常世の隙間

※ハッピーエンドではありません

※何でも許せる人向け


5歳のとき、『平凡』とはまさに私のためにあるような言葉だった。平凡な生まれ、平凡な身長、平凡な体重、平凡な容姿。第一子としてサラリーマンの父と専業主婦の母の間に生まれ、親族を始めとする周囲の人間からの愛情を一身に受けて人並みにすくすくと育ってきた。決して『贅沢』とは言えないながらも満ち足りた生活であったと、今でも時折朧げになった記憶がふいに蘇る度に思う。両親がいて、友達がいて、やりたいことがたくさんあって。今となっては喉から手が出るほど欲しいものがそこにはあった。どれだけ欲しくてももう二度と手に入らない大切なものが、そこには溢れていた。

7歳のとき、『平凡』は私から一番遠い言葉に変わった。これまで見えていた友達が、――友達だと思っていたものが、本当は見えてはいけないものだったと知ったからだ。

きっかけが何であったのかは定かではない。ただ、我に返ったときには教室の真ん中に同級生が倒れていた。耳をつんざくような女子の悲鳴と、化け物を見るかのような男子の目と、唇まで真っ白な先生の顔。思い出されるのはそんなものばかり。その時私は喧騒の真ん中に立ち尽くしながら、これまで自分のものであったはずの身体が自分ではないものに支配されているような感覚を覚えていた。それは術式の目覚めだった。

連絡を受け職場と家から学校へと飛んできた両親が私以上に青白い顔をしていて、茫然とする私を抱きしめながらしきりに涙を流していた光景が今でも頭にこびりついている。


私たちに傷つけられた同級生のあの子はもはや学校の保健室では手の施しようがなく、先生のうちの誰かが呼んだ救急車でこの辺りで一番大きな病院に運ばれていったそうだ。そうして次から次に大人がやってきて授業どころではなくなってしまった教室の端で震えることしか出来ない私の元に医者だと名乗る男がやってきて、今日からその医者の伝手でお父さんとお母さんがいるあの家ではないところへ私は行くことになるということを説明した。スーツ姿で現れたその男が警察ではないことに安堵したけれど、それと同時に「行きたいか」とは一度も訊ねられなかったことに、もはや私がお父さんとお母さんと離れ離れになってしまうことは決定事項なのだと悟る。人を傷つけたのだから、当然の報いと言えばそうかもしれない。

あの子、死んじゃうのかな。見たこともないくらいに血がたくさん出ていた。公園でこけて膝を擦りむいたときも、逆上がりの練習をしているときに頭から鉄棒から落ちたときも、自転車でバランスを崩して地面に勢いよく放り出されてしまったときも、あんな風にたくさんの血は出なかったのに。今もその飛び散ったあの子の血液は掃除されることなく教室の床を真っ赤に染め上げている。普段みんなで机を並べて黒板に向かって授業を受けている教室に立ち込める鉄っぽい生臭い匂い。けれど誰も彼もが何かに追い立てられるようにしていて、気が付いているはずのそれを処理しようとはしない。異様な光景だった。

私はその血溜まりを眺めながら、もしあの子が死んでしまったら、私は犯罪者になって、そして死刑になっちゃうのかなと考えていた。やっていない、と言うには証人があまりにも少なかった。

実際にあの子を傷つけたのは私ではなく『友達』だったけれど、どうやらその友達の姿はここにいる私以外の誰にも見えていないようだったし、騒ぎが大きくなる前にどこかへ姿を眩ましてしまったから。見えないものをいくら説明したところで信じてもらえるはずもなくて、父と母に抱きしめられながら唇を噛み締めてただ肩を震わせることしか出来ない。「ごめんなさい」と繰り返すことで精いっぱいだった。

……私が、いや、友達があの子を傷つけたから、私がそれを止められなかったから、だから、お母さんもお父さんもこんな風に悲しい顔をしているんだろうか。もうここにはいられなくなってしまうんだろうか。死刑になってしまうんだろうか。この男の人が言った自分は医者だという言葉は嘘で、本当は私を死刑にするためにどこかからやってきた人なんだろうか。

