どこにもいけないそんな気がした

初めてしのぶちゃんとカナエさんに会ったとき、姉妹揃ってあんまりにも綺麗に笑うものだから、治療を受けている最中だというのに「女神様って本当にいるんだなあ」と馬鹿みたいなことを思った。思えばあのときあの瞬間から、私が鬼狩りとして生き続ける理由なんて決まっていたのかもしれない。


こんなことを言ったら怒られるかもしれないけれど、鴉の声を聞くのは実はあんまり好きじゃない。彼らが騒ぎ出すときは決まって、無茶な任務を言い渡されるか誰かの訃報が届くときだったから。

初めて鬼殺隊で友達になった女の子が任務で死んだと聞かされたとき、蝶屋敷の隅で一人で泣いた。友達になれたと思った。だけどいなくなってしまった。何度お墓に足を運んでも、もう二度とあの子と一緒にお菓子を食べたり買い物に行ったりすることは出来なくて、せめてあの子を殺した鬼をこの手で倒そうと思っても何の手がかりもなくただ月日が経つばかり。その間にも、鬼殺隊では次々に人が死んでいく。鴉が見知った人の名前を告げるその度に身を引き裂かれるような想いがして、その回数が十回は過ぎようかとなった頃、もう鬼殺隊で友達を作るのはやめようと思った。

そうして歳の近い女の子と任務や蝶屋敷で顔を合わせてもあまり会話をすることがなくなった私を、以前と同じように気にかけてくれたのは私よりもうんと階級が上のしのぶちゃんだけだった。

初めて会ったときのしのぶちゃんは、今よりももっと勝ち気で、背も小さくて、お姉さんのことが大好きな女の子だった。私たちみんなの憧れのお姉さんだったカナエさんは優しいのにとても強くて、剣を振るう姿すらも美しくて、鬼にだって必要以上の怒りを向けたりはしない、よく出来た人だった。柱として、そして蝶屋敷の主人として鬼殺隊を支えるカナエさんはとても忙しい人だったけれど、たまに休みがあると私たちを美味しいお菓子を出すお店に連れて行ってくれて、爪を綺麗に塗ってくれて、どうやっても流行りの髪型に出来ない不器用な私の髪を代わりに結ってくれたりもして、大好きだった。だけどそんなカナエさんも私たちを置いていなくなってしまったとき、私は、ああこの世に神様なんていないんだと思った。

泣きながら皆でカナエさんのお骨を拾った後、一番に泣き止んで元通りになったのはしのぶちゃんだった。誰よりも辛いはずなのに、その日以降はずっと笑顔を絶やさなくて、来る日も来る日も鬼を倒すことが出来る毒の研究に没頭して、遂には何百人もいる鬼殺隊の中でも九人しかいない――お姉さんと同じ柱にまで上り詰めた。その間にあの子がいくつ眠れない夜を過ごしたのかを、私は知らない。

しのぶちゃんはどんどんとカナエさんのようになっていった。顔を合わせる度にしかめっ面ではなく優しい笑顔を浮かべていることが増えて、次はいつ任務に戻れるようになるのか不安を抱える私たちに穏やかでこちらまで心安らぐような言葉をかけてくれて、佇まいは花のように可憐で、怪我をして上手く手を動かせないときには私の髪を結ってくれることもあった。しのぶちゃんの結ってくれた髪はどれだけ動いても全然解けなくて、お風呂に入るときに少し苦労してしまったほどだ。

しのぶちゃんは何でも出来た。あんな小さい身体でも毒を使って鬼を倒せるし、怪我の診察もしてくれるし、美味しいご飯も作ってくれて、落ち込んだときには一番に気が付いて声をかけてくれる。


私はそんなしのぶちゃんを見て凄いなあと思う一方で、きっとこの人には何があっても敵わないだろうなと感じたのだ。



隠の人たちに担がれて蝶屋敷に運び込まれる回数が二十回を超えたときから数えるのはやめた。そんなものを数えたって、鬼殺隊の一員として在る以上は意味のないことだと気付いたからだ。鴉から指令が出るたびに鬼が出るところまで駆けていって、死に物狂いで鬼を倒して、その度に怪我をして、隠の人に蝶屋敷まで運んでもらって、しのぶちゃんに治してもらって、治るまでの間はアオイちゃんたちに面倒を見てもらう。それの繰り返し。どれだけ手酷い怪我を負ったって、命があるだけ、刀を振れる手足が残っているだけ、また次の任務に行くことが出来るだけ私は幸せだと思う。そうだ。落ち込んでいる暇なんてない。

