ビー・スウェイ・バイ・ユー

気の置けない友人たちの言うことは大体正しいと相場は決まっている。最近の昼休みの時間の話題といえばもっぱら私と私の彼氏の話で持ちきりだ。お弁当箱を開け、玉子焼きを箸で突ついていると友達から投げかけられた「最近彼氏とはどう?」の質問に「別に何もないよ。最近一ヶ月くらいちゃんと会ってないけど」と答えるなり返ってきた大きな溜め息を聞きながら玉子焼きを一口で頬張ると、今度はもう一人から放たれた「やっぱり別れた方が良いんじゃないの?」の言葉にごくんと口の中のものを飲み込んでからゆっくりと左右に首を振った。
「だからすぐ別れ話に持ってこうとするのやめてってば」
「だってどう考えてもあんたのこと好きじゃないじゃんその彼氏。ていうか、えーっと、漆間くんだったっけ?年下でしょ?そもそも」
「うん」
「ボーダーで隊員やってんでしょ?」
「うん」
「忙しいし別れたいけどこっちの方が年上だから気を遣って自然消滅させようとしてんじゃないの」
「漆間くんはそんな人じゃないよ」

これだけは断言できる。漆間くんはそんな人じゃない。何故なら彼が『気を遣う』なんて芸当をした瞬間を、今まで私は目の当たりにした試しがないからだ。

彼氏のはずの漆間くんはここのところボーダーの任務ばかりで全く会えない日々が続いている。私も私で自分の隊の任務やランク戦があるから会えないのは漆間くんだけの所為じゃない。隊ごとに割り振られる任務もスケジュールもてんで違うから、長い間他の隊の人と顔を合わせないなんてボーダーの中ではよくあることだ。でも、この間なんてラウンジで見かけたのに目も合わせてくれなかった。こちらを一瞥もせず六田ちゃんと連れ立ってそそくさと立ち去ってしまったあの背中は今でも目にしっかりと焼き付いている。ろくに連絡を取り合うこともなければ唯一の繋がりのはずのボーダーですら会うこともないなんて、これじゃあ私の何が良くて付き合ってくれているのか全然分からないと友達に正直に打ち明けてみると「それってさぁ、好きじゃないんじゃない?」と返ってきた言葉に「やっぱりそうなのかな」不安のあまり情けない声が出てしまった。

それからというものランチの度に話題に上がるのは「漆間くんの私への態度は彼氏としていかがなものか」ということばかりで、私が漆間くんの肩を持とうと弁解すればするほど彼女たちの「別れた方がいい」という主張を勢いづけることとなってしまう始末だった。そうしてしばらく「別れた方がいい」「いや別れたくない」の押し問答が続いた後、ようやく食べ終わったお弁当箱に蓋をする頃には私たちの会話はいつもこのお決まりの台詞で締めくくられるのだ。「そんな奴やめときなよ」と。

やめとけと言われてやめられるのなら初めからこんな風に頭を悩ませたりしない。そう反論したいのは山々だけれど、彼女たちも善意で言ってくれているのが分かるだけに真っ向から否定するわけにもいかず、曖昧な返事をしているうちに今日もお昼休みが終わってしまった。スケジュールアプリを開いて今日の任務の予定を確認しても、そこに漆間隊の名前はない。せめて予定くらいは教えてくれたっていいのになぁ。


放課後になり、私はボーダーまでの秘密経路の入口を目指して歩いていた。結局今日も漆間くんとの関係をどうするのかの結論は導き出せなかった。もう一生このまま同じ状況が続くような気もしてきた。私だって本当は、出来ることならドラマや映画で見るようなラブラブな恋人同士になりたい。だけど現実はラブラブどころか倦怠期とすら呼べないくらいの薄っぺらい関係性しか築けていないことは誰の目にも明らかで、「自然消滅させようとしてんじゃないの」という友達の言葉が今更になってずっしりと心にのしかかってくるような心地さえする。トリガーをかざしたドアに反射している自分はいつもより随分と顔色が悪いように見えた。

ボーダー本部へたどり着いた後も、作戦室へと向かう足取りはひどく重かった。のろのろと歩いていくその途中でまた漆間くんのことが頭をよぎり思わず足を止める。……自然消滅って、どこからが自然消滅なんだろう。お互いが「もう付き合ってない」って認識してからだろうか。それだったらまだ私たちは大丈夫なはずだ。だって少なくとも私は漆間くんと付き合っているつもりでいる。向こうはどういうつもりか知らないけれど。もしかしたらもう無かったことにされてるのかもしれないけど。

作戦室のドアを開けると部屋の中は無人だった。椅子に腰掛けて隊のメンバーを待つがてらスマホをいじっている間も検索画面に表示されるのは「自然消滅 期間」や「自然消滅 いつから」「彼氏 素っ気ない」といったことばかりで、寝ても覚めてもボーダーにいても漆間くんのことばかりを考えてしまう自分の恋愛脳ぶりにほとほと嫌気が差してスマホの電源を切って机の上に突っ伏した。……漆間くんは今頃どうしているだろう。任務中だろうか。きっと任務中なんだろうな。暇さえあれば防衛任務入れてるって前に言ってたし。今日も頑張ってるのかなぁ。