一連の出来事の中で、たくさんの疑問が頭の中でぐるぐると回る。私の身体の震えが大きくなったのが分かったのか、お母さんがそっと頭を撫でてくれたけれど、安心することは出来なかった。
「……私、変になっちゃったみたい。治るのかな?」
「大丈夫。きっと治るから、だからいい子にしててね」

俯いていた顔を上げると、泣いている母の顔が目に映った。平凡だと思っていた生活が、足元からがらがら崩れていく音が聞こえるようだった。

普通で当たり前のことだと思っていた。自分とは違う形をしている友達が見えることも、見えない何かに突き動かされるような感覚を覚えることも、父と母が側にいてくれることも。でも、そのどれもが普通でも当たり前でもないことだったのだ。


両親ではなく医者だと名乗った男とランドセルも持たずに校門を出て、大きな道路の方へと歩いていく。教室のロッカーに置いたままになっている荷物を気にする私に、男は一言「もう君には必要ないものだ」と言った。食い下がる気にはなれなかった。男の言ったことはきっと本当なのだろうと思ったからだ。

もう私には必要ないもの。これからの私に何が必要で、何が必要でないのかは分からないけれど、もうこの学校にはいられないのだということだけは分かっていた。
「……やったのは私じゃない」

誰もいない道路に私の口からこぼれた言葉が響く。言い訳だと思われたとしても、そう言わずにはいられなかった。
「友達だったの。もっと小さいときからずっと仲良くしてて、ずっとそばにいたのに、他の子はそんなの見たことないって言って」
「……」
「あの子に悪口言われたとき、すごくムカっとして、身体が変な感じになって、色んなところがざわざわするみたいだった。……死んじゃえって思った。そしたらあの子から血がいっぱい出てきて止まらなくなって、横にいた友達もいつの間にかいなくなってて」

あまりにも拙く、荒唐無稽で、どうしようもない言い訳だった。誰に向かっての言い訳なんだろうと、自分で口にしながら考える。いくらこうして弁明のための言葉を並びたてたところで、あの子の傷はなくならないし、私と友達がやったことが帳消しになるわけではないということぐらい分かっているのに。

一通り言い訳を聞き終えた男は、私を慰めることも庇うこともしなかった。ただ『タクシー乗り場』と書かれた数メートル先の看板を目指しながら「残穢を見ればやったのは君じゃないってことはすぐに分かる」と言った。それが慰めの気持ちや気遣いから発されたでまかせではないと私が思ったのは、彼がそう言った口調がごくごく単調で、ただ事実を述べただけのようなものだったからだ。
「信じてくれるの?」
「信じるもなにも、呪霊とはそういうものだ」
「呪霊?」
「君がさっき『友達』と言ったもの。まあ、もう俺が祓ってしまったから二度と会うことはないだろうが」

呪霊。祓う。友達と言ったもの。二度と会うことはない。男の言っていることは何一つとして理解出来なかった。ただ、私のことを「おかしい」と言わなかったことに、……私を異端扱いしなかったことに、私に見えていたものがこの人にも見えていたのだということだけは分かった。
「おじさんも、……もしかして普通じゃない人なの?」

おずおずと切り出した私のその言葉を聞いて、タクシーを捕まえるために前を歩いていた男が立ち止まる。振り返った顔は少し驚いているようだった。そして、こちらまで引き返してくるとしゃがみ込んで初めて私と目線を合わせた男が口を開く。