けれど、身体は正直と言うべきか、せっかくアオイちゃんたちが用意してくれる食事もまったく喉を通らなくなってしまった。理由は分かっている。この間の同じ任務へと赴いた鬼殺隊隊士五人のうち、生きてここへ戻ってこられたのは私だけだったから。
「身体の具合はどうですか?」
「……うん、大丈夫だよ。今日はちょっとだけだけどお粥も食べたから」
「そう。なら良かったです」

アオイちゃんたちではどうにもならないことが起こったときに呼び出されるのはしのぶちゃんで、それが分かっているから迷惑をかけるようなことは何もしたくなかったのに、結局病室まで足を運ばせることになってしまった。柱として、そして蝶屋敷の主人として忙しいはずなのに、しのぶちゃんは定期的に病室へと顔を出してくれる。
「大分身体も動くようになってきたし、そろそろ機能回復訓練にも参加できるかな?」
「もう少し安静にしていないとダメですよ」

そうしのぶちゃんが答えた声は風鈴の音のようで、チュンチュンと鳴く鳥の声が聞こえてくる窓の外へと視線を移す。もうどれくらいここにいるんだろう。今日って何月何日なんだっけ。あとどれくらいの間、私はここにいないといけないんだっけ。

こうして私がぬくぬくと布団に包まっている間にも、鬼に苦しめられている人たちや死んでいく仲間がいるかもしれないのに。いつのまにか鬼殺隊でもかなり年上の方になってきている私は、いよいよカナエさんの年を追い越してしまったというのにいつまで己の無力さに打ちひしがれなければいけないのだろう。
「――見ますか?」

しばらくボーッと鳥の群れを見ていると、後ろからしのぶちゃんの声が聞こえた。てっきり出て行っているものと思っていたのに、彼女はまだそこにいてくれたようだ。窓の外へやっていた視線を後ろにいるしのぶちゃんに戻してから首を傾げる。
「何を?」
「フグです」
「……そんなの蝶屋敷にいたっけ?」
「金魚ですよ」
「金魚?」
「ええ。私が飼ってるんです。あなたには見せたことがなかったから……ちょっと待っててください」

部屋を出て行ったしのぶちゃんがすぐに金魚鉢を持って戻ってくる。水の中でゆっくりと泳ぐ金魚は丸々としていて、飼い主にたくさん可愛がられているのであろうことが分かった。
「この子がフグ?」
「ええ。可愛いでしょう」
「おっきいね」
「禰豆子さんが毎日餌やりをしてくれるんですよ」

そう言いながらしのぶちゃんが嬉しそうに顔を綻ばせるものだから、私まで嬉しくなってしまった。寝台脇の椅子に腰掛けたしのぶちゃんの膝の上に置かれた鉢をじっと見つめていると、目を伏せたしのぶちゃんの手が私の手に重ねられ、上からぎゅっと握られる。
「しのぶちゃん」
「……元気を出してほしいと思ったんだけど、いらぬ気遣いだったかしら」

そこには蝶屋敷の主人でもなく、鬼殺隊の柱の一人でもなく、ただの一人の女の子のしのぶちゃんがいた。私が友達になった、そして私の女神様だった女の子だ。胸の奥の方がぽっと熱くなって、指先までなんだか暖かくなってきたような気がして、気恥ずかしい心地がする。重ねられているしのぶちゃんの手からそっと自分の手を離して寝台の上で姿勢を整えてから息を吐き出すと、しのぶちゃんが優しい顔をしてこちらを見ているのが分かって尚更恥ずかしさを覚えた。
「もっと近くで見たらどう?」
「ええっ? うーん、それはちょっと怖いからいいかなあ」

しのぶちゃんの膝の上に置かれた鉢の中でゆらゆらと揺らめいている金魚を遠巻きに眺めながらそう答えると、「怖がりね」と言ってしのぶちゃんが笑った。しのぶちゃんの笑った顔はとても綺麗で、鬼殺隊の柱として鬼を相手に毎日のように剣を振るっているのがまるで嘘のようだった。



厄介な鬼だった。爪や牙だけでなく何やら毒のような血鬼術まで使ってこちらの身体の自由を奪ってから喰おうとしてくるものだから、夜明けが来る直前まで手を焼かされた。駆けつけてくれたしのぶちゃんが鬼の身体を刀で刺してくれなければ、もしかしたら私も他の隊士と同じように喰べられていたかもしれない。

