春のひとつも知らないくせに

平均身長180センチ越えの大男4人組でさえいとも容易く人ごみに紛れてしまうのだから、東京というのは本当に恐ろしいところだ。


「こっちで本当に合ってんの?」
「国際線のターミナルってどこだよ」
「これで乗り遅れたらウケんね」
「ウケないよ!?ほら岩ちゃん何してんの早く!走って!」
「うっせえ引っ張んじゃねえクソ及川!誰のせいだと思ってんだボゲェ!!!」

うるさいなぁ。せっかく地元を飛び出して大都会・東京に来たというのに、宮城にいる時と変わらぬ騒がしさなのはどうにかならないものなのだろうか。そう思いながら、人一人は詰め込めそうな大きさのスーツケースをゴロゴロと転がしながら空港内のターミナルを疾走する4人を追いかけていく。

学校では他のみんなよりも頭一つ分は抜けているおかげで見失うことなんてまるでなかったあの4人も、さすがにここまでだだっ広くて人が多い空間では気を抜いたらすぐに見失いそうになってしまう。しかも全員揃いも揃って足が速いものだから、ちょっと目を離した隙に本当に置いてけぼりにされてしまいそうだ。こんなところで一人だけ迷子になったら困る。

せめて及川が飛行機に乗るところまでは何としても見届けなくちゃいけない。

やっとの思いで追いついた国際線ターミナルで、大きなスーツケースを抱えてバタバタとチェックインカウンターへと駆けて行く及川が目に入った。走ったせいで乱れた前髪と息を整えながら、ベンチで休憩している花巻の隣に腰を下ろす。それからじっとカウンターの列に並んでいる背中を眺めてみても、パスポートを握りしめて紙に書かれたフライト番号をしきりに確認しているらしい及川とは一度も目が合わなかった。……せっかく、今日の感動の別れに備えてちゃんと髪だって巻いてきたんだけどなぁ。ちょっとぐらいこっち向いてくれたっていいじゃん。



及川徹はこれから18,000キロの距離を飛び越えて私の知らない場所へ行く。アルゼンチンでプロのバレーボール選手になるのだそうだ。それを初めて彼の口から聞かされたとき、私は予想外の展開のあまり、ただ彼の口から飛び出してきた単語をオウム返しに聞き返すことしか出来なかった。
「アルゼンチン?」
「そう。アルゼンチン」
「……どこだっけ」
「ブラジルとか大体そのあたり」
「地球の反対側じゃん」
「そうだよ」

ここから見て地球の反対側、距離にして約18,000キロ。縁もなければゆかりもなくて、地理の授業で耳にすることがあったかどうかさえ怪しい。

そんな土地に、春になったら及川徹はたった一人で旅立つのだという。

彼の進路を聞かされたのはしんしんと雪が降り積もる冬真っ只中の登校日のことで、それからというもの、私の頭の中は見たこともない異国の景色でいっぱいになった。アルゼンチンの位置、首都の名前、公用語、観光客に人気のスポット、日本との時差。ついこの間まで何一つとして知らなかったのに、もうすぐ桜が咲き始める今では空で言えることばかりだ。

及川がこれから住むことになる街は、朝5人で出てきた宮城のあの町とどのくらい違うんだろう。そんなことを考えているうちに、チェックインの手続きを済ませてようやくスーツケースから解放されたらしい及川が戻ってきた。
「ちゃんと乗れそう? 飛行機」
「何とかね。もうちょっとで遅刻するとこだったよ、岩ちゃんのせいで」
「お前がチンタラ土産とか見てるからだろうが!」

クソ及川!と悪態をつく岩泉の声がターミナルに木霊する。……一応余裕持って空港には着いてたんだし、向こうの方に及川の家族も来てるらしいし、そんな大きい声でクソとか言わない方がいいんじゃないかなぁ。今更かもしれないけど。

「今からどーすんの?」という花巻の言葉にいそいそとパスポートを鞄にしまった及川が時計を確認しながら答える。
「セキュリティチェックとか審査とかあるんだって。今度はあっち。結構混むらしいしそろそろ行かなきゃね」

あっち、と言って及川が指差した方向には、既にたくさんの人が次のゲートを目指して歩いている姿があった。

私たちが見送りに来れるのはここまでだ。保安検査場の向こうへは一緒には行けない。もう直に及川とは別れなくちゃならない。ただでさえ慣れない広い場所で、いつまでもただ闇雲に時間を過ごしているわけにもいかないし、向こうの方にいる家族の人とも最後に色々話したいこともあるだろうし。

正真正銘これが最後の会話になるというのに、相変わらずくだらないことばかりを話している及川たちを見ると本当に最後なんだろうかという気がしてくる。思えばいつだってこうだった。最後の大会の日も、卒業式のときも、部員みんなでお別れ会を開いたときも、あまり実感は湧いてこなくて、明日になったら、またこうしてみんなで会えるような気がしていた。けれど、あと2時間もしないうちに及川徹はもう手の届かない遥か遠くの空へと旅立ってしまうのだ。


私たちが東京体育館のセンターコートに足を踏み入れる機会はとうとう高校三年間で一度もやってこなかったから、みんなで東京に来る機会なんて訪れることはないのだろうと思っていた。それが、こんなことになるなんて。せめてこれが卒業旅行とかだったらよかったのにと、思わずにはいられない。