人ならざるものが見え、また人ならざる力でそれを倒す人間が、普通でなんてあるものか。

そう言って、その人は静かに笑った。笑っているのにどこか諦めのようなものが滲んでいるような、奇妙な表情だった。



タクシーに乗った後、隣に座る男から自分の職業は医者ではないと明かされたとき、やっぱりと思った。男は『呪術師』という聞いたこともない職業に就く人間で、私がこれから身を寄せることになるのは病院ではなく禪院という名前の呪術師の家らしい。男はその家の分家筋に当たる家系の出身で、私の父とは従兄弟にあたる間柄だそうだ。呪術師や男の素性について改めて説明されても、その説明はほとんど頭に入ってこなかった。父がそうした特殊な家系の出だと言われても、まったくと言っていいほど実感は湧いてこない。男の口ぶりからどうやら私はすぐには死刑にはならないようだということだけは分かる。それならもう行き先はどこでも良かった。どこも同じだ。もうあの幸せだった元の生活が手に入らないのなら。

禪院という家がどういったところなのかをきちんと説明された記憶はない。タクシーを降り初めて禪院家の敷居に足を踏み入れたとき、男が多いところだな、と思った。子供の私にも分かるほどに重厚感のある門構えをしている屋敷の中にいるのは大人の男性ばかりで、私と年の近い女の子はおろか子供もあまりいないようだった。大人の女の人は男の人たちの身の回りの世話をしているか、そうでないときは裏に引っ込んでいるかで、基本的に表には出てこないらしい。私もそうなるのかと思ったけれど、案内されたのは小さいながらもきちんとした作りの部屋だった。私があの人たちのような一般の女ではなく呪術を使える人間で、さらに相伝の術式というこの家で古くから大切にされているものを引き継いでいる可能性があるからだそうだ。

人ならざるものが見え、また人ならざる力でそれを倒す人間が、普通でなんてあるものか。何もない部屋を眺めながら、タクシーに乗る前に男が言った言葉を思い出す。

ここにいる男の人たちと目の前の男は『呪術師』で、私と同じ、そして一般の人とは違う――普通ではない人たちなのだ。そう思っても、異端な者が自分一人だけではなかったことに安堵することは出来なかった。ここでこれからどうなってしまうんだろうと漠然とした不安ばかりを募らせる私に、男は「じゃあ俺はこれで」と言ってその場から立ち去る素振りを見せた。ありがとうと言うべきか迷って、小さく頭だけを下げる。

それから私がその男に会う機会は二度と訪れなかった。


禪院家を始めとする呪術師と呼ばれる人たちが使う術式は、目覚めてはいおしまいというような代物でもないらしい。身体に流れる呪力という力を基に術式を使って相手を攻撃する。それで初めて呪いを祓うことが出来るそうだ。つまり呪術師として生きていくためには術式が使えなくては話にならない。来る日も来る日も術式を使いこなすための訓練に明け暮れる毎日だった。

私がここに来て四日目の朝のことだ。訓練をしている最中、男の子がやってきた。
「新しく来た女ってお前か?」

その男の子――私と同じ年で、この家の当主の実の息子だと後に判明する禪院直哉の口はいつ見てもひん曲がっていた。
「チビやな」
「……誰?」
「ここの次期当主や」

同じくらいの身長をしているのに私のことをチビだと言ったその子は、私の頭から爪先までをじろりと見た後「術式使えんの?」と言った。使えると言い切ってしまってよいものか迷ってしばらく黙っていると、彼は面白くなさそうな表情をしてフンと鼻を鳴らした後「ショボ」と吐き捨てて出ていってしまった。面と向かって悪口を言われたというのに、悔しいとも悲しいとも感じなかった。私の力がここにいる呪術師の誰にも及ばないであろうことは、この短い訓練期間の中で自分が一番よく分かっていたからだ。

それから、直哉が禪院家相伝の術式を引き継いでいて、呪術師にとって最も必要な才能をこの年で既に遺憾なく発揮する天才であると私が知るまでにはそう時間はかからなかった。


訓練の日々はそう長くは続かなかった。どれだけ身体を鍛えようと術式の精度を高めようと、私の身体に刻まれた術式は彼らが期待していたような禪院家相伝のものではなかったからだ。

それが分かった日から家の人たちの対応ががらりと変わった。存在してはいけないものが見え、常人ならざる力でそれを祓う普通ではない人間がここには多くいる。ここでは彼らこそが多数派で、正しい人間だった。