数百名を超える隊員が所属しているボーダーの中でも主力部隊と言われるB級隊員たちの日常は往々にして忙しないものだった。学生生活に加えて防衛任務にランク戦の対策に鍛錬に新技の開発、私たちが日々の中でやらなければいけないことや取り組みたいことを挙げ始めればキリがない。特に漆間くんの場合はその優先順位がはっきりしている。家族の仇を討ちたいとか、少しだけでも人の役に立ちたいとか、人気者になりたいだとか、ボーダーに所属する理由は人それぞれあるけれど、彼の理由は傍目から見ても分かりやすいものだった。その中に恋愛が入り込む隙なんて、本当はこれっぽっちもないのかもしれない。

「やめときなよ」さっき言われた言葉がまた頭に浮かぶ。やめた方がいいのかな。ぽつりと呟いてみても返ってくる言葉はなくて、憂鬱な気分に拍車がかかった。漆間くんのことは好きだ。でも、このまま何も報われないままの付き合いを続けて、私は一体どうしたいんだろうという気持ちがどんどん拭えなくなってきてしまっているのもまた事実だった。ボーダーにはこれだけの数の隊員がいるんだから、漆間くん以外に気の合う人も格好いい人も好好感を持てる人もたくさんいて、そんな中で「協調性に欠ける」だとか「自己中心的」だと評される彼をわざわざ選ばなくたっていいのにという友達の意見にも頷ける。だけど私の目に焼き付いて離れないのは、心をつかんで離さないのはやっぱり他の誰でもない漆間くんただ一人だけだった。理屈じゃなく打算でもなく私は漆間くんのことが好きなんだと、それだけで十分なのだと胸を張って言ってやりたいのに、最近はどうも自信をもってそう言えそうにはなくなってきている。だって人から応援してもらえない恋はこんなにも苦しい。

だめだ、どんどん思考が悪い方向にいっている気がする。個人ランク戦をやる気分でもないし、防衛任務も入ってなかったし、隊のみんなもまったく来る気配がないし、もう今日は帰っちゃおうかなぁ。机に頬をくっつけたまましばらく考えた後、やっぱり帰ろうと決心がつき顔を上げると、ちょうど作戦室のドアが叩かれる音がした。何だようやく来たのか、随分と今日は遅かったなぁと思いながらなるべく明るい声になるように努めてドアの向こうへ向かって返事をする。
「はーい、どうぞー」
「なんだやっぱりいるんじゃないすか」
「……えっ」

この声は。聞こえてきた声にがばりと顔を上げるとドア越しに漆間くんが立っていた。えっ何で。ここ漆間隊の作戦室だったっけ?

きょろきょろと辺りを見回しても目に付くのは脱ぎ散らかされたままの誰かの上着と読みかけの漫画、オペの子が持ち込んだお菓子、最近皆で今ハマっているボードゲームと見覚えのあるものばかりで、ここはやはり漆間くんのではなく私の隊の作戦室だった。じゃあ何で漆間くんはここにいるんだろう。それにさっき漆間くん「やっぱりいるんじゃないすか」って言った? それってもしかしてたまたまじゃなくてわざわざ会いに来てくれたってこと?

そう思い至った途端にむくむくと膨らみ始めた期待ではちきれんばかりの胸を必死で押さえつけながら深呼吸を一つする。落ち着け。まだ真意は分からない。浮かれるのは漆間くんがここに来た理由をちゃんと確かめてからにした方がいい気がする。
「どうしたの?何か用事あった?」
「いや別に。防衛任務終わったって連絡しても全然既読つかなかったんで、今日いると思ってたのにおかしいなと思って」

その言葉に机の上に放り投げたままになっていたスマホへと視線を移す。さっき電源切ってそのままにしてたんだった。こんなときに限って漆間くんから連絡が来るなんて、それに返事をしなかったら作戦室まで覗きに来てくれるなんて、これじゃ私もタイミングがいいのか悪いのか分かんないなぁ。
「ごめんスマホ電源切ってて全然気づかなかった」
「いいすよ。飯まだすか?」
「うん」
「じゃあラーメン食いにでもどうすか」

昨日まとまった金入ったんで、と続けられた言葉に漆間くんらしいなと思わず笑いが漏れる。ラーメンか。そういえばお腹空いたな。「行く」と頷きながら返事をすると漆間くんがニヤリと笑った顔が見えた。


