を覚えてしまう。今日の青峰は誰から見ても絶好調だったようで、チームメイトにもみくちゃにされながら試合の感想を訊ねられている最中もしきりにカメラに向かって「最高!」と答えていた。

お世辞にも綺麗な発音であるとは言えないような、たどたどしいスラング混じりの言葉で受け答えをしている見知った顔の男の姿を横目に眺めながら、トースターで焼いたパンを齧り、寝ぐせがついていないかを鏡でチェックして、身支度を整えていく。時差の関係上、青峰の出ている試合をすべてリアルタイムで追いかけることは学生のときと比べると随分と難しいものになってしまった。

それでもこうして朝起きる度にNBAでプレーする彼の姿が特集されていないかをチェックしてしまうのは、中学を卒業して随分と経った今になっても、この男のすべてが私の心を掴んでやまないからだった。

こんなこと本人に向かっては口が裂けても言えそうにないけれど、初めから青峰はスターだった。十年に一人の天才ばかりが集まったキセキの世代と持て囃されて久しい彼らの中で一番最初に頭角を現したのも青峰だったし、その才能を遺憾なく発揮して早々にスコアラーの地位を確立した彼は試合に出る度に観客の話題をかっさらっていった。一試合、それもたった一人で100得点を挙げたときは信じられないものを見たような気持ちになったし、今でも調子が良いときの彼は他の誰をも寄せ付けない天才的なプレーを見せることがある。その度に観客は熱狂のぬ渦に飲み込まれ、あの男を文字通りのスターダムへと押し上げていった。

初めのうちはせいぜいバスケ部の関係者くらいにしか持て囃されていなかったあの男も、こうしてプロの世界で華々しい活躍を見せるようになると、その注目度は桁違いに跳ね上がる。

今ではNBAの試合が行われる度に我先にとリポーターが彼の元へと殺到して、SNSを更新すれば瞬く間におびただしい量のコメントが様々な言語で書き込まれ、ニュース番組や雑誌では頻繁に特集が組まれる始末だ。これをスターと呼ばずして何と呼ぶのだろう。

中学のとき隣の席だった同級生のあの男は、瞬く間に一般の人間では手の届かない遠い世界の住人になってしまった。

人類みな平等を謳うこんなご時世でも、二十年近くも生きていれば自分の立ち位置というものを嫌でも把握せざるを得なくなる。自分が舞台の真ん中に立つべき人間なのかそうでないか、それぐらいは弁えるようになる。そうして弁えた結果私が導き出したのは、たとえ天地がひっくり返ることになろうとも私は青峰のようにはなれないという結論だった。

それでも飽きることなくこうして彼についての情報の切れ端を追いかけてしまうのは、もはや呪いじみた初恋のおかげなのかもしれない。



今日もいつもと変わらない朝だった。いつもと変わらない時間に鳴り出したアラームを止めて、時計を確認し、二度寝が出来るかどうかを考えながら布団の中でスマートフォンを起動して、ニュースサイトやSNSに変わったことがないかをチェックしていく。

そうそう「変わったこと」なんて起こり得るはずがないと分かっていながらも、最早モーニングルーティンと呼んでも差し支えないほどに寝起き直後の恒例行事となってしまったSNSパトロールをしている最中、ふと目に飛び込んできた一枚の写真に思わずスマホを落っことしてしまった。鼻に強かにぶつけたスマホがベッドの端で弾んで床へと落ちたのを慌てて拾い上げ、傷がついていないか確認する。良かった割れてない。つい最近最新機種に買い替えたばかりなのに、もう壊れてしまったら悔やんでも悔やみきれない。それも、壊した理由が理由なものだから割れた画面を見る度に居た堪れない気持ちになってしまうことは確実だ。

