ううんと静かな狭間にて

※キメ学軸


雨は嫌いだ。何一つとしてこちらの思うように世界は回っていないのだということを、思い知らされてしまうから。


近頃の天気予報は精度が随分と高くなったと思うけれど、それでもやはり百パーセント当たるとは言い難い。定時間際に飛び込んできた仕事を何とか片付け会社を出て、最寄りの駅へ辿り着こうという頃には終日晴れ予報だった空は徐々に雲行きが怪しくなっていた。鞄から取り出した定期券を使って改札をくぐってホームに入る頃には案の定ぽつぽつと雨が降り始めていて、電車の車両の窓が曇っていくのを横目にあと一歩のところで座り損ねてしまった座席の前の吊り革に掴まりながら長い長い溜め息をついた。

こういう日に限って鞄の底に入っているはずの折り畳み傘は玄関に置いたままにしてしまっていて、コンビニのビニール傘は売り切れていて、駅の外の地面を濡らし続けている雨脚はどんどん強まるばかりで、何もかもが思い通りにいかない。こうなるとしっかりカタをつけてきたはずの仕事も何かミスがあるように思えてならないし、車窓の外のこのどんよりとした天気さえも自分が過去に起こした何かしらの失敗の結果のような気がしてくる。

こうした気分のときはさっさとベッドに横になって眠ってしまうのに越したことはないと分かってはいても、このどしゃ降りの雨では濡れずに家まで辿り着くことは出来なさそうだ。帰ったらすぐにお風呂に入らないとな……と思いながら天気予報をもう一度確認しようとポケットからスマートフォンを取り出すと、天気のアプリの隣にあるメッセージアプリがふと目に留まった。少し頭を悩ませてから、画面をタップしてアプリを開く。開く前から新しい通知が届いていないことは分かっていたけれど、もしかしたらもしかするかもしれないと思ったのだ。

けれど、やっぱり実弥くんからの連絡は私には届いていなかった。

教師として働く彼は忙しい身だ。ここ最近は期末テストの問題を作成したり、夏休みに向けた準備をしたりで殊更に忙しい日々を送っているらしい。理知的で道筋のないことを嫌う数学教師らしいと言うべきか、彼が送ってくるメッセージはいつも事務的で、メッセージアプリのログには「おはよう」や「おやすみ」なんて他愛のないメッセージは一つもなく、待ち合わせの時間に遅れることや休日出勤になったことを知らせる言葉ばかりが並んでいる。そしてそれに返す私の言葉も「分かった」の一言だけという、ひどく素っ気ないものだった。

たとえ恋人相手であろうとも連絡をマメに取り合いたいと思うようなタイプではないし、毎日顔を合わせるのが義務化されたような関係は少し息苦しく感じてしまうし、同じ職場で働いているわけではないから休みだって合わせられなくて当然だ。週に一度、もしくは月に何度か仕事帰りに待ち合わせてご飯を食べに行ったり、気になるイベントや映画があるときには休日を狙って声をかけてみたりと、今の私たちはラブラブとは言い難くとも付かず離れずの大人の付き合いというものが出来ていると思うし、実際に普段の私はそれで満足していた。たとえ実弥くんから誘ってくることがなくたって、私の誘いに嫌な顔をされることがなければそれでいいと思っていたのだ。

しかしそうした私であっても、こうも徒歩や車で迎えに来てくれている人と肩を並べて次々に改札口から去っていく人たちを眺めていると、どうにも抗いようのない人恋しさがむくむくと身体の底から湧き上がってきてしまう。行手を阻むような勢いで降っている雨に足止めを食らうしかない今の状況では尚更のことだ。

タクシー乗り場の前には長蛇の列が出来ている。その最後尾に並びながら、次々に誰かを迎えに来たのであろう車がロータリーに入ってくるのを見て、果たしてタクシーの順番が回ってきて家に辿り着く頃には何時になるのかと考えると憂鬱な気分だった。こうしたときに「迎えに来てほしい」と言える誰かが私にもいればいいのにと、考えずにはいられない。

迎えに来てほしい誰か――と考えて一番に思い浮かぶ顔はもちろん実弥くんの顔だけれど、きっと今も学校に残って仕事を片付けているのであろう彼にそんな負担を強いたいとは思えなかった。むしろ、実弥くんはこの雨に濡れずに家に帰ることが出来ているだろうかと心配になってくる。

長男として兄弟の面倒を見る立場にあるためか、あの人は如何せん自分の体調に無頓着なところがあるからだ。きっと今日も傘を持たずに家を出てきているに違いない。

……ちゃんと家に帰れているかぐらい、連絡したって構わないだろうか。どうせタクシーもしばらくは順番が回って来ないだろうし、その間の暇つぶし――と言ってはなんだけれど、連絡を取る口実としてはこの雨はちょうどいいかもしれない。

そう思って再びメッセージアプリを開き、「今日はもう家に帰ってる?」とだけ打ち込んで送信する。するとすぐにそのメッセージに既読がついたものだから驚いてしまった。普段、実弥くんは仕事中は滅多にスマートフォンを触ったりしないのに。