刀に仕込まれた毒にとどめを刺されて消滅していった鬼の断末魔を聞いた後、振り返ったしのぶちゃんに「怪我は?」と訊ねられ「ちょっと目に当たっちゃったかも」と答えると彼女の顔色が変わったのが分かった。てきぱきと隠の人たちに指示を出した後で「一緒に蝶屋敷まで帰りましょう」と言ってきたしのぶちゃんに頷いて、「転ぶといけないから」と差し出してくれた手をぎゅっと握る。

それから歩いて蝶屋敷に戻った後、迎えてくれたなほちゃんに「ここで寝てください」とついこの間まで寝かされていた寝台と同じものが宛てがわれたものだから、眼帯を付けて片方だけしか見えなくなった視界の中で「またここに帰ってきちゃったよ」と戯けるようにして言うと、なほちゃんが困ったような顔を浮かべているのがぼんやりと見てとれた。

一週間経っても私の目の調子が戻らないと聞きつけたのか、しのぶちゃんが病室に顔を出しに来てくれた。ちょうど食べているところだったおにぎりとたくあんを一旦傍に置いて、椅子に腰掛けこちらを見ているしのぶちゃんへと向き直る。
「痛みますか?」
「痛いっていうか、……なんか、見えにくい感じ」
「……そう」
「ちゃんと治るのかな」
「大丈夫ですよ。きっと治ります」

だから安静にしていてくださいね、と言った彼女の言葉が嘘だと分かったのは、それから少し後のことだ。

二週間経って、身体の方は問題なく竹刀を振れるようになった。機能回復訓練も柔軟の方は順調。けれど、機能回復訓練では賄えないほどに視力が下がっているのが分かった。

どれだけ瞬きをしても薬を飲んでも霞がかったように視界が晴れなくて、物がどこにあるのかもちゃんと認識できず、剣を握っても狙ったところに当てられない。これでは任務に戻ることが出来ないであろうことは、誰に言われずとも分かっていた。

これまでなら、例えどんな怪我を負っても生きてさえいれば呼吸としのぶちゃんの治療のおかげで時間さえかければまた鬼狩りに戻ることが出来ていたのに、むしろ日が経つごとに見える範囲が少なくなってきているのが分かって、寝ても覚めてもぼやけたような視界にどんどんと憂鬱な気分が高まっていって、また食事が喉を通らなくなった頃。再びしのぶちゃんが病室へとやってきた。
「悲鳴嶼さんのところへ行きましょう」
「えっ何で? 岩柱様でしょ? 私会ったことないよ」
「大丈夫。とても優しい方ですよ」

しのぶちゃんが私を悲鳴嶼様に会わせた理由はすぐに分かった。この人もまた、目が見えない人だったのだ。

姿勢を正して正座をする私の前で両手を合わせた悲鳴嶼様は、私たちの話に最後まで静かに耳を傾けてくれた後、こちらに向かって一言「……目が見えずとも鬼と戦う覚悟はあるか?」と訊ねた。その質問には答えられなかった。黙り込んでしまった私を見て、悲鳴嶼様はただその両目から涙を流した。

憐れだ、と言われているような気がした。


その日中に蝶屋敷まで帰るつもりだったけれど、悲鳴嶼様の家はものすごく山奥にあって、もうすでに家の外は真っ暗だった。「指令がないなら泊まっていきなさい」と言う悲鳴嶼様の声にしのぶちゃんの方を見ると、ただ微笑んで頷いてくれたのを見てお言葉に甘えることにする。

蝶屋敷で夜を明かしたことは数多くあれど、しのぶちゃんと布団を並べて眠るなんて初めてだ。そういえば、これまで同じ任務に行ったことはあっても藤の家に一緒に世話になることはなかったような覚えがある。病室でもない部屋に二人で布団を並べて同じ天井を見ていることがなんだか特別なことのように感じられて胸がドキドキとしてしまうのは、さすがに不謹慎すぎるだろうか。
「しのぶちゃん」

肩まで布団に包まって横を向くと、こちらに向けられたしのぶちゃんの小さな背中が目に入った。呼びかけてみても返事はない。寝ているのかな、と思いながら瞬きをして暗闇の中で目を凝らしてみると、しのぶちゃんが肩を震わせて泣いているのが分かった。

そのとき私は、しのぶちゃんを悲しませてしまったということよりも、まだ私のために泣いてくれる人がいるということが嬉しくて、弛みそうになる頬を気取られることのないように布団を頭の上まで被って浅い呼吸を繰り返した。動悸が落ち着いた頃に顔まで引き上げていた布団を下ろして様子を伺うと、相変わらずしのぶちゃんはこちらに背を向けているままだった。目線が合わないのをいいことに抱きしめたくなったのをすんでのところで思い止まり、伸ばしかけた手を再び布団の中に戻す。それから少し経って、しのぶちゃんの方から何も聞こえなくなった頃を見計らって「おやすみ」と一言かけてから、反対側を向いて目を閉じた。