呪力がない人間や術式が刻まれていない人間はそれだけで落ちこぼれの烙印を押される。術式があったとしても、それが相伝の術式でなければ呪術師として到底スタートラインに立てたとは言えない。そんな世界で直哉のような天才にはなれない人間が生きていくのは苦痛以外のなにものでもなくて、されどもう平凡な人間ですらなくなってしまった私は、今更他のどこへも行くことは出来なくなってしまった。

落ちこぼれである私が呪術師たる彼らと会って話をすることは是とされていなかった。彼らがこの家にいるとき、私は物陰に隠れ自分の存在を消し去るかのようにひっそりと息をしていなければならない。それはもちろん直哉に対してだってそうで、家の中で時折顔を合わせると彼は必ず私に向かって嫌味や嘲りの言葉を口にしたけれど、それに口答えすることは許されていなかった。

私に許されていたのはただ、この家にいる他の女の人たちに倣って家の雑用のこなしていくことだけだ。

雑用ばかりをこなす日々が何年も続いて、それはとても快適とは言い難い生活であったけれど、着の身着のまま放り出されないだけマシだったのかもしれない。学もなければ強力な術式も使えない私に、この世界は何の意味も見出さないだろうから。


禪院家の人間として生まれついたのにも関わらず術式を持たない人間が、この家でどのような扱いを受けているのかは想像に難くなかった。呪術師にあらずんば人間にあらず。それを何の迷いもなく体現している家だ。肩身が狭いどころの話ではないだろうに、それでも彼らはこの家にずっと居続けている。どうしてなのだろうと思ったけれど、それを訊ねることは出来なかった。

当主の直毘人さんが戻ってくるまでに洗濯を済ませておかなければいけない。大人の女の人たちはそれぐらいの家事ならすぐに済ませてしまうけれど、まだ身体の小さい私は一度にそこまで多くの洗濯物は運べない。早く取り掛からなければ遅れを取ってしまう。そう思って廊下を急いでいる途中、ふらふらと庭の方へ歩いていく人の姿に目を奪われてしまった。この時間に修練場にも任務にも行っていないということは、呪術師ではない人だろうか。

よくよく目を凝らして見てみると、思った通りその人は丸腰で、呪力もまとっていなかった。なのにその人は、足を止めることなくまたふらふらと庭に植えられた木の方へと歩いていってしまう。危ない、と思った。だって、そっちの方には複数の蠢く呪霊がいるというのに。
「そっちに行ったら危ないよ」
「……あ?」

思わず声をかけてしまった。……目の前で呪霊に人が襲われるところを見るのは、たとえその人が誰であろうとそう気持ちのいいものではないと思ったからだ。

私の言葉を聞いてゆっくりとした動きでこちらを振り返ったその人を見て、大きいと思った。大人の男の人だ。私と同じように息をひそめながらこの家で給仕や掃除に徹している女の人たちや、直哉とは違う、大人の男の人。

――私が決して近寄ってはいけない人たち。
「そっち、……お化けがいるから。行ったら怪我しちゃうよ」
「お化け?あー……こいつらのことか?」

こいつら、と顎で示したその人がどこからか武器のようなものを取り出してきて、それを持った腕を一振りする。するとたちまち呪霊は跡形もなく消え去ってしまった。

信じられない気持ちで、さっきまで頭を埋め尽くしていた洗濯物のことも忘れてぽかんとしたままその場に立ち尽くす。この家の呪術師の人たちとは最初の頃に粗方紹介を済ませていた。その中にこんな人はいなかったと記憶している。一度きりの紹介で全員を覚えられるはずなど到底なかったけれど、それでも、この人のことはきっと一度見たらそうそう忘れることなどないだろうと思った。

