あなたのいない日々のこと

イヌピーが自動車の運転免許を取ったと言ってきたとき、「おめでとう」より先に私の口をついて出てきたのは「よく本免試験受かったね」という言葉だった。
「オレが本気出せばこんなもんヨユー」
「それを学校でも出しとけば良かったのに」
「あんなん真面目にやるやつの方がバカだろ」
「それ一度でも真面目にやってた人しか言っちゃダメなセリフだよ」

私の知る限り、目の前で作業着姿でバイクの前に座り込み部品をガチャガチャといじくり回しているこの男――乾青宗が教室で真面目に授業を受けていた記憶はない。それどころかまともに登校していた日の方が珍しいといった有様だった覚えがある。何故なら彼は筋金入りの不良だったからだ。

まだあどけなさの残っていた少年の頃から暴力に物を言わせ、ありとあらゆる『悪いこと』に手を染めた挙句に少年院送りになったほど、かつてのイヌピーは手の付けようのない悪だった。人をいたぶるためなら武器を使うことにも躊躇せず、例え相手が女でも敵と見なしたら容赦しない。そんなお世辞にも友達にはなりたいと思えない近寄り難い存在だった。

それが今や、街の小さなバイク屋で作業着を着て部品をいじり回す暴力とは無縁の生活を送っているなんて。今でも時折、バイト帰りにこうしてショップへ足を運んで真面目に働く姿を目の当たりにする度に信じられない気持ちになる。彼がこうした生活を送るようになって二年の月日が経ってもそれは変わらない。

私と話している間もイヌピーは一度もこちらを振り返ることなくガチャガチャと金属音を響かせながら作業を続けている。お客さんは一人もおらず、店内には私と彼以外の人間の気配はなくて、辺りをざっと見回してから口を開いた。
「今日はドラケン君いないの?」
「出かけてったぞ」
「そうなんだ」
「残念だったな」

イヌピーは、私がバイクを買う予定もないのにこうして彼の仕事場へ足を運んでいるのは彼の同僚である龍宮寺堅――通称「ドラケン」と呼ばれているそうなので最近は私もそう呼ぶようにしている――目当てだと思っている節がある。決してそんなことはないのだけれど、否定するのも面倒なので適当に流しているうちに訂正するタイミングを見失ってしまった。「ドラケン君目当てじゃないよ」と言って、「じゃあ何が目当てなんだよ」と聞かれてしまうと答えようがないからというのもある。
「ドラケン君もいないみたいだし、せっかく免許取ったんならさ、今日帰り乗せてってよ。車」
「店の車しかねぇぞ」
「いいよ。バイクだとそろそろ外寒いし」
「この作業だけ終わらせてからでいいか?」
「うん」
「10分くらいで終わらせる」

そう言うとイヌピーはまた黙々と作業に戻ってしまった。作業に没頭しているときにそれ以上話しかけても返事が返ってこないことは知っているから、ぶらぶらと店内を物色してみることにする。見るからにゴツくて派手なカスタムパーツがついたバイクが店の壁に沿ってずらりと並ぶ様は圧巻だった。

ある時を境に街のバイク屋に入り浸るようになっていたのは知っていたけれど、ここまでバイクに思い入れがあるというのは知らなかったから「ドラケンとバイク屋やることにした」と言われたときは本当に大丈夫なのかと不安を覚えたものだ。それが今やレンチを握っている姿も様になっていて、かつて『許可なくウチのシマに入ったから』なんて理由で女や年下相手にも容赦せず武器を手に暴れ回っていた時の面影は見る影もなくなっているのだから、すっかり丸くなったものだと感慨深くなってしまう。

多少口の悪さや目つきの悪さは残っているものの、最近では何も言わずとも店を閉めるついでに私を家まで送り届けてくれるようにもなった。黒龍時代の彼からは想像もつかない行動だ。初めのうちは面食らっていたものの、渡されたヘルメットを被ってゴツいバイクの後ろに跨るのにも今ではすっかり慣れてしまった。関わる相手が変わるだけで、たった二年の間で人間とはこれほどまでに変わるものなのかと、ドラケン君には感謝してもしきれないくらいだ。そんなことをイヌピーのいる前でドラケン君に面と向かって言おうものなら「保護者面すんじゃねぇ」と機嫌を悪くされてしまうのだろうけれど。