握りしめたスマホの画面の中には空港で撮ったらしき飛行機の写真と、「今羽田」という一言だけが添えられている青峰の投稿が写っていた。

今羽田。たった三文字のシンプルな言葉を頭の中で繰り返す。

つい先日の試合を最後に、NBAリーグはオフシーズンに入っていた。次のシーズンが始まるまで選手達はそれぞれ練習を重ねたり、束の間のオフを楽しんだり、CMや雑誌に出てお金を稼いだりと思い思いにそれぞれの時間を過ごしていく。

つまり、帰ってきているのだ。あの男が。遠い世界に行ってしまったあの男が、青峰が、今、同じ土地の空気を吸っている。そう思うだけで心臓が早鐘を打って体温が何度も上がってしまったような錯覚を覚えたけれど、何とか落ち着かせてベッドから這い出るようにして朝食の支度に取り掛かる。
「帰ってきてるの?」

そう一言コメントを打ち込もうとしたスマホの画面は、送信ボタンを押せないままになっていた。

これまでの私なら、青峰のあの投稿を見た瞬間に何もかもを放り出してなりふり構わず家を飛び出し一直線に羽田空港を目指していただろう。実際これまでもオフシーズンに帰省してくる青峰を黄瀬や黒子くんたちと一緒に空港まで迎えに行ったり、居酒屋で労いの会を開いたりしたことは何度もあった。けれど、今回はそうした気にはとてもなれなかった。

いつも通りに朝から夕方まで仕事があるし、夜には友達に紹介された男の人と会う予定が入っている。それをすっぽかして呼ばれてもいないのに彼の元へと向かうほど私も馬鹿ではないし、そんな青さはもう随分と昔に失ってしまった。

そして何より疲れてしまったのだ。叶うはずもない遠い世界の存在に、一方通行の想いを燻らせ続けるしかないこんな生活にも、諦めの悪い自分自身にもほとほと嫌気が差していた。

中学で初めてバスケをプレーするあの男の姿を見たときから、私はずっと青峰のことが好きだった。

これまでの長い付き合いの中で、告白したことも何度もある。その度に青峰は「ふーん」だとか「へえ」だとか大して関心のなさそうな返事をしていて、付き合おうとも付き合わないとも言わなかった。そこでなんて曖昧な態度なんだと怒ることが出来ればまだ良かったのかもしれないけれど、私は私で妙なところで意気地がなく、「私のことどう思ってるの」とはなかなか青峰に向かって言い出せなくて、なあなあの関係になってしまっているまま月日だけが流れていった。そうしてはっきりしないまま青峰は活動の拠点をアメリカへと移し、ろくに連絡も取れない日が何ヶ月も続いて、そのうち手の届かない人物になってしまった。

青峰が日本を離れてスターへの道を駆け上がっていく様を眺めている間も、私はずっと青峰以上に好きになれる人を見つけることが出来なくて、変わらない想いをずっと燻らせ続けていた。けれど、恋愛事において一途であることを手放しに褒められるのはせいぜい高校生までだ。大人には効率の良さが求められる。燃え上がるような想いを抱いていなくたって恋人同士になることは出来るし、たとえ出会ったその日にどうにかなったって、互いにパートナーがいない同士であれば誰もそれを咎めたりはしない。それが大人の付き合いというもので、たとえどれだけ長い間想いを寄せていようとも、それが必ずしもプラスの働きをするとは限らない。

ましてや相手は今や世界中で大人気のスポーツ選手だ。私一人がいなくたって、大勢のファンから絶えず熱い視線を向けられている。

だから、今更あの男に自分から連絡を入れる気にもなれなかった。青峰が今回どれだけ日本に滞在するのかは分からないけれど、もしある程度の期間いるつもりなら、そのうち黄瀬やさつきちゃんから「集まろう」と連絡があるはずだし。わざわざ終わった関係をこちらから蒸し返すようなことはしなくていい。