それくらい、この人の目は、何もかもを真っ直ぐに貫いて丸裸にしてしまうような強い目だった。

足の裏に根が生えてしまったかのように立ち尽くしている私に向かって、その人がこちらへゆっくり歩み寄ってくる。そして傷のついた口元を少し開くと、一言「お前見えんのか?」と言った。彼の言葉に主語はなかったけれど、何のことを指しているのかはすぐに分かった。
「……う、うん。見える」
「へえ。チビなのによくやるな」

またチビだと言われた。けれどそれは直哉が同じ言葉を口にしたときに込められていた意味とは違って、単なる事実を示しただけの言葉だった。この人は大人の男の人で、私は子どもで、それはたとえ何があろうと覆しようのないことだからだ。

感心したようにも聞こえたけれど、褒められたのかそうでないのか、口調からだけでは判断できない。お礼を言うべきか迷っていると、目の前の彼が立ち去るような素振りを見せた。行ってほしくない、と思った。この家の男の人にそんな気持ちを抱いたのは、これが初めてだった。
「……あ、あの、貴方は見えないの?」
「見えてたらこんなとこにいやしねえよ」

そこに映るすべてのものを射殺してしまいそうなほど鋭い目をしていた彼の口元がほんの少しだけ緩められたのを見て、心臓が一気に早鐘を打つ。

やっぱり見えないんだ。なのにこの人は呪霊を祓った。しかもそれが造作もないことであるかのように。

どうして、と聞きたかった。もっとこの人のことを教えてほしいと思った。けれどその人はすぐにまたどこかへふらりと消えてしまって、その後しばらく私の前に姿を見せなかった。

話に聞いていた『禪院家の落ちこぼれ』と、このとき会った甚爾くんのことが自分の中で繋がったのはそれから随分と後のことだ。


甚爾くんは時折ふらりと現れては私に色々な話をしてくれた。落ちこぼれと言われて禪院家の人たちに常に遠巻きにされている甚爾くんには話し相手がいなかったのだ。そしてそれは私も同じだった。彼がしてくれる話はその大半が女の人の話や甚爾くんの趣味だというギャンブルの話で私にはさっぱり分からなかったけれど、術式や呪いや男女の役割とは関係のない無駄話に興じてくれる相手がいるだけで嬉しかった。

不思議なことに甚爾くんといるときは禪院の家の人たちは誰も私に近寄ってこなくて、たとえ話し込むのに夢中になるあまり洗濯物を取り込むのが遅れてしまったとしてもそれを咎めてくる人は誰もいなかった。

呪術師ではない甚爾くんは特にこれといった仕事をしていなくて、時折ふらっと稼ぎに出ては女の人の家を転々とする生活をしているらしい。自由で羨ましいと思った。私も甚爾くんぐらい大人になればそうしたことが出来るようになるんだろうか。いいなあ、と思わずこぼすと、こちらを見た甚爾くんが「お前も連れてってやろうか」と言った。
「女の人の家に?」
「そりゃさすがに無理だ」
「うん」

本気で言っていたわけではないし、連れて行ってくれるとも思っていなかった。甚爾くんが身を寄せているという女の人の家がどんなところなのか私には想像もつかなかったし、その女の人が私にここより居心地の良い環境を提供してくれる保証もない。そして何より、この家の人たちがそれを許さないであろうことは分かっていた。私に甚爾くんくらいの強さがあればまた別なのだろうけれど、現状、私はこの家の誰にも術式や体術で敵いはしないのだから。

そんなことを考え一人で納得している私に、甚爾くんは顎に手を当てて何かを考えるような仕草をした後少しだけ口角を上げて「飯ぐらいなら食える金あるぞ」と言った。


贅沢は出来ねぇからな、と前置きした甚爾くんに連れられて足を踏み入れたのは両親と暮らしていた頃によく訪れていたファストフード店だった。「これにするか?」とオモチャ付きのセットを指差す甚爾くんに向かって「そんな子どもじゃないよ」と答えながら、目についたハンバーガーセットを注文する。ハンバーガーとポテトとジュース、すべて揃ってもワンコインという破格の値段のメニューだった。