イヌピーは昔から良くも悪くも人の影響を受けやすかった。黒龍という暴走族のチームと、そのチームの創設者であるかつての伝説の不良に出会ってからはそれが特に顕著になって、ボスと認めた人物が「やれ」と言えば強請りに強盗に薬、それが例え法に触れることであっても何にでも手を染めた。その結果が少年院送り。最早『ヤンチャ』の一言では済ませられないほどにどんどんグレていく彼をどうすることも出来ないまま遠くから指を咥えて見ているうちに、イヌピーは黒龍とはまったく違う暴走族のチームに出会った。

それが東京卍會――ドラケン君が副総長を務めていたチームで、このチームに所属していた彼らは他の暴走族とは毛色が違い、一言で言えば筋の通った不良だった。夜な夜なバイクで街に繰り出しては対立したチームと殴り合いの喧嘩をするところは他と変わらないけれど、彼らが使うのは拳一つで武器や卑怯な手段は使わないし、私たちのような一般人は抗争に決して巻き込もうとしない。『ウチのシマに勝手に入ったから』なんて理由で人を殴るなんてもっての外、あくまでも守りたいものがあるから戦う。そんなチームだった。

残念ながら東卍は二年前に解散してしまったけれど、副総長だったドラケン君は不良をやめても変わらずその考えを貫いている。私が初めてここのショップを訪れたとき、「もう店閉めるし送ってってやれよ」とイヌピーに言ってくれたのもドラケン君だった。背が高くて頭に龍の刺青が入っていてドスの効いた低い声で話すけれど、紳士的でいい人なのだ。一度道を踏み外してしまえば真っ逆さまにどこまでも転がり落ちていく――そんな後ろ暗い世界に染まりきってもう二度と真っ当な人生は歩めないだろうと思われていたイヌピーを更生させてくれたドラケン君や東卍にはいつか改めて感謝したいと常々思っているけれど、中々言い出すタイミングを掴めなくて、ここへ来る度に「今日ドラケン君は?」と聞いているうちにイヌピーに勘違いされてしまったというわけである。

宣言通り10分ほどで作業を終わらせたイヌピーが裏手から回してきてくれた車の助手席に乗り込んでシートベルトを締める。左側から見るイヌピーはお姉さんによく似た色素の薄い綺麗な横顔をしていた。
「イヌピーが車運転してるのって何か変な感じ」
「はぁ?」
「一生あのゴッツいバイクばっか乗って生きてくのかと思ってたのに」
「……まぁ、車あった方が便利なときもあるだろ。色々」
「女の子とデートするときとか?」
「店の車で行けるかバカ」
「まあ確かにワゴン車じゃねえ」

今のイヌピーに恋人はいないらしいけれど、そのうちきっとこうして助手席に乗せたいと思えるような人が現れるんだろうなと思う。バイクショップが軌道に乗って、少ししてお金が貯まったら、スポーツカーみたいな格好いい車を買うのかもしれない。そのとき私は今日みたいな気持ちをまた覚えるはずだ。大人に近づいていく彼の姿を喜ばしいと思う反面、置いていかれてしまった寂しさで少しだけ胸がちりっと痛むような、そんな気持ちを。

信号で何度か停止している間も、彼の視線がカーナビに注がれることは一度もなかった。私がいちいち方向を指示しなくとも、イヌピーがハンドルを握る車はスイスイと信号を曲がって脇道へと入り、私の家の方を目指していく。彼にとってもここは通い慣れた道だからだ。