静かな部屋で目を瞑っても、瞼の裏に浮かぶのはやっぱりしのぶちゃんの顔だった。しのぶちゃんは鬼を倒せる毒を作れて、たくさんの薬を調合出来て、私たちの傷ついた体を治してしまう凄い人だけれど、万能じゃない。

神様なんかじゃなかったのだ。



行きよりもうんと時間をかけて蝶屋敷に帰った。わざとゆっくり歩いているようなしのぶちゃんに「早く戻らなくていいの?」と尋ねると、「アオイたちはしっかり者ですから。しばらくの間私がいなくても大丈夫ですよ」と返ってきた言葉に「そっか」と返事をして、腹の底から込み上げてくる嬉しさを噛み締めつつ歩いていく。

鬼殺の修行である程度は感覚も鍛えているとはいえ、視界が悪い中で山を下りるのは大変だった。悲鳴嶼様はこんな中でも毎日欠かさず鍛錬をしていて、しかも柱の中でも相当な実力者というのだから凄い人だ。しのぶちゃんが尊敬しているのも分かる。

私が転ばないようにと前を歩きながら手を引いてくれるしのぶちゃんに、昨日泣いているのを見てしまったことは言えなかった。思い返してみれば、十四歳で蝶屋敷の主人になったときからしのぶちゃんが弱音を吐いたところを私は見たことがない。いつだって、励まされているのは私の方。だけど、私はこの子に一体何が出来ていたのだろう。与えてもらってばかりで何一つとして返せていやしない気がする。

蝶屋敷まであと半分のところまで来た。……この道のりが終わったら、しのぶちゃんはまた蝶屋敷の主人に戻る。一日付き合わせてしまったけれど、それももうすぐ終わってしまう。そう考えると名残惜しくなってしまって、歩く速度が落ちた私にしのぶちゃんが「休憩にしましょうか」とかけてくれた言葉に頷いて、二人でその辺りにあった石の上に腰を下ろした。悲鳴嶼様が持たせてくれた水筒から水を飲む。山奥の川で汲んできたという綺麗な湧き水と、その水で炊いたご飯で作ったおにぎりはとても美味しかった。一つ目のおにぎりを平らげ二つ目に手を伸ばしたところで、しのぶちゃんのおにぎりが全然減っていないことに気付く。どうしたのと尋ねるより先に、冴えない顔をしているしのぶちゃんが口を開いた。
「……本当は、あなたにこうなるまで鬼殺隊にいてほしくなかった」
「……」
「カナヲもそう。……でも、鬼を倒したい想いは皆同じだものね」
「うん。……ごめんねしのぶちゃん。でも私、鬼殺隊に入ったこと後悔してないよ」

もしも悔やむことがあるとするならばそれは、彼女と同じ高みへいけなかった自身の不甲斐なさくらいだろうか。私がもう少し強かったら、誰の手も借りずに鬼を倒せるくらいに強かったのなら、そうしたら、あんな血鬼術に手を焼くことも、皆に心配をかけることも、しのぶちゃんを悲しませてしまうこともなかったのかもしれない。

しのぶちゃんにそんな顔をさせたくなかった。傷ついてほしくなかった。出来ることならささやかでもありふれた幸せを掴んでほしかった。ずっと笑っていてほしかった。だけどもう戻れないのだ。何も知らず、そして何も奪われずに生きていたあの頃には。

後悔していないという私の言葉を聞いて一瞬だけ目を見開いた後にすぐ控えめな笑顔に戻ったしのぶちゃんの顔を見ていたらもう残りのおにぎりを食べる気にもなれなくて、水筒と一緒に鞄に入れてから「そろそろ行こっか」と声をかけて蝶屋敷に向けて再び歩き出す。少し躊躇っているような様子のしのぶちゃんの手を今度はこちらから握ると、やっと嬉しそうな顔をしてくれたのを見て救われたような気持ちになった。

私はこのとき、最後に目に焼き付けられたのがしのぶちゃんの笑った顔でよかった、と確かに感じたのだ。

ねえしのぶちゃん、たくさん優しくしてくれたのにごめんね。いっぱい薬も作ってくれたのにごめんね。悲しい顔させちゃってごめんね。せっかく大事な金魚見せてくれたのに「可愛いね」って言ってあげられなくてごめんね。……今までありがとうって言えなくてごめんね。

だけど、もう、何にも見えそうにないや。

7月3日発行予定の短編集「どこにもいけないそんな気がした」より先行収録

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