その後はボーダーを出て漆間くんが最近お気に入りだというラーメン屋さんで二人並んでラーメンを食べた。運ばれてくるのを待っている間に防衛任務はどうだったかと訊ねると「順調っす」と満足げに返された言葉に先月ほぼ全く会えていなかったことを思い出しながら「良かったね」と相槌を打つ。実に一か月以上ぶりにこうして二人で会うというのに、仮にも恋人同士の久々の逢瀬だというのに、漆間くんはまるで昨日ぶりとでも言わんばかりの態度だ。どこまでもゴーイングマイウェイで、こっちの都合なんておそらくこれっぽっちも考えちゃいない。こういうところがともすればきっと「協調性がない」と言われてしまう所以なのかもしれない。しかし私ののぼせ上がった頭ではそういった点さえも可愛いと思えてしまうのだから、もうどうしようもないなと麵をすすりながらこっそり頭を抱えた。

ラーメン屋さんじゃなくてもうちょっとゆっくり出来そうなカフェとかに行こうと提案すれば良かったな、と思ったのは自分の分を食べ終わって水を飲み干すなり「じゃあ行きますか」と漆間くんが口を開いたときだった。まだ少し鉢の中に残っていた麺を流し込んで立ち上がり、レジの前で財布を出そうとすると「いいすよ」と固辞されてしまい、思いもよらない彼の言葉に視線を泳がせながら財布を鞄にしまう。それを見た漆間くんはまたニヤリと笑ってから「クレジットカードで」とレジの人に言ってさっさと会計を済ませてしまった。言われるがまま払ってもらっちゃった。いいのかな。まさか漆間くんがそういうことを言うとは思わなかった。今日は何かいいことでもあったんだろうか。
「こーいうのは男に払わせとけばいいんすよ」
「……本当にいいの?」
「は?」
「だ、だって漆間くん任務ばっかりでいつも忙しくしてるし、私も一応ボーダーでお給料もらってるし、ご飯も、その、無理に奢ってもらわなくてもいいっていうか」
「はあ?」

見るからに不機嫌そうな態度に変わった漆間くんを見て失言だったと気づく。足を止めて険しい顔をする漆間くんと同じように足を止めて必死に弁解できる言葉を探した。
「ご、ごめんそうじゃなくて。えっと、ご馳走してくれるのは嬉しいんだけど、その、漆間くんがこういうことしてくれるの意外だなって思っちゃったから」
「意外って何がすか?」
「えーっと……漆間くんがこうやって作戦室まで会いに来たり一緒にご飯食べようって言ってくれたりとか……。最近全然連絡こないから自然消滅したんじゃない?って友達に言われたところだったから余計にそう思っちゃってさ」
「……」

気まずさのあまりベラベラと余計なことばかりを言う私とは対照的に、漆間くんは黙ったまま眉間にしわを寄せている。墓穴だ。傍目から見なくたって分かる。フォローの一つでもしようと思ったのに、なおさら墓穴を掘ってしまった。素直に「ありがとう」って言っておしまいにしておけばよかったのに。だんまりになってしまった漆間くんの表情を伺うように顔を上げると、「それって」ちょうど何かを考えていたような漆間くんが口を開いたところだった。
「別れたいってことすか?」
「えっ!?違うよ!むしろ私は漆間くんともっと仲良くしたいなって思ってるし、あの、デートとか色々したいと思ってる、けど……」
「……ふーん?」

しまった。漆間くんがまたあのにんまりとした笑みを浮かべている。この顔をしているときの彼が言うことにはろくなことがない。しかしそんなことは分かっていても、私の恋愛脳極まる瞳は彼のその楽しげな顔ときゅっと上を向けられた口角に釘付けになってしまう。
「色々って?」
「い、色々は色々だよ」
「教えてくださいよ。……それともオレがそういうのしたくないとでも思ってるんすか?」

漆間くんの口から飛び出したその言葉にしばらく時間が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。
「そ、そういうのって?」

今度はこちらが漆間くんに訪ねる番だった。しどろもどろになりながら何とか声を絞り出すと、くつくつを喉を鳴らした漆間くんが一歩ずつ距離を詰めてくる気配がする。まさかと思ったらそのまさか。逸らしかけた顔を伸びてきた手に掬い取られてしまって心臓の音がうるさいくらいに体中に響き始める。しかし漆間くんは一向にやめる気配を見せないどころかまたニヤリと楽しそうに笑う始末で、なんて人を好きになってしまったのだろうと今更ながらに自分の盲目ぶりにほとほと呆れることくらいしかもう私に出来ることは残されていない。近づいてくる漆間くんに、ぎゅっと強く目を瞑った。

言いたいことはたくさんある。したいのならどうして今まで何も言ってくれなかったのとか、話の流れとは言えなにもこんなロマンチックの欠片もないラーメン屋さんからの帰り道でなくたっていいのにとか、そもそもまだ好きだって言ってもらってないだとか、挙げ始めればキリがない。どれから始めればいいのかは全然分からないけれど、とりあえずこのキスが終わったら漆間くんに本当はもう少しだけでも、せめて防衛任務の合間くらいには連絡を取り合えるようになりたいってことを伝えて、そして明日の昼休みはちゃんと友達たちにこの恋はやっぱり諦めなくてもよさそうだと胸を張って言うことにしよう。

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