イヌピーとは小さいときに家が隣同士だった。近所に年の近い子供が他にいなかったこともあって、性別は違うけれど小学校低学年の頃は互いの家を行き来してゲームをしたり、駄菓子屋にお菓子を買いに行ったり、セミ取りをしたり、夏休みにはバーベキューをしたり、集団登校の日は誘い合って登校したり、同じ宿題に頭を悩ませたりと、そこそこ仲が良かったように思う。過去形でしか表せないのは、私たちは今や友達と呼べるのかすら曖昧な関係で、そして、もう乾家は私のお隣さんではないからだ。

小学校も終わりに差し掛かった頃、イヌピーの家で火事が起きた。たまたま回転寿司屋に外食へ行っていた私たち一家が戻ってくる頃には隣に建っていた家は全焼、中にいたイヌピーは顔半分に火傷を負って、彼の姉の赤音さんは日常生活もままならないほどの大火傷で入院した後、その火傷の治療にかかる莫大な費用を払うことが出来ずに命を落としてしまった。うちも彼の家に面していた一角が燃えてその後処理でしばらくの間はてんてこ舞いだったけれど、イヌピーの家はその比ではなくて、あれほど笑顔に溢れていた家庭は見る影もなくなってしまった。

それからだ。赤音さんがいなくなって、イヌピーが所謂不良と呼ばれる人たちと連れ合うようになって、うちの食卓では乾家の話題が一つも上らなくなって、私たちの周りを取り巻く何もかもが変わり果ててしまったのは。

あんなに可愛くて優しくて大好きな近所のお姉さんだった赤音さんにもう二度と会えないという事実を私はなかなか受け入れることが出来なくて、どうしてもっと早く火事に気付けなかったんだろうとか、もしあの日私たちが出かけていなければ助けることが出来たんじゃないかとか、そんなことばかりを何度も考えては涙を流した。その度にイヌピーは決まりの悪そうな顔をして「オマエが気にすることじゃねぇ」と言った。誰のせいでもないことが、誰のせいにも出来ないことが、ただ悲しかった。

そして赤音さんの死を私よりも――いや、誰よりも悲しんで、誰よりもやるせなさを感じていた人物が私の他にいることにもまた気が付いていた。
「イヌピーさぁ」
「ん」
「最近ココと会ってる?」
「……会ってねぇ」
「そっか」

その名前を出したとき、それまで涼しい顔をして運転席でハンドルを握っていたイヌピーの眉がぴくりと動いたのが分かった。
「今何してるんだろうね」
「さぁな」
「もう一緒に住んでないんでしょ?」
「いつの話してんだ」
「二年前くらいだっけ」

イヌピーとココがあのバイクショップをアジトにしていると気が付いたのがちょうどその頃だ。家が燃えて元住んでいたところから少し離れた地域に引っ越してから、イヌピーは自分の家に寄り付かなくなって、年上の人たちに囲まれて夜の街をふらふらとしているところを塾帰りによく見かけた。そしてそれはココも同じで、唯一同じ生活圏だったはずの学校でもあまり二人の姿を見かけなくなって、どんどん疎遠になるばかり。中学に上がってからは男女の垣根なく交流していた小学生の頃とは違って表立って話すことはなくなったし、イヌピーが少年院から出てきたことを知っても何も言えなかったし、わざわざ家を訪ねていったりすることもなくなってしまったけれど、それでも本当は、この二人のことがずっと心のどこかに引っかかっていた。
「オマエまだココのこと気にしてんのか」
「それはイヌピーもでしょ」
「……オレはもういいんだよ。あいつは自分であっちに行くことを選んだんだから」
「分かってるよ」

分かってはいるけれど、最初からなかったことになんて出来そうにない。やり場のなくなってしまったこの気持ちはどうしたらいいんだろう。そう聞かれても、イヌピーにはどうしようもないことだと分かってはいるのだけれど。

バイク屋をやると言われたとき、イヌピーの隣にいる人物がココではないことに驚いた。ドラケン君は文句のつけようがないくらいに良い人だ。バイクを買うわけでもない私のような客にも親切にしてくれるし、他のお客さんがいない時にはお茶やお菓子を出してくれたりもするし、バイト先に来たお客さんや店長の愚痴だって笑いながら聞いてくれて、イヌピーの隣にいてくれる人がああいう人で良かったと心から思う。それなのに、……それでもまだ、どこを探してもココがいない日々に慣れないでいる私がいた。

