Dancin’ in the dark

※R-18


千冬くんはいつも私に優しくしてくれるけれど、たまにものすごくねちっこくなるときがある。頻度としては月に一度くらい。今月はそのタイミングが今日だった。
「千冬く、も、無理だって……っ」
「……ごめん、オレも無理」
「そんなこと言ったって、……ぁ、あ!」

もう限界だと訴えているのに、さらに強く腰を押し付けてくる千冬くんから少しでも距離を取ろうと腕を突っ張らせてみてもそれは大した意味を成さなくて、仰け反った喉からひっきりなしに声が漏れる。上り詰めた後にさらに揺さぶられると、もう何も考えられなくなってしまいそうだった。理性が効かないのは自分が節度のある人間じゃなくて動物になってしまったみたいに感じられて嫌なのに。

熱に浮かされたままでは自分が何を口走るのか分からなくて、口を噤みたい一心で口元に手を回そうとしても千冬くんがそんなことは許さないとばかりに私の手を取っ払ってシーツに押し付けてしまう。そのまま漏れ出る声を塞ぐみたいに深くキスされて、頭がさらにぼーっとした。唇を離して荒い息を繰り返す千冬くんが動く度に身体の下のシーツが濡れていくのが分かる。
「……んっ、ふぅ、あ、っふ」
「すげぇびくびくしてる」
「ぁ、あーっ、やあっ」

折り畳まれた足がお腹につきそうなくらいに強く突き上げられて、身体が小刻みに痙攣した。震えが収まらないうちに、離れていく千冬くんの白い胸板が弾けた視界に映る。やっと終わったと思ったのも束の間、「後ろ向いて」と言った千冬くんに彼の方へ腰を突き出すような体勢になるよう身体の向きをひっくり返されてひゅっと息を飲んだ。
「ちょ、ほんとに待って……っひ、んん」

息も整わないうちに腰に手を添えられ、すぐに貫かれて背中が仰反る。膝を立てたシーツはもう身体のやり場がないくらいにびしょびしょになってしまっていて、こんなことなら予めタオルを敷いておけばよかったと後悔した。けれど、思わず引いてしまった腰を自分の方へと引き寄せた千冬くんがまた動き始めたせいでそれもすぐに頭から吹き飛んでしまった。
「っや、ぁ、や、も、だめ……っ」

いつもなら私が嫌がる素振りを見せればすぐにやめてくれるのに、「やだ」と「だめ」ばかりをうわごとのように繰り返しても千冬くんは一向にやめようとはしてくれない。それどころか中を擦りながらさらに外の弱いところにまで手を伸ばしてくる始末で、指で押しつぶすようにされるとがくがくと身体が震えて支えている腕に力が入らなくなってしまう。
「千冬く、千冬くんっ、それ、……っは、ぁ、ほんとにだめだから、あ、あぁっ」
「いきそう?」
「もういってる、いってる……ぅ、んんっ」

ひっきりなしに緊張と弛緩を繰り返す身体はもはや私の意志とは関係のない動き方をしていて、神経が繋がっていない別の生き物のようだった。身体のどこにもうまく力が入らなくて、倒れ込みそうになる私の腰を後ろから支えた千冬くんが小刻みに腰を揺らすと、潰れたような声が喉の奥から押し出されるように飛び出してくる。
「……っひ、ぅあ、……っ」
「なぁ、何回いった?」
「分かんなっ、あ、ん! 分かんない……っふ、あ、ぁ」
「……オレもそろそろやべぇかも」
「ん、ん、いって、あっ、ぁ、も、無理……」

そろそろ、なんて言わないで早くしてほしい一心で、切羽詰まった声が半開きの口からこぼれ落ちた。千冬くんの動きが一際早くなって、やがてぐっと強く押し付けられた腰が何度か震えたのと同時にお腹の辺りがびくびくと波打つ。投げ出された爪先に力が入って、その後一気に脱力すると、ぴったりくっついていた千冬くんの身体がようやく離れていった。
「……っあー、身体だる……」