彼から返ってきたのは一言だけだった。
「お前は?」

少し悩んでから、正直に雨宿りで駅の改札から動けないでいることを申告することにする。こんなところで嘘をついたって仕方がないと思ったからだ。 「雨止みそうにないから駅でタクシー待ってるよ」

そのメッセージにもすぐに既読がついたところを見ると、今日はもう仕事は終わっているのかもしれない。タクシーが来るまでのほんの少しの間だけでもいいからこのままやり取りを続けてくれないだろうか。そうしたら、この人恋しさも少しは埋められるような気がする。

しかし私のそうした思いとは裏腹に、実弥くんからの次のメッセージはなかなか私のスマートフォンに届かなかった。やっぱり仕事中だったんだろうか。それなら悪いことをしてしまったかもしれない。もう一度メッセージを送るかどうか迷っていると、タクシーの順番待ちの列が少し進んだのが分かって前へと歩みを進める。

するとちょうどそのとき、手のひらの中でスマートフォンが震えた。画面に表示されている「前」「見ろ」とだけ書かれたメッセージに顔を上げると、そこには見覚えのある車が停まっていた。手に持っていた鞄で頭を覆うようにして、小走りに、けれど恐る恐る近づくと、助手席側の窓がゆっくりと開いて、運転席に座る見知った顔と目線が合う。

そこにいたのは紛れもなく、今まさに頭に思い浮かべていた私の恋人その人だった。
「な、何で」
「帰れねえんだろ。乗ってけ」
「え、でも……」

タクシーもうすぐ来るし、と言いかけた言葉を実弥くんが遮るようにして言う。
「……呼ばれなきゃ来ちゃいけねェのかよ」

私が言いたいことを察したらしい実弥くんが、口を尖らせながら「早くしろ」と急かしてくる。有無を言わせないその雰囲気と、どんどん車が入ってきて混雑するロータリーの様子に慌てて助手席のドアを開けて身体を滑り込ませた。

車の外にいたのはほんの僅かの間だけだったのに、それでも髪や服やバッグの至るところが濡れてしまっている。実弥くんの車の助手席のシートを汚してしまってはいけないと身を固くしていると、信号待ちでこちらに視線を寄越した実弥くんが「お前、タオルは」と言った。
「あ、さっきのでハンカチびちゃびちゃになっちゃって……」
「使え」

ドアポケットから取り出したタオルを投げて寄越される。随分と用意がいいなと思うと同時に、何も言わなくとも私の家の方角へとハンドルを切る彼の横顔に、もしかしてという想いが高まっていく。

もしかして、いやもしかしなくとも、私が雨でタクシーを待っているとメッセージに書いて送ったから、こうして迎えに来てくれたんだろうか。

いつだって実弥くんは優しいけれど、こんな風に優しくしてもらうのは初めてだ。……約束をしていないのにこうして顔を合わせるのだって初めてで、心の準備が整わない密室で眺める横顔に心拍数がどんどん高まっていくのを感じる。その視線を感じたのか、運転席でハンドルを握る実弥くんと再び視線が交わった。

「タクシーで帰る前に俺に迎えに来いって言おうとは思わなかったのかァ?」
「えっと、タクシーなかなか来そうになかったし、誰か迎えに来てくれたらいいなとは思ったんだけど……」

歯切れの悪い言葉を並べる私に、運転席から実弥くんの低い声が飛んでくる。
「じゃあ何で俺に言わねえ」
「実弥くん仕事忙しいかと思って……」
「はァ? 彼女迎えに来るぐらい仕事あっても出来るわ」

遠慮すんなと締めくくられた言葉に、鞄についた水滴を拭いながら俯く。実弥くんは忙しい身で、恋人だからと言ってベタベタした距離感の関係を築くような人でもなくて、だからこそ私はいつもこの人に連絡するための口実を探してしまっていた。甘えてばかりで鬱陶しいと思われない、ぎりぎりのラインを見極めながら。

けれど、もしかしたらそんなことはしなくても良かったのかもしれない。「会いたい」のたった一言で、「迎えに来てほしい」のたった一言だけで、私たちはいつでも理由を特に持ち合わせることがなく顔を合わせることが出来るのかもしれない。

今日の彼の様子は、私にそう思わせるには十分だった。

雨で混雑している道を車がゆっくりと進んでいく。私の住む家がどんどんと近づいてくる。返し忘れてしまってはいけない、と信号で停まったところで「これ、ありがとう」と言いながら運転席に座る彼に向かって手に持ったタオルを差し出すと、何故か「次会うときまで持っとけ」と断られてしまった。その言葉の意図が分からず首を傾げていると、「連絡してくんのにもいちいち理由がいるみたいだからなァ」と続けられた言葉に目を丸くする。
「理由がいんなら次はそれ返すの口実にしときゃいいだろォ」

その言葉を言った後の実弥くんは笑っていた。まるで私のこれまでの行動も、今抱えている戸惑いも嬉しさも、全部全部分かっているかのように。


雨は嫌いだ。何一つとしてこちらの思うように世界は回っていないのだということを、思い知らされてしまうから。けれど、なかなか恋人に「会いたい」の一言さえも言えない私がそれを言うための口実として使えるのなら、こんな風に雨に降られるのだって悪くないのかもしれないなぁ。

titled by へそ

先日のオンリーイベントではありがとうございました