イヌピーはそれ以上会話を続けようとしなかった。真っ直ぐ前を見てハンドルを切るその表情に、「もうあまり関わるな」と言外に忠告してくれているのだと分かった。沈黙が流れる車内の雰囲気をなんとかしようとしても他にいい話題も浮かんでこなくて、窓の外へと視線を移した。

九井一の残した痕跡をいつも探してしまっている。かつて彼が住んでいた家の前を通りがかるときや、小学校の帰りにたまに三人で寄り道して遊んでいた公園を見かけたとき、大学の調べ物のついでに図書館へと足を運ぶとき、彼が好きだと言った食べ物を口に運ぶとき、そうした何気ない瞬間一つ一つで、ふと彼のことを考えてしまうのだ。
「……あ」

だから、彼が今所属していると言われているチーム――関東卍會の拠点だと噂されているタワーマンションの前を通りがかったとき、つい小さく声を漏らしてしまった。
「なに」
「ごめん、何でもない」

不意に声を上げた私を不審に思ったらしいイヌピーが運転を続けながらちらりとこちらの様子を伺って、私の目線の先にあるタワーマンションのエントランスに数秒視線を留めた後、それからまた正面へと視線を戻した。車の助手席からじゃ最上階が見えないほど、セキュリティの厳重なマンションだった。窓からこっそり様子を伺うことが出来たバイクショップの跡地とはまったく訳が違う。こんなところにいるはずないと分かっていてもエントランスの前を通りすぎるまでそのマンションから目を離すことが出来なくて、じっと見つめているうちに一台の車がエントランスの前に停まったことに気付く。そして、そこから降りてきた一人の影に目を見開いた。
「停めて!」
「は?」

私の突然の大声に「何だよ急に」と言いつつブレーキを踏んでくれたイヌピーにろくにお礼も言わないまま外へと飛び出していく。だって、急がないとすぐに中に入ってしまう。
「ココ!」
「……オマエ」

編み上げた黒髪に白い特攻服、片耳で揺れるピアスと、吊り上がった細い目。車から降りてきた人物は、まさしく私が探していた男だった。
「何しに来たんだよ、こんなとこ」
「えーっと……」

訝しむようなココの視線に、勢いのままに助手席から飛び出してきてしまったことを後悔した。てっきり追いかけてくるものかと思ったのに、イヌピーはここから少し離れたところに車を停めたまま、運転席で私の戻りをじっと待っている。

どうしよう。ココの脇を固めている身体の大きな関東卍會の構成員たちにじろりと睨みつけられ、精一杯身体を小さく縮こまらせながら、脳みそを必死でフル回転させた。ここに来たのは特に用があったからではなくて、ただの偶然で、ただココのことを考えているときにちょうど本人が目の前に現れたものだから居ても立っても居られずに車から飛び出してきてしまったなんて、到底言い出せるような雰囲気ではなかった。
「今イヌピーと車乗ってたらちょうどココが見えたから、その……ちょっと話せないかと思って。イヌピー車の免許取ったんだって。知ってた?」
「へぇ」

私がしどろもどろになりながら精一杯の思いで絞り出した言葉にも、ココはさして興味を示さない。心の底からどうでもいいとでも言いたげな態度に、ぐっと息が詰まった。それでもどうにかして会話を終わらせたくなくて、私は冷や汗をかきながらペラペラと口を動かし続ける。
「ココは免許取らないの? 確か単車のも持ってなかったよね」
「必要ねぇよ」
「身分証明書ないと不便じゃない?」
「……今更証明するようなモンがあると思ってんのか?」