花巻や松川とのおしゃべりがひと段落ついたところで、時計を確認している及川の隣の方へ近寄っていく。岩泉は及川の家族と少し話しているらしい。「緊張してる?」と声をかけると、「まあね」といういつもの調子の言葉が返ってきた。
「スペイン語ちょっとは喋れるようになった?」
「全然。数字読むのも怪しいくらい」
「私の名前は及川です、好きな食べ物は牛乳パンですぐらいは言えるようになっといた方がいいんじゃないの」
「いいんだよ、お世話になる人には日本語通じるんだし。それに牛乳パンあっちにはないから」

どうせならもっと国際的なやつにしてよね、と文句を言っている及川の横顔を眺めながら、及川の言うところの『あっち』へと想いを馳せてみる。知り合いも、家族も、友達も、通じる言葉も、好きな食べ物も、何一つとして存在しない遠く離れた異国の地まで憧れを追いかけて飛ぼうという彼は、いつから今日のことを考えていたんだろう。及川の英語の成績が飛び抜けて良いというのは聞いたことがなかった。スペイン語が話せるなんて話は聞いたこともない。それが、突然のアルゼンチン。

どうにも上手く飲み込めなくて、「いつ帰ってくるの?」と訊ねた私に、あのとき及川はただ一言「帰らないよ」と答えた。そして私は、その後すぐに及川が続けた「全員倒すまではね」という言葉に「全員って誰のこと?」と聞き返す気にはなれなかった。及川が全員と言ったら、それは全員だ。とうとう高校三年間で一度も倒すことが出来なかったウシワカ、最後の最後で私たちよりもほんの少しだけ上だった烏野、まだ見ぬ世界の強豪選手、オリンピックの舞台でその名を轟かせるようなスーパースター。その全員を倒さないと及川は満足しない。正真正銘ナンバーワンにならない限り、私やみんなが待つあの町にはきっと帰ってこないのだ。

別れの時刻が刻一刻と近づいてくる。家族や友人に囲まれてまだ見ぬ未来への野望をその瞳に輝かせている及川の背負うボストンバッグのポケットには、空港に来る途中に寄ったコンビニで花巻が半ば嫌がらせのように及川に押し付けた牛乳パンが無造作に突っ込まれたままになっていた。



保安検査場の方へと消えていく背中を見送った後、ファストフード店でハンバーガーを食べたりウィンドウショッピングをしているうちに2時間なんてあっという間に経っていて、フライト予定時刻を少し過ぎた頃、私たちは4人並んで展望デッキから及川が乗っているかもしれない飛行機の群れを眺めていた。ぐんぐん遠くなる飛行機を目で追って、果たしてあのうちのどれに及川は乗っているんだろうと考えながら呟く。
「湯田っちたちも呼べばよかったかな」
「もう荷造りして大学の方いるらしーぞ」
「みんなあと一週間もしたら大学生だもんね」
「一、二年は練習あるしな」
「みんな及川のこと見納めになるってのに薄情だよねえ」
「見納めだって。大げさ」
「着いたらメールするって言ってたじゃんアイツ」
「部員総出でお別れ会もやったし」
「今更感動の別れってのもちょっと違うっつーかな」

なんてドライなんだろう。いや、それとも男子ってこういうもの? 最早どれが及川の乗っているものかも分からないほどに小さくなってしまった飛行機の影を追いながら、今生の別れになるかもしれないと感傷に浸っている自分の方がおかしいのではないかという気持ちにさえなってくる。
「岩泉は寂しくないの?」
「別に」
「でも及川とずっと一緒だったんでしょ?」
「その言い方やめろ。一生会えなくなるわけじゃねえし」
「そうだけど。すぐに会えるわけでもないじゃん」

なんといっても地球の裏側だ。フライトだって乗り換えを含めて丸一日以上かかるらしい。これから皆で新幹線に乗って宮城に帰って、家で夕食を食べてお風呂に入って布団の中で眠りに就いても、まだ及川は空の上にいる。

そうまでしてでも手に入れたい夢が、日本にいたら叶えられない夢が、あの男にはあるからだ。
「言わなくてよかったのかよ」
 空を見上げながらぼーっとしている私に向かって岩泉が呟いた。
「何が?」
「別に。……お前がいいならいいけど」

それ以上追及してこなかった岩泉の不似合いな配慮を、今は有難いと思った。言い出すタイミングが見つからなくて、とうとう伝えられずじまいだったけれど、きっとこれで良かったんだと思う。知らず知らずのうちに私にたくさんの傷をつけたあの男に、消えない傷をつけてやりたかったし、今生の別れになるくらいならみんなの前で唇の一つでも奪ってやればよかったと考えないわけじゃない。けれど、それをやったところできっと結果は何も変わらなかっただろうと思う。及川徹を惹きつけるのは私じゃなくて、いつ何時も、バレーボールただ一つだったからだ。


東京の桜はもう蕾を大きく膨らませている。飛行機から視線を下ろして遠くに立ち並ぶ木々を眺めながら、仙台駅周りの雪はもう溶けただろうかと想いを馳せた。あと数日暖かい日が続けば、あの桜も花開くだろう。そのときにはもう、及川は遠い海の向こうだ。

どれだけ別れを惜しんだところで変わらず季節は巡って、私たちは一つ大人になって、高校生のあの日にはもう二度と戻れなくて。もう少しだけ季節が進んだら、私と、遠い街にいる及川の、それぞれの春がやってくる。

新しい春を迎えるすべての方へ祈りとエールを込めて