後ろでふうと長い息を吐き出した千冬くんの顔を見ることも出来ずに、支えをなくした身体ごとベッドの上に倒れ込む。お腹の下の冷たいシーツの感覚がどんどん遠のいていって、後処理もそこそこに目を閉じた私は早々に意識を手放した。


目を覚ました頃にはもうベッドに千冬くんはいなかった。のそのそと上体を起こし脇に置いてあったペットボトルの水を一口含む。ペットボトルの横に置かれたデジタル時計は朝の9時を示していた。……日付が変わる前に千冬くんとそういうことになって、ぐっすり眠ったはずなのにまだ眠り足りないような感覚がする。ゆっくりとした足取りでリビングへ向かうとテーブルに座ってテレビを眺めながら朝食のトーストとハムエッグを食べていた千冬くんがこちらを振り返って「おはよ」と口を開いて言った。
「おはよう……」
「朝メシ何か食う?」
「んー……先にお風呂入ろうかな……」

昨夜は22時過ぎに帰ってきた千冬くんと食事もそこそこに食器洗いもお風呂も洗濯も何も済ませず寝室に雪崩れ込んだせいで、汗をかいた身体と化粧を落としていない顔が気持ち悪い。そうしたことに気を回す余裕もないくらいの、急いた行為だったのだ。

クローゼットの方へと歩いていって新しい下着を取り出しながら、ちょうどトーストの最後の一口を口へ運んだところの千冬くんに向かって声をかける。
「お皿は?」
「洗っといた」
「洗濯物……」
「それも今回してる」

そうなった日の翌日の千冬くんは、多少罪悪感があるのか家事を積極的に引き受けてくれることが多い。「今日仕事?」と訊ねられ「ううん。休み」と答えながらバスルームへと向かうと、後ろから「オレ今日遅番だから」という声が追いかけてきて「分かった」と返事をしてから着ていた服を脱衣所のバスケットへと投げ入れた。

湯船から上がって温かいシャワーを顔に当てるとようやく頭が回り出したような感覚がする。遅番ということは、昼食を摂る時間を踏まえておそらく11時を過ぎた頃に千冬くんは家を出るはずだ。今日美容院の予約を入れていた時刻は13時半だったはずだから、千冬くんと一緒に家を出てペットショップ近くのカフェでランチにするのがいいかもしれない。11時から逆算しても、まだ髪のセットや化粧にかける時間は十分にある。そう判断して再び少しぬるくなった湯船に身体を沈めた。

バスルームのすぐ外に置かれた洗濯機がごとごと音を立てているのが聞こえる。お風呂から上がって髪を乾かす頃には千冬くんが洗濯物を干すのも終わっているだろうし、ランチの提案はきっと断られないはずだ。……ああでも、家を出る前に昨日散々なことになってしまったシーツだけは洗っておきたいな。もう一度洗濯機を回すにはあまり時間の余裕がないかもしれない。せっかくこの前の日曜に洗って干したところだったのに、という文句を口の中で噛み殺しながらバスルームを出てバスタオルで身体を拭き、化粧水と乳液を肌に叩き込んでから髪を乾かすと、再び千冬くんがいるリビングへと向かった。


千冬くんの経営するペットショップは近隣の学校と駅の間に位置していて、夕方は学校帰りの女子高生や小学生のグループで賑わったりすることもあるけれど基本的には来客はそう多くない。家族連れで混み合う土日ならともかく、今日のような平日であれば店番を一人で受け持つことが出来るくらいの規模で、千冬くんともう一人の店員である羽宮さんの二人だけで回している大手にはないアットホームさが売りだったりする。そういった雰囲気の店なものだから、お客さんが誰もいないときに私が千冬くんを見送りに来たり、帰りを待つついでに店に居座っていたとしてもそれを咎める人は誰もいなかった。店長である千冬くんに至っては「ごめんオレちょっと買い出し行ってくるわ」と言って私と羽宮さんだけを店に残して営業中に外へ出て行ってしまうこともあるくらいだ。それほど私と羽宮さんのことを信頼しているということなのだろうけれど、それなりに厳格な企業勤めの身としては些か不用心すぎるのではないかと心配になることもあったりする。
「羽宮さんこんにちは」
「……どうも」