非日常も繰り返していけばやがて日常に変わってしまう。英語の成績が壊滅的だったあの青峰がアメリカに渡って自分よりも背の高いチームメイト達とプロのバスケプレーヤーとしてボールを追いかけている様をテレビやSNS越しに眺めるのにも、黄瀬が表紙を飾る雑誌が毎月のように本屋に並べられているのも、一時期疎遠になっていた帝光中バスケ部のメンバーと定期的に飲み会を開くのにも、今ではもうすっかり慣れっこになってしまった。

だから青峰のいないこうした生活にも、きっと慣れていけるはずなのだ。

そう思いながら身支度を整え終え、玄関を開けた先はいつもと変わらない景色が広がっていた。



結局のところ、会社に向かう電車に揺られている間も、お昼を過ぎてランチを取っている間も、終業後に駅前の居酒屋で待ち合わせ相手を待っている間も、あの青峰のSNSの投稿にコメントを付けることは出来なかった。送信ボタンを押す、たったそれだけの動作にもこれほどまでに手間取ってしまうような、そんな人間なのだ。青峰に釣り合うわけもない。

そうは思いながらもやはり気になるものは気になってしまう。空き時間に何度か新しい投稿はないかと覗いてはみたものの、羽田空港以降の彼の足取りは掴めないままで、黄瀬やさつきちゃんから飲みの誘いが来ることもなかった。やっぱりそうだよね、と思いつつ、手持ち無沙汰にスマホをいじり続ける。待ち合わせ相手の彼は予定外の仕事が急遽終業前に入ったらしく、遅れるから先に店に入っていてほしいという連絡を受けていた。

そういえば昼に一度、知らない番号から電話がかかってきていた。今日の待ち合わせ相手かと思ったけれど、確認すると予め伝えられていたその人の番号とは違っていて、インターネットで検索しても特に何も引っかからなかったから、誰かのかけ間違いかと思って気にしないことにしたのだけれど、あれは何の電話だったんだろう。ふと目についた着信履歴を眺めながら考えてみても思い当たる節はなく、首を捻るばかりだった。

到着までまだ少し時間がかかるそうだし、飲み物だけでも先に頼んでおこうか。そう思ってメニューに手を伸ばすと、テーブルの上に置いたスマホが震えたのが分かって視線を移す。すると、通知画面には昼にかかってきていたものと同じ番号が表示されていた。

身に覚えはないけれど、こうも複数回かかってくるってことは間違い電話ではない可能性がある。何か大事な用だろうか。配達業者からの連絡だったりするのかもしれない。

じっと画面を眺めながら迷っている間も、電話が切れる気配はない。やっぱり急ぎの用なのかもしれない。
「――もしもし」
「おー、やっと出た」
「……え」

そう思って出た電話の向こうから聞こえてきた声は、今でも頭の中にこびりついて離れない――そして今朝もテレビの中から聞いたばかりの、青峰の声だった。
「なあ、お前何で電話出ねーの」
「何でって……」
「昼も電話しただろ」

昼の電話、という言葉に合点がいく。あの電話は青峰からの着信で、そしてこの番号は青峰のものだったのか。着信履歴の謎が解けたところで、でも一体どうして、という疑問で頭の中が一気に埋め尽くされていく。確かに最後に青峰と連絡を取ったときから私のスマホの番号は変わっていない。けれど、まさかまだ青峰に覚えられているとは思いもしなかった。

これまで一度も青峰から連絡を受けたことなんてなかったのに、今日に限ってわざわざ電話をかけてくるなんて、一体どんな用なんだろう。 「ごめん、仕事でスマホ全然見てなくてさ。気付かなかった」

白々しくならないように努めて明るく声を出すと、青峰はぶっきらぼうに言葉を続ける。
「今どこだよ」
「知り合いの人と飲もうとしてるとこ」
「男か?」
「うん」
「……」
「青峰?」