私が頼んだものよりも一回りは大きなハンバーガーを甚爾くんは三口ほどで食べてしまったものだから驚いて、負けじとハンバーガーに齧り付くと、あの家にいたら決して食べられないであろうチープな味わいが何故だかひどく私の胸を打った。ほんの数年前まで食べ慣れていたはずなのに、今の私にはこんな何の変哲もないハンバーガーとポテトがこれまで食べたどんなものよりも美味しいと感じられて、少し涙が出てしまいそうだった。

ファストフード店は家族連れや学生服を着た人たちで賑わっていた。高校生くらいの人たちが座っているテーブルの隅っこの方に小さな呪霊がいるのが見えたけれど、ここにいる人間でそれに気が付いている人間は誰もいない。不思議な空間だった。あの家とここは何もかもが違っていた。甚爾くんが連れ出してくれなかったら決して気が付くことは出来なかった世界だ。

食べ終わったハンバーガーの包み紙を小さく折り畳みながら、ふと、ここでは私と甚爾くんはどういう風に見えているんだろうと考える。仲睦まじい親子のように見えるだろうか。それにしては年が近すぎるし、あまりによそよそしすぎるかもしれない。かといって友達と言えるほどの気安さもない。同じ家に縛られている人間同士、親戚と言いたいところだけれど、私たちに血のつながりはなかった。彼との間に何の名前も付けられないことがひどくもどかしいと思った。

畳み終えた包み紙をトレーの端の方へ乗せる。すると、向かいの席でコーヒーを飲んでいた甚爾くんが「そういや」と何かを思い出したかのように紙コップを置いて、頬杖をつきトントンと机を指で叩きながら口を開いた。
「お前術式あるんだろ?高専行かねぇの」
「高専?」
「呪術師のやつらが行く学校だよ」
「……甚爾くんも行ったの?」
「俺は行けねぇ。呪力ゼロだからな」
「そっか」

呪術を使えることこそが至上とされるあの世界で、甚爾くんはどんな人生を歩んできたんだろう。聞きたいと思ったけれど、とても訊ねられなかった。代わりに彼が先ほど口にした高専について訊ねてみる。
「どうやったら行けるの? そこ」
「さぁな。それぐらい自分で調べてみな」

そう言って席を立った甚爾くんに続いて店を出ようとするとここからは家まで一人で戻るように言われ「何で?」と首を傾げる。すると甚爾くんは女の人と連絡がついたのでこれからその人の家へ行くのだと言った。一緒にいられた時間のあまりの短さを残念に思ったけれど、今度はさすがに「連れてってやろうか」とは言ってもらえなかった。

途中まで私の帰り道と同じ道程なのだと言う甚爾くんのすぐ後ろを歩いて着いていく。私たちがつい先程まで座っていたあのファストフード店のテーブルや、この道のすぐ向こうには呪いのことなど何も知らない人たちの世界が広がっているというのに、そちらの世界はあまりにも遠いように感じた。何も変わっていないはずなのに、私だけが何もかも変わってしまっていたようだった。

勝手に家を出たことを怒られるかと思ったけれど、夕飯の時間近くになって戻ってきた私を見ても誰も何も言うことはなかった。誰とどこで何をしていたのか、粗方の見当はついていたらしい。甚爾くんといるときはいつもこうだ。どうやら禪院家の他の人たちにとって、落ちこぼれの最たる者である彼は視界に入れたくもないもののようだった。



甚爾くんが言った高専の情報を得ることには随分と手間取ってしまった。何しろこの家でそこに通っている人はほぼおらず、そして、そこに通っているであろう禪院家以外の呪術師と私は関わりを持つ機会をまったくと言っていいほどに与えられていなかったからだ。

いくら書物を調べても女の人たちにこっそり訊ねてみても何も情報は得られなくて、埒が明かなくなった私のところに直哉がやってきた。直哉がやってきたのはいつものように私や他の女の人たちをいびる為だったようだけれど、私は最後の望みを彼に託す以外の方法を思いつくことが出来なかった。
「学校に行きたい」
「は?」