その質問には答えられなかった。黙りこくるしかなくなった私を見て、フンと鼻を鳴らしたココが私越しに車の方へと目線をやって「イヌピー待たせてんだろ?」と呟く。
「うん」
「あんま待たせんじゃねぇよ。……さっさと行け」
「……うん、ごめん」

突き刺すような彼の視線がこれ以上粘っても意味のないことだと教えてくれていた。やり切れない思いを胸いっぱいに抱えながら、踵を返しココが顎でしゃくった車の方へすごすごと足を踏み出す。……ココに会いたかったのは、会って話したいと思っていたのはこんな気持ちになるためなんかじゃなかったのに、何でこうなっちゃうのかなぁ。

どうにも諦めきれず最後にもう一度振り返ってみても、彼が引き止めてくれるような気配はない。そんな当たり前のことが私の心をさらにひどく傷付けた。

例え私がどんな表情をしようとココは玄関前に立ったまま微動だにせず、ただ私がここから立ち去るのをじっと待っている。その姿に虚しさだけが募って、だけど睨み付けるような度胸があるはずもなく、しばらくふらふらと視線を彷徨わせた後ふと彼の左耳に付けられたピアスに目が行った。そしてそれを誤魔化すように片方の髪をかき上げた瞬間、違和感にふと気が付いて思わず「あっ!」と大きな声が漏れてしまった。
「……何だよ? デケェ声出して」

突然声を上げた私に怪訝そうな顔をしたココが片方の目を吊り上げ問いかけてくる。
「ピアス片耳どっかいったかも……」
「はぁ?」
「車出る前までちゃんと着けてたのに」

きょろきょろと辺りを見渡してみても、もう片方の耳に残ったものと同じ小さな花と石のパーツのついたピアスがこの辺りの地面に転がっている様子はない。一体どこに落としてきてしまったんだろう。車の中だろうか。イヌピーに言ったら怒られるかな。外はもう真っ暗だし、こんなところで落としたんじゃもう見つからないかもしれない。

半ば諦めながら身体を屈めて地面に顔を近づけピアスを探す。その姿はどこからどう見ても不審人物で、ここのマンションの住人が帰ってきたら間違いなく怪しまれてしまうだろうなと冷や汗をかくばかりだ。
「……チッ」

そうしている間にココがいる方から小さな舌打ちが聞こえた。今度こそ怒られてしまうと身構えたそのとき、「どこに落としたんだよ」と言いながら私と同じように地面に腰を下ろしたココの姿が視界に入った。

彼の行動の意図がよく分からず「何で」と言いかけたその声は、さらに上から降ってきた「何やってんだオマエ」という声に遮られてしまう。降ってきた声に顔を上げると、いつまで経ってもマンションから戻らない私に痺れを切らしたらしいイヌピーが呆れ顔でそこに立っていた。しゃがみ込んでいる私とココを交互に見たイヌピーが「……ココ」と呟いて、ココはそれに返事をすることなく代わりに顎で私の方を示しながら「こいつがどっかにピアス落としたんだと」とだけ簡潔に述べた。
「はぁ?」

ココの言葉を聞いた途端にイヌピーの眉間にぎゅっと皺が寄せられたのが分かる。
「ご、ごめん……」
「どんなやつだよ。ピアス」
「えーっと、ちっちゃい花と石がついてるやつ……ピンクの石なんだけど」

それを聞いたイヌピーが私たちと同じように地面に腰を下ろしたのを見て、申し訳なさで消えたい気持ちに拍車がかかった。一刻も早く落とし物を見つけてここから立ち去りたい一心で、車からここに来るまでのルートに目を走らせてみたものの、焦れば焦るほどそれは見つからなくてより一層焦燥感が高まっていく。

ピアスを探している間、ココもイヌピーも何も言おうとはしなくて三人で黙々と地面に目を凝らす時間が続いた。こうなってしまっては、今更「もういいよ」とも言い出しづらい。あのピアスはたった一日のバイト代ですぐに買えるような安物で、それほど思い入れのあったものでもないのに二人をこうして付き合わせてしまっているのを申し訳なく思っていると、近寄ってきた関東卍會の特攻服を着た男の人に向かってココが「オマエら先に中入ってろ」と言っているのが聞こえた。そしてその言葉に異を唱えた部下らしき男の人に向かって続けられた「……昔の知り合いだ。心配いらねぇ」という言葉に、勝手に傷ついたような気持ちになる。