カフェの日替わりランチとケーキセットを食べ終えても美容院の予約の時刻までにはまだ余裕があった。千冬くんに続いてペットショップの中へ足を踏み入れ、中にいた羽宮さんに小さく会釈して挨拶をする。会釈を返してきた彼と目は合わなかった。

千冬くんの同僚の羽宮さんは、どちらかと言うと愛嬌のあるタイプの千冬くんとは違って、何というか……少し近寄りがたくて、それでいて色気のある感じがする人だ。後ろでまとめた長い髪にはメッシュが入っていて、普段はハイネックで隠れている首元には大きく虎の刺青がある。会社で関わる男の人たちとはまとっている雰囲気も話し方もまるで違う、そんな人が町中のペットショップで店員として働いていることに違和感を持つ人もいるかもしれない。私も初めてこの店で彼の姿を見かけたときは首元から覗く黒い虎から目が離せなかった。

けれどそれも最初のうちだけで、千冬くんを介してこうして話すうちに私は彼が見た目ほど怖い人ではないことを知った。ただ羽宮さんは人と積極的に関わりたいと思うタイプではないようで、何度か店に足を運んでもこの通り、たまに来る店長の顔馴染みと店員以上の関係は築けないでいる。けれど、それも特に気にはならなかった。

社会人も数年目になると、人間にはそれぞれ『適切な距離感』というものがあるということが段々と分かってくるものだ。千冬くんと羽宮さんは一緒に店を経営している仲間のようなもので、千冬くんと私が恋人同士であったとしても、千冬くんを介した二人が特別仲良くしないといけないということはない。だから店のドアを閉めた千冬くんが「オレ着替えてくるわ」と言って事務所の方へと消えていって、あまり会話が弾んだ試しのない羽宮さんと二人で店頭に残される形になっても『気まずい』という感情を私が抱くことはなかった。

壁に沿って並べられたケージ一つ一つを眺め、そのうちの一つを指差して清掃作業をしている羽宮さんに向かって問いかける。
「この子新入りですか?」
「昨日入ってきたばっか」
「かわいいですね」

一番端のケージに入れられた子猫はまだ生後あまり日が経っていないらしく両手に乗りそうなくらいに小さくて、毛布にくるまってスヤスヤと眠っている姿はとても愛らしかった。ケージをじっと見つめている私に羽宮さんが「出してやろうか?」と聞いてくれたけれど首を横に振って断りの意を示してから「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べる。ペットの扱いには慣れていないし、千冬くんのお店で万が一のことがあったら困ると思ってのことだった。それでもやっぱり毛布の下でもぞもぞと動いている姿は可愛くて、一度逸らした目線がケージの中へまた釘付けになってしまう。

元々そんなに犬や猫には興味がなかったけれど、最近では千冬くんの職場での話を聞く度にペットが欲しくなってしまって困っているところなのだ。今住んでいるアパートは単身者やカップル向けの物件となっていて、ペットの飼育は許可されていない。飼うならペット飼育OKの物件に引っ越さないといけないけれど、 引っ越しのための荷造りや手続きやそれに伴って必要になってくるであろう金銭のことを思うと、なかなか重い腰を上げる気にも千冬くんに話を持ちかける気にもなれなかった。一度提案したら最後、それを千冬くんが「いやだ」と言うはずもないから余計に。
「かわいーだろ?」