そう一言で希望を伝えた私に、直哉はいつものように口の端を吊り上げ不愉快そうな表情をしてみせた。
「行かんでええやろあんなとこ」

吐き捨てるようにして彼が放った言葉に「でも」と言いかけると「落ちこぼれが口答えするんか?」とすぐさま跳ね除けられてしまって、それ以上何も言えなくなってしまった私は唇を噛んで俯いた。その様を見た途端に満足そうな表情に変わった直哉が部屋を出ていこうとする背中へそれ以上声をかけることは出来なかった。

甚爾くんが教えてくれた外の世界は楽しかった。けれど、直哉がそれを壊してしまった。

この日以来、私が禪院家の門の外へ出ることはなかった。


この頃になると甚爾くんが家に顔を出す機会はどんどん少なくなっていって、とうとう一年に一度ほどになってしまった。会って話が出来ればまだ良い方で、大抵ふらりとこの家に現れた彼はまたふらりとすぐに消えてしまう。

それでも、私が甚爾くんのことを考えない日は一日たりともやってこなくて、ようやくまた私と彼が言葉を交わすことが出来た頃には私はもう小さな子どもではなく16になる年になっていた。

甚爾くん、と庭にいた彼に声をかけるとその声に振り向いた甚爾くんが少し驚いたような顔をする。
「デカくなったな」
「だってもう16だもん」

背も結構伸びたでしょ、と言いながら私が笑うと「まだ十分チビだろ」と行った甚爾くんが私が何も言わないうちに「じゃあな」と言葉を続けて背を向けてしまう。それからすぐに甚爾くんは門を出て行って、二度とこの家に帰ってくることはなかった。甚爾くんがいなくなって私はまた一人ぼっちになってしまった。

けれど私は知っている。この広いようで狭い屋敷が世界のすべてではないということも、この家の外にはたとえ一生かけたとしても回りきれないほどに色々な世界が広がっているということも、そして、そこでは呪いが見える見えないなど誰も気に留めてすらいないということも。

それを教えてくれたのは、直哉でも他の男の人たちでもない。他ならぬ甚爾くんだ。

甚爾くんだけが、この家でただ術式とともに朽ち果てていくのを待つだけの私にとって、何にも代えがたい大切な存在だった。たとえ呪力がゼロであろうと、落ちこぼれの烙印を押されていようと、他の誰からも相手にされていなかろうと、私にとってはあの人ただ一人だけが特別な『男の人』だったのだ。



甚爾くんが死んだ。呪術師殺しとして赴いた任務でターゲットのうちの一人として定めた呪術師に返り討ちにあって死んだらしい。

その知らせが禪院の家に届いてからは誰も彼もが甚爾くんの話題で持ちきりだった。この家を出入りする人たちのほとんどが、信じられないといった顔をするその傍らどこか安堵しているような声色で話していることに嫌悪感を募らせる。

甚爾くんが生きていたときはあんなにも彼を『いないもの』として扱っていたくせに、いなくなった途端にこれだ。神妙な面持ちをしていても、自分たちの脅威と足りえたものが一つこの世から消えたことを心の中で喜んでいることが一目瞭然だった。取り繕うつもりなど彼らには微塵もなかったのかもしれない。そのくせ葬儀はきちんと執り行うのだというのだから、反吐が出ると思った。

例えこの家に生まれた人間として定められた道に背いた呪術師のまがいものであろうとも、そうすることが格式高い御三家の一つである禪院家のしきたりだからだそうだ。死んでもなお自由になることなく血と家に縛られる甚爾くんが可哀想だと思ったけれど、私一人の力ではどうすることも出来なかった。


甚爾くんが死んで、その遺体が禪院家の敷居を再び跨ぐことになっても、とうとう一度も私がこの目で彼の姿を見ることは叶わなかった。女が葬式に出ることは禁じられていたためだ。