ココの周りを取り囲んでいた部下の人たちは渋々といった様子でエントランスの中へ入っていった。誰もいなくなり三人だけになってしまった空間で、少し離れたところにいるココに向かって背を向けたまま独り言のようなふりをして問いかけてみる。
「……あの人たちと一緒に帰らなくてよかったの?」
「三人で探した方が早ぇだろ」
「それはそうだけど」

さっきまで冷たくあしらうことしかしなかったくせに、一体どういうつもり? なんて、言いたくても言えなかった。ココは昔からこういうところがある。極悪非道な不良の道に染まりきってしまったような顔をしていても、非情になりきれないところがあるのだ。

「あったぞ。ほら」

結局ピアスは車から降りて二メートルほど進んだ道路の脇に転がっていて、見つけてくれたのはココだった。さすがに外れたキャッチの方はこんなところでは見つからなくて、どこかでキャッチだけ買い直さないとなと思いながら彼が差し出してきたピアスを受け取る。何となくだけれど、例え飽きて使わなくなったとしてもこのピアスは一生捨てられないのだろうなと思った。
「ありがと」
「じゃあな」
「……うん」

それ以上引き留めることは出来なかった。車に乗り込もうとする私たちを見送ることもなく、ココはさっさと踵を返してマンションの方へと歩いていく。振り返って見た私の知らない特攻服に身を包んだその後ろ姿は、さっきまであれほど近くで言葉を交わしていたというのに知らない誰かのようだった。
「青宗くん」
「……ん」

シートベルトを締めた後、手のひらに握ったままだったピアスをポケットに仕舞い込み、運転席に座る彼の名前を呼ぶ。その呼び名を口にしたのは小学生のとき以来だった。
「二年も離れてるとダメだね。……もうちょっとくらい上手く喋れるかと思ったんだけどなぁ」

独り言のように呟いたその言葉に、黙々と運転を続けるイヌピーは何も答えなかった。気を遣うような間柄でも、言葉を選ぶような間柄でも、名前を呼ぶことに緊張を覚えるような間柄でもないはずなのに、私たち、いつからこうなっちゃったんだろう。

静かな車内にカーステレオから流れる陽気な音楽がひどく不釣り合いで、無言の私たちを乗せたまま車はさっきよりもスピードを落としゆっくりと住宅街へと向かっていく。ポケットの中でピアスを弄びながら、さっきのココの一挙一動を思い出し、赤音さんならこういうとき一体どうしただろうと考える。そしてふと、記憶の中の赤音さんは制服を着た姿のままずっと止まってしまっていることに気付く。

そうだ。気が付けば私たちは赤音さんの年をゆうに追い越して、普通車の免許も取れるような年齢になってしまっていた。



それからはまた、九井一のいた痕跡を探してしまう毎日だった。関東卍會のメンバーがよく訪れると聞くバーがあれば友達を引っ張っていったり、彼らの縄張りにあるクラブへと足繁く通ったり、時間が空く度に繁華街を意味なくうろついてみたり、少しでも彼に近づけるような手がかりを見つけることが出来ないかと必死だった。そうして通い続けたクラブでようやく見つけたココに声をかけると、踊るでもお酒を飲むでもなくフロアの片隅に一人でいた彼は眉根を寄せて渋い顔をしながら「こんなとこで何やってんだ」とあの日と同じ台詞を口にした。
「……この辺よく関東卍會の人が来てるって聞いたから、その」
「女一人でこんなとこ来て無用心って思わねぇのか?」
「えっと」