ケージの中でもぞもぞと動く子猫を見つめているうちに着替えを済ませた千冬くんが戻ってきて、私と羽宮さんを交互に見た後「一虎クン昼メシ行ってきていっすよ」と続けた。頷いた羽宮さんがエプロンを外して店の外へと出ていくのを見守ってから、「かわいいね。飼いたくなっちゃう」と千冬くんに向かって答える。私が見ていたケージの扉を開けて子猫の様子を確認している千冬くんは案の定「飼ってもいーよ」と口にした。その横顔はここにいるペットの子たちへの愛情や慈しみに溢れていて、その表情を見ていると、昨日の夜あれだけ激しく私を抱いたくせに子猫の前ではそんな顔をするんだなんて考えがふと浮かんでくる。その考えを慌てて頭を振って打ち消すと、ケージを閉めた千冬くんがこちらを振り返って言った。
「何か一虎クンと仲良くなってね? オレがいないときに二人で喋ってんの珍しー」
「ううん、いつもと変わんないよ。でもこの子見てたらケージから出す? って聞いてくれたの。見た目より全然怖い人じゃないよね」
「そりゃまあオレが雇ってる人だから」

自分のことを褒められたわけでもないのに得意げに胸を張った千冬くんはいつもの千冬くんで、一瞬でも邪な感情を抱いてしまったことを申し訳なく思った。……それでも、こうして千冬くんの顔を見ていると、昨夜の彼の荒い息遣いとか押し付けられた身体の熱さとか、そういったことを思い出しそうになってしまう。昼間なのに、……千冬くんはこんなにも普通の振る舞いをしているのに、やけに意識してしまう私はきっと自意識過剰なのだろう。脇道に逸れていきそうな考えを何とか元に戻そうと、先程千冬くんが話題に出したばかりの羽宮さんのことを考えることに決めた。

さっきも言った通り、羽宮さんは決して見た目から受ける印象ほど怖い人じゃない。接客業についている割には愛想がいいとは言えないし、千冬くんのように人好きのするタイプでもないけれど、質問したことにはきちんと答えてくれるし、お店の中はいつも綺麗に掃除されていて、動物に触れるときの手つきは壊れ物に触るかのように丁寧だ。羽宮さんのそういうところに、むしろ私は好感を抱いていたりする。

そしてそれは千冬くんも変わらないようで、本人のいないところで二人揃って羽宮さんを誉めそやしている一連のやりとりに「これ一虎クン聞いたらめっちゃ照れんだろうな」なんて言いながら、にやけ顔で彼が出て行ったドアの外の方を見つめていた。



変わり映えのない毎日に転機が訪れたのは、それから数か月経った頃のことだ。あれからも千冬くんは月の終わり頃になると熱心に私を抱いて、翌日にはそんなことなどまるでなかったかのような顔をして甲斐甲斐しく店のペットたちの世話をする。そして私はその緩んだ表情を横目に見ては、嫉妬なのかやっかみなのか何なのかいまいちよく分からない複雑な想いを抱いてしまう。その繰り返しだった。

人間の大人は数か月ではそう変わったりしないものだけれど、ここにいる子犬や子猫の成長には目を見張るものがある。あのとき私が「かわいい」と言った子猫も今ではもう随分と大きくなっていて、ケージから出すとすぐに店中を跳ね回って悪戯をしたり他の猫たちとじゃれあったりするようになっていた。そのやんちゃぶりには千冬くんたちも中々に手を焼かされているらしい。
「買い手がつかなかったらそろそろウチで飼ってもいいか、なんて千冬くんと話してるんですよね。でもそしたら今のアパート引っ越さなきゃなんなくて」