弔問客の数が百を超えたあたりから正確な数は覚えていない。どうせこの日限りでもう会うこともない相手なのだから、名前を覚える義理もないと思った。当日になっても甚爾くんのことを思って涙を流している人はやっぱりいなくて、喪服に身を包んだ人たちが厳かな場に不釣り合いなほどの晴れやかな顔で談笑している姿はとても見ていられなかった。

部屋に戻った後、涙を流す私の元に直哉がやってきた。この頃になるともう私は、足音だけでその主が直哉だということが分かるようになっていた。
「何泣いてんの」
「……だって、甚爾くんが」
「死に際が見られへんかったんがそんな悲しいん?」
「違う、でも」

小さく首を横に振ってから「直哉には分かんないよ」と答えると、壁に寄りかかるようにしてこちらを見ていた直哉が大きく舌打ちをしたのが聞こえる。
「甚爾くんのこと好きやったん?」
「……そんなの直哉には関係ないでしょ」

それを聞いた彼の口元は、またもや大きくひん曲がっていた。一気に距離を詰めてきた直哉が視線を逸らす私の頬を掴んで「こっち見いや」と言う。それでも目の前にある顔は見れなくて俯いていると、「なあ」という言葉の後に名前を呼ばれた。

直哉が私に対して「お前」という言葉以外を使って呼びかけてきたのはこれが初めてだった。そのことに驚いて「直哉」と呼び返そうとしたけれど、それよりも先に、腰を屈めた直哉に唇に噛みつかれ声が出せなくなる。抜け出そうにも痛いくらいに両肩を掴まれて身動きが取れない。あまりに勢いよく噛みつかれたせいで血が出ているのではないかと思ったけれど、離された後に少しだけ舐めてみた下唇から鉄の味はしていなかった。

いつの間にか随分と自分よりも高いところにあるようになってしまった直哉の顔を見上げる。そのとき私は、身体が大きくなったのは自分だけではなく直哉だって同じで、今の彼は私が初めて会ったときの甚爾くんとそう変わらない体格をしていることにようやく気がついた。

ゆっくりと顔を上げた私の視界に苦々しげに口の端を歪めている直哉の姿が映る。それはつい先ほど口づけを交わした女に対してするものとは到底思えない表情だった。
「お前も俺をそんな顔で見るんか」

鏡のないこの部屋では、自分がどんな顔をしているのかを確かめることは出来ない。だけど、おおよその想像はついてしまった。

だって、私が本当にこうしてほしかったのは、ここから連れ出してほしいと願ったのは、私が憧れたのは直哉じゃない。甚爾くんだ。

甚爾くんだけが私にとっての男の人だった。それはいくら身体が大きくなってこうして他の人と身を寄せ合ったところで覆らないのだと思った。

私の身体から手を離した直哉が「甚爾くんのこと好きやったん?」ともう一度訊ねてくる。「……好きだったらどうするの?」と答えた私の言葉に、彼は具体的な言葉を返そうとはしなかった。代わりにまた私の唇に噛みつくと今度は好き勝手に暴れ回る。そうして私を散々な目に合わせた後に意地の悪い笑みを浮かべると
「しょうもな」

そう言って、ただ一言だけで私のすべてを切り捨てた。


こんな形でしか人と関わることの出来ないこの男のことを、何もかもを壊して切り捨てることしか出来ない彼のことを可哀想だと思った。生きていても死んでいてもこの家に縛られる甚爾くんのことをさっきは可哀想だと感じたけれど、それは私たちだって同じだ。腹の内で何を考えていようとも、どんな想いを抱いていたとしても、この身に術式が刻まれている限り結局は、ここでこうして呪い合って生きていくしかないのだから。

扉の方へと歩いていった直哉が後ろ手で鍵を閉めた音を聞きながら、あの日この家を出た甚爾くんは幸せだったんだろうかと考える。呪い合った先にすら、その答えがあるのかは分からない。今ここで私に分かることはただ一つ、甚爾くんがいなくなったこの狭い箱庭で私たちは、誰一人として報われることなく朽ち果てていくということだけだ。