彼が所属する関東卍會はかつての黒龍によく似ていた。強請りに強盗、薬、詐欺に殺人、何でもありの極悪組織。そしてその組織の参謀を務めているのが彼だった。私のような一般人とは、もう生きる世界も見ているものも何もかもが違う。そんなことは頭では分かっているのに、どうしても諦めきれなくて、だけどそれ以上彼から浴びせられる鋭い視線をかわせるような上手い言葉も見つからずに口籠もってしまった私に、ココは硬い表情を崩すことなく言葉を続ける。
「ドライブがしてぇならイヌピーにしてもらえよ」
「……違うよ。そうじゃなくて、ココに会いにきただけだから」

前あんまり話せなかったし、と早口で言い切るとココの細い眉がかすかに上げられたのが見えた。

会って話したかった。どうしてもう昔みたいに関わってはくれないのか、突き放すような物言いばっかりなのか、私はともかくあれほどまでに信頼していたはずのイヌピーにすら会おうとしないのはどうしてなのか、そういったことが知りたかった。

それでも、私がどれだけ話したくて知りたくて近づきたいと願っていても、その想いが彼に届くことはない。
「帰れ。……ここはオマエみたいなやつが来るようなとこじゃねぇ」

そう言い放ったココにぐっと腕を掴まれ出口の方へと引きずられていく。そんなに強い力じゃないはずなのに、その手を振り払うことは出来なかった。組織の中でのココの役割はいつも金銭の工面や渉外に代表されるような主に頭を使うことで、抗争の前線に立つことは少ない。同じ不良でも決してドラケン君たちのような武闘派ではなかったはずなのに、こうしているとやはり彼も男の人なのだと当たり前のことに気付かされる。

クラブの出口にはすぐに着いてしまった。私の腕を離したココは誰かに電話をかけているようで、少し離れたところで携帯電話を耳に当てながら壁にもたれかかっていた。それをぼーっと眺めながら、一体私はこんなところで何をしているんだろうと考える。さっきまで耳が割れそうなくらいに響いていたフロアの喧騒が、今は少し遠くに感じられた。

電話を終えたココが近づいてきて、手を出すように促される。言われるがまま差し出した手のひらに置かれたのは一万円札だった。
「なに? これ」
「これだけあったらここからオマエの家まで帰れるだろ」

五分後にタクシーが来るように手配してある、と続けられた言葉に唖然とする。……違うのに、ここに来たのは本当にただココに会いたかったからで、こんなことをしてほしかったわけじゃないのに。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」

無言を貫く私の態度を了承のサインと受け取ったのか、私に一万円札を押し付けたままココはフロアの方へと引き返していってしまった。その後ろ姿が見えなくなってすぐに身体の力がどっと抜けて、彼の言葉通り五分後にやってきたタクシーに倒れ込むように乗り込み窓の外へと視線をやる。手のひらに持ったままの一万円札はずっと握りしめていたせいでくしゃくしゃになってしまっていて、それを見ていると余計に虚しさだけが募った。

タクシーが家の前に着いても中に入る気にはまったくなれなくて、鞄から取り出した携帯電話でアドレス帳から目当ての人物の名前を探して電話をかける。それほどやることもなかったのか、電話の先の彼はワンコールで呼び出しに応答した。
「もしもし? イヌピー、まだお店開いてる?」
「もう閉めるとこだけど。……どうした?」
「……今からそっち行っていい?」

電話の向こうの空気が少し揺れたのが分かる。よっぽど疲れ切った声をしていたのか、イヌピーは少し考えるように間を置いた後に手短に「家まで迎えに行く」と言ってすぐに電話を切ってしまった。

程なくしてやってきたD&D MOTER CYCLE SHOPと書かれた車の助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。ハンドルを握るイヌピーから投げかけられた「どうしたんだよ」という言葉に、すぐには答えられなかった。
「どっか寄ってくか」