税金の申請があるとかで千冬くんが奥の事務所に引っ込んでしまって二人きりになった店内で、数か月前まで子猫だった一匹を示して言う私の言葉に相槌を打ちながら羽宮さんはレジ締め作業を進めている。味気のない相槌はいつものことだから気にしない。それからも羽宮さんが黙々と作業を続けているのをいいことに、インターネットで調べた物件にはあんまり良い物件がなくて今度パーちんくんの経営する不動産屋に行こうと思ってるだとか、どうせ引っ越すのなら今度は二人で住めるように部屋数を増やしたいけれど家賃が増えすぎると家計の負担になるのが嫌だとか、そういった他愛もない話を続けていると、しばらく相槌を打つだけだった羽宮さんがふいに口を開いて「……アンタさ」と呟いた。
「千冬とどうやって付き合ったわけ」
「えっ?」
「アンタと千冬、あんま接点ねぇじゃん」
「あー……確かにそうかもしれないですね。あんまり関わることないタイプかも」

私と話している間も、羽宮さんの手は止まることなく今日の売り上げ分のお札の枚数を数えている。その動きを眺めながら、意外とぐいぐい来るんだなぁなんてことを思った。普段千冬くんと何を話しているのかあんまり聞いたことはなかったけれど、こういう話が意外と好きだったりするんだろうか。もしかして学生のときは恋バナをするのが好きだったタイプ? そうだとしたらちょっとかわいい。

問いかけられた質問に答えようと、頭の中を整理してみる。確かに私と千冬くんは、普通に生きていたらおそらく交わることのない人間だ。学生の頃からこつこつ積み重ねることだけは得意で一般事務の仕事に就いている私と、学生の頃は相応にやんちゃをしていたらしい千冬くんは正反対なところも多くある。私はペットが特別好きというわけでもないし、彼が好きなバイクや飛行機にもそれほど興味を持っていない。同じように私が好きなコスメや甘いお菓子に千冬くんはあまり関心を示さない。羽宮さんが言った「接点がない」という言葉に大きく頷きたい気分だ。けれど、時折そうやって交わらないはずの二人が交わってしまうところが人生の面白いところだとも思う。

頭を捻ってみても、馴れ初めと呼べるほど大したエピソードは特になかった。初めのうちは、生活圏が一緒で時折ランチの店や駅やスーパーで見かける程度の『近くのペットショップの店員さん』という認識で、その認識が変わったのは職場の飲み会帰りに駅で酔っ払いの通行人に絡まれていたところを千冬くんに助けてもらってからだ。そこで初めて名前を知って、素通りするだけだったペットショップに顔を出すようになって、空いた時間で一緒にご飯を食べに行くようになって、半年も経たない頃には付き合うようになり、今では週に何度かお互いの家を行き来する仲となっている。

そんなありきたりな話しか出来ないのだけれど、果たして羽宮さんの抱いてくれた興味に値するくらいのものになるのだろうか。そう思いながら口を開いてなるべく惚気にならないように言葉を選びつつ説明すると、お札を数え終わった羽宮さんが「ふーん」と一言相槌を打った。面白いとも面白くないとも判断しがたい表情だった。それでもせっかく彼の方から話しかけてきてくれたのだからと、この機を無駄にしないように会話の糸口になりそうなものを探して口にする。
「羽宮さんは恋人とかいないんですか?」
「いない」

そうなんだ。格好いいのにな。今はいないというよりもむしろ「必要ない」というような感じの言い方を少し疑問に思ったけれど、あまり積極的にお客さんたちと関わろうとしない普段の彼の様子を思い出し、そういう人なのかもしれないと思い直して言葉を続ける。
「でも羽宮さんと付き合いたいって人はいっぱいいそうですよね。優しいし、羽宮さん格好いいから」
「はぁ?」
「お店によく来る高校生の女の子たちとか、この前お店出た瞬間に羽宮さんのこと格好いいって騒いでましたよ」
「……趣味悪ぃ」
「そんなことないですって」