少しの沈黙の後、電話越しにでも分かるほど不機嫌な声になった青峰が「付き合ってる奴?」と続けた。元々低い声がさらに低くなって、騒がしい居酒屋の中ではスマホを耳に押し付けていないと聞き逃してしまいそうだ。
「……だったら何なの」

つい見栄を張ってしまった。これからどうなるかは分からないけれど、少なくとも今は、私と彼は付き合ってはいない。これからどうなるかは分からないけれど、今はまだお知り合いにすらなっていない関係だ。だけどそれが青峰にとって何だというのだろう。これから新たな恋を見つけようとしているところだというのに、水を差すようなことをしないでほしい。

再び沈黙が流れる間、耳元からスマホを離して画面を見ると、待ち合わせ相手から仕事を片付けて会社を出たという旨の連絡が入っていた。ここから彼の会社まではそう離れていないし、十分もしないうちに合流出来るだろう。
「何も用事ないなら切るよ。そろそろ相手の人来ちゃいそうだし」
「待てよ」
「何?」
「マジで分かんねーのか?」
「だから何が?」
「……オレ今帰ってきてんだけど」

知っているとも。SNSもニュースも雑誌も、青峰の動向が載っているものは毎日欠かさずチェックしている。けれど、それをこの男に知られるわけにはいかなかった。何でもないような響きになるように気をつけながら、慎重に言葉を返していく。
「知ってるよ」
「じゃあ何で会いにこねーんだよ」
「は?」

努めて慎重に、そして冷静に話そうと思っていたのに、思いもよらない青峰の言葉に素っ頓狂な声が出てしまった。
「何言ってんの」
「お前オレのこと好きなんだろ」
「す、好きじゃない」

動揺しているのがバレバレの声色だった。好きじゃない。何度も何度も心の中で繰り返して、自分に言い聞かせるようにして、それでやっとそう思えるようになったのに、どうして蒸し返すようなことを言ってくるんだろう。遠い世界にいるくせに、私を置いていってばかりのくせに、どうしてついこの間会ったばかりのように電話をかけてこられるんだろう。

考えれば考えるほど、腹立たしさが募っていく。 「……会いに来てほしかったの?」

ほんの少し、意地悪をしてやろうという出来心だった。
「だったらなんだっつーんだよ」

けれど、返ってきた予想外の台詞に返す言葉を失ってしまう。
「ほんとに言ってるの?」
「こんなん冗談で言うかよ。オレも忙しいんだっての」
「だって……」

青峰が忙しいなんてことは百も承知だ。慌ただしいスケジュールの合間を縫っての帰国であろうことは容易に想像がつく。その彼が、こうしてわざわざ電話をかけてきていて、そして、私に会いに来てほしがっている。青峰でない男の人と会うということを聞いて、機嫌を損ねてしまっている。このことが一体何を示すのかが分からないほど、もう子どもではないつもりだ。
「ねえ青峰」
「あ?」
「はっきり言ってくれなきゃ分かんないよ」
「……」
「ちゃんとどう思ってるのか教えて」

電話の向こうの青峰がどんな顔をしているのか手に取るように分かる気がして、どんどん楽しい気分になっているのが自分でもよく分かる。スターでもカリスマでも何でもない、私のよく知る彼の顔を頭の中で思い浮かべた。

この男のたった一言で、私は、何もかもを投げ出して一直線に駆け抜けていく準備さえも整っているというのに、青峰は沈黙を貫いたまま一向に口を開こうとしない。

それでも、私はきっと一生涯ずっと、このたった一人の男のことを好きだと思わずにはいられないのだろう。そういう星の下に生まれついてしまったということは、他の誰でもない私が一番よく分かっているからだ。

意を決したかのように電話の向こうの空気が揺れる。追いかけてばかりの恋が終わる予感に、私の胸は弾むばかりだった。

20220730 ジュゲムジュゲ夢vol.5展示作品

テーマ「追う/追われる」

夏が来ると青峰の話が書きたくなります