黙りこくる私に気を遣ったのか、それともただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、イヌピーはすぐにバイクショップを目指さずに海沿いの道の方へとハンドルを切った。東京といえど少し繁華街から離れてしまえばこんな時間に通行している車は片手で数えられるくらいの数しかなくて、私たち二人を乗せた車は信号に引っかかることもなくどんどん海辺へと近づいていく。車を走らせている間イヌピーは何も言わなかったけれど、仕事終わりの彼をわざわざ呼びつけておいて「何でもないよ」が通用しないのは分かっていた。言わなくちゃと思っているのに、何から言えばいいのか分からなくて、気を抜くとすぐにまた虚しさに襲われそうになってしまう。
「……ココのことか?」

いつまでも無言が続く狭い空間の中、口火を切ったのはイヌピーの方だった。
「エスパー?」
「エスパーじゃなくても分かる」
「もう一回会って話したかったんだけど拒否されちゃった」
「……」
「上手くいかないもんだね」

ピアスを拾ってもらったあの日から、少し期待してしまっていた。やっぱりココは私たちの知るあの時から何も変わっていなくて、またいつでも三人で話せるんじゃないかと楽観的に考えていた部分が私の中にあったことは否定出来ない。けれど違った。もうとっくに取り返しのつかないところまで来てしまったのだ。私を見下ろす冷たい切長の瞳も、掴まれた腕が持つ熱の熱さも、知らないチームの名前が書かれた特攻服も、そのすべてがどれだけ願っても泣いても喚いてもあの人はもう私たちの隣には戻ってこないということを嫌でも思い知らせてくれる。

どうしてこんな風になってしまったんだろうと、いつかの日と同じようなことを考える。いくら考えたって答えが出ないのは同じで、けれどぐるぐると回る思考は止められなくて、いつの間にか車が海沿いの道路脇に停車していたことにも気が付かなかった。エンジンを切ったイヌピーがこちらに向き直り、少し躊躇うような素振りを見せてから口を開く。
「どうしてもココじゃなきゃダメか?」
「え?」
「……これはココにも言ったんだけどさ、忘れる人生だってあるんだぜ。……赤音のことも、ココのことも」

そう言い切ったイヌピーの眼差しは真剣そのもので、とても冗談で言っているようには見えなかった。
「……イヌピーはそれでいいの?」

その質問にイヌピーは答えなかった。ただじっとこちらを見て、先程の質問に私が答えるのを待っている。

真っ直ぐにこちらを見据えてくる彼の顔を見て、綺麗な顔だなと場違いなことを思った。赤音さんによく似た、睫毛が長くて色素の薄い整った顔。赤音さんの優しくて可愛くてふんわりとした雰囲気が大好きだった。そしてそれはきっとココも同じなんだろうと思った。……もしも私にその要素が一つでもあったのなら、あの時のココの態度もまた違っていたのかなんてことを考える。そして、そこまで考えた後、この期に及んで思い浮かぶのがたった一人の男の顔であることに自嘲した。
「青宗くん」

シートベルトを外して、しばらくの間ずっと呼ぶことの出来なかった呼び名で彼の名前を口にする。ココがそう呼んだときから、私の中でも彼は『イヌピー』だった。けれど、ココと出会う前の私たちはこうして互いを下の名前で呼び合う仲だったのだ。
「忘れさせてくれる?」

我ながらずるい質問だと思いながら、助手席から身を乗り出してハンドルから手を離した彼の胸に身体を預ける。私の身体を受け止めた彼は、投げかけられた質問には答えずにただ黙って私の背中へと腕を回した。そうして背中を撫でる手はかつての暴れぶりが嘘のように思えるほど優しい手つきで、堪えていた涙が今になって溢れて止まらなくなって目の前の作業着の胸元にどんどんと染みを作っていく。

こんな風に身を寄せ合っても詮ないことだということは分かっていた。私もココもイヌピーも、本当に欲しいものはきっと一生かけても手に入らない。それでも、寂しさを埋める一時の温もりでもいいと求めてしまうなんて、誰かの代わりでもいいから受け入れてほしいと願うなんて、私たち、なんて不毛な恋ばかりしてるんだろう。

東リベ△夢アンソロジーへ寄稿作品

イヌココはどの時間軸でも素晴らしいですね