ほんの少しずつ羽宮さんと言葉を交わすようになってから分かったことが一つある。どうやら彼は褒められるのが得意ではないらしい。照れ屋というよりかは、どうしたらいいのか分からないといった様子だ。 これまであまり人から褒められることがなかったのかもしれない。困惑しているような、それでいて少し不機嫌なような何とも言い難い表情を浮かべた彼に、かける言葉を間違えてしまったかと考え始めた矢先、レジ締め作業を終えた羽宮さんが奥にいる千冬くんを呼びに行ったおかげで会話はそこでおしまいになってしまった。

それからすぐに「待たせた! ごめん」と言って事務所から出てきた千冬くんと一緒に店を出て、店の前で羽宮さんと別れの挨拶をする。明日の早番は羽宮さん一人だけらしく「鍵忘れないでくださいよ」と千冬くんが言っているのが聞こえた。それに「うるせぇな」と答えくるりと踵を返して私たちとは反対の方向へと歩いていった羽宮さんがこの日に言った「趣味悪ぃ」という言葉の真意が分かるのは、もう少し後の話になる。



この日を境に羽宮さんはたまに千冬くんとのことを私に訊ねてくるようになった。そうやって彼に二人のことを聞かれても不躾な質問だと勘に触るようなことはなくて、千冬くんがいなくて二人になってしまうときペットのことを話題にしようにも大した知識があるわけでもない私にはむしろ羽宮さんと会話する話題が増えて有難いと感じるくらいだった。あんまり詳しく話しすぎると千冬くんに怒られるかもしれないから程々にしておくように気をつけておく必要はあるのだけれど。

羽宮さんもここで千冬くんと一緒に働いてはいるものの、そこまで動物が大好きというわけではないらしい。けれど、担当する動物の世話や割り振られた仕事はきっちりとこなしているから、そうしたところが千冬くんに信頼されて一緒にこうして仕事仲間として過ごしているのだろうと思った。

そうして時折言葉を交わすようになった私たち二人の間にペットと色恋以外の話題がもたらされるきっかけとなったのは、休憩時間中に羽宮さんが開いていたソーシャルゲームだった。
「あれ、羽宮さんもそのゲームやってるんですか? 私も今やってるんですけど結構面白いですよね」

たまたま見かけた画面に表示されていた起動画面に見覚えがあり、同じものを起動したスマホをかざしながら声をかけると、椅子に座ってスマホへ視線を落としていた羽宮さんがこちらを向いて驚いた顔をした。
「……やってるけど。意外。ゲームとかやるんだアンタ」
「会社のお昼休みとか通勤のときとか暇なんでやってるうちにハマっちゃって。でも千冬くんは勧めてるのに全然やってくれないんですよ」
「アイツこういう細かいのあんま得意じゃねぇもんな」
「そうなんです。でも私も千冬くんのやってる格闘ゲームとかは全然分かんないから人のこと言えないんですけど……。羽宮さんどのキャラ持ってるんですか?」

私もそこまで課金はしないながらもそこそこの成果を上げられている方だと思っていたけれど、羽宮さんはその上をいっていた。聞けば、毎日こつこつゲーム内通貨を貯めてそれで徐々に手持ちのキャラクターを強くしていっているらしい。あとはたまの課金も。一通り見せてもらった後で「凄いですね」と感嘆の言葉を漏らすと視線を逸らした彼から「……やることねぇから暇なだけ」と照れたような声色で返事が返ってきて、またかわいいなと思ってしまった。

それからはメッセージアプリのアカウントをお互いに教え合って、店の外でも時折やりとりをするようになった。そうしているうちに、徐々に彼の中から私に対する壁のようなものがなくなっていくのを感じて嬉しくなったりもした。

店に行ってもこちらから挨拶をするより先に声をかけてくれることが増え、私の彼に対する呼び方も羽宮さんから一虎くんへと変わった。期間限定のイベントの話をしている途中、不意にこちらを見た彼に「ハネミヤサンっていちいち言うの面倒くさくねぇ?」と持ちかけられたからだ。
「一虎でいーよ」
「一虎くん?」
「ん。あと敬語もだりーからナシでいい」
「それはちょっと……」

店長である千冬くんが一虎くんに対して砕けた敬語混じりの口調で話しているのに、その恋人の私が千冬くんをすっ飛ばして彼に向かってタメ口で話すというのには些か抵抗があった。それに千冬くんとは気心の知れた仲のようだったから気が付かなかったけれど、本当は一虎くんの方が一つ学年が上らしい。つまり私とも一つ歳が離れている先輩ということになる。

学生時代ほどではないにしろ、それなりにやんちゃをしていて厳しい上下関係の中で過ごしてきたであろう千冬くんの前で彼の先輩とタメ口で馴れ馴れしく話すことはいくら本人がいいと言ってもさすがに憚られてしまって、申し訳ないと思いながらも断ると一虎くんは残念そうな顔をした。見たことのないその表情に少し胸が痛んだけれど、その後すぐに千冬くんの顔を思い浮かべてこれでいいんだと自分を納得させて、また話題をゲームの中のイベントへと戻す。

それからすぐに千冬くんがお店へ戻ってきて入れ替わりで一虎くんがお昼休憩に行くまでの間、ずっと彼は影のある曇った表情をしていて、ついには何も経緯を知らない千冬くんに「一虎クン何かあったんすか?」と訊ねられていた。

一虎くんと私が親しく話すようになったことに一番驚いていたのは千冬くんだった。お風呂上がりにソファに座ってスマホをいじっていると、画面を覗き込んできた千冬くんが通知欄に表示された『羽宮一虎』の名前を見て「えっ一虎クンとラインしてんの?」と素っ頓狂な声を上げる。
「たまに攻略情報とか教えてくれるんだ。ほら、前に同じスマホのゲームやってるみたいって話したでしょ」
「へえー……」
「お店で会ったときも声かけてくれるし、結構マメだよね一虎くんって」
「まぁ確かにちまちました掃除とか店でもよくやってるよな。……つーか、オレの知らねーうちにいつの間にか一虎クンとか呼ぶようになってたんだ」
「うん、そうやって呼んでいいって言われたから……」

千冬くんはソーシャルゲームの類をあまり好まない。話題になった流行りのゲームアプリはすぐにインストールするけれど、一ヶ月も経たないうちに飽きてプレイするのをやめてしまう。いわく、「キャラいっぱいいすぎだしよく分からん」のだそうだ。その代わりコンシューマーゲームが好きで、よく『八戒』や『タケミっち』という名前の友達と通話しながら格闘ゲームやRPGゲームでオンライン対戦をしている。そうしたとき一緒にいる私は大体手持ち無沙汰になってしまうから、件のアプリを開いては千冬くんのプレイを眺めつつ片手間にイベントをこなしたりしていた。

だから、こうして一虎くんと話しているのはそうした経緯があるからなのに、千冬くんにとっては面白くなかったようで一通り私が事の次第を説明し終えると露骨に不機嫌になってしまった。やりとりが一段落して通知が来なくなったスマホをソファの脇へ放り投げられ、手を引かれるまま寝室に向かうなりベッドに寝かされて覆い被さられる。そして、その日は月末でもないのに千冬くんは何度も何度も私を抱き潰したのだった。


こつこつ積み重ねることが得意ということは、裏を返せば突発的に起こる予想外の事態に対応するのが苦手ということでもある。

昨日散々千冬くんにひんひん言わされたおかげで危うく寝坊して会社に遅れてしまうところだった。急いでシャワーを浴びて髪を乾かし、がらがらになってしまった声を少しでもマシにしようと喉飴を舐めながら身支度を整える。家を出る準備が一通り整ってから、私よりも遅く起き出してシャワーを浴びる用意をしている千冬くんに向かって「今日会社だったのに……」と恨み節を口にした。その言葉を聞いて昨日とは打って変わってばつの悪そうな表情を浮かべた千冬くんがしばらく逡巡した後に「……あそこのカフェのケーキ奢る」と持ちかけてきて、その提案に乗ることにした私は「じゃあ会社終わってからお店寄るね」と言ってから玄関のドアを閉めて会社に向かった。

会社に行って担当分の仕事をこなしペットショップへ向かう頃にはすっかり機嫌も良くなっていたけれど、せっかくケーキを奢ってくれるというのだからこれに乗らない手はない。先に店内にいた女子高生のグループがいなくなったのを見計らって中へ入ると、レジにいた千冬くんは私の顔を見て「やべっまだケーキ買えてねぇ!」と焦っている様子だった。ちらりと壁にかけられた時計の時刻を確認する。17時半だ。件のカフェとケーキ屋が併設されている私のお気に入りの店が閉まる時間は18時で、ここが閉まる時刻と同じ。店を閉めてから大慌てで走っても、到底間に合いそうにない。頭を抱える千冬くんに、少し離れたところで私たちの話を聞いていた一虎くんが助け舟を出した。
「……ケーキってあの駅前の店のやつか?」
「そうそう」
「それなら今から行ったらまだ買えるだろ。オレがレジ締めとくからオマエ行ってこいよ」
「えっマジ? いーのかよ一虎クン」
「どーせもうこんな時間に誰も来ねぇだろ」

その言葉を聞くやいなや、「サンキュー! 助かる!」と言った千冬くんがエプロンを着けたままで店の外へと飛び出して行った。こうした融通がきくところも、個人で経営している店のメリットだと思う。果たしてどんなケーキを買ってきてくれるんだろう。あんな風にエプロンも外さずに急いで出ていって、もう私はそんなに怒っていないのに、何だかちょっと可笑しい。可愛らしい装飾が施された店内で×Jランドのエプロンをつけた千冬くんがケーキを選んでいる姿を思い浮かべてくすくすと笑っていると、レジのところへ移動した一虎くんがじっとこちらを見ているのが分かった。

一人で笑っていて気味が悪いと思われたかもしれない。慌てて「すみません」と頭を下げると「千冬帰ってくるまで座ってれば」と促され、レジ横に置かれた椅子に腰を下ろす。事務所から鍵を持ってきてレジを開けた一虎くんは手に持ったお札をペラペラと捲りながら一枚一枚丁寧に数えている。何をするでもなくその様子を眺めていると、ふいに一虎くんが口を開いて言った。
「何でそんな遠くにいんの」
「えーっと……」
「千冬に何か言われた?」
「そういうわけじゃないんですけど」
「昨日結局ライン返さなかったじゃん」
「えっ?」

その言葉にスマホを確認すると、確かに一虎くんからメッセージが届いていた。……昨日ベッドで半分寝そうになりながら見たせいで、既読をつけた後で返信せずにアプリを消してしまっていたらしい。「すみません、寝ちゃってたみたいで」と言ってから、またいつでも送ってくださいと続けていいものか頭を悩ませた。昨日私のスマホの画面を見た途端に不機嫌になった千冬くんの様子を思い浮かべる。またの機会を約束するのは簡単だ。けれど、それは私たちにとって一番良いことではないような気がした。
「一虎くんって、その、他のゲーム仲間の人とかいないんですか? 千冬くんっていつも八戒くんとかタケミチくんって子と一緒に話しながらゲームやってるんですよ。何か高校の同級生らしくて」

大人になってからも付き合いがあるっていいですよね、と締めくくった言葉をじっと聞いていた一虎くんは、少し間を置いてから「いねぇ」と小さく呟いた。
「オレ高校とか行ってねーからそういう友達いねぇんだよ。年少入ってたから」
「……」
「驚かねぇってことは千冬から聞いたんだ?」

投げかけられた質問に小さく頷く。昨日一通りの事が終わって二人でベッドに寝転んだ後、微睡みながら千冬くんがぽつぽつと話してくれたのだ。中学時代に入っていた暴走族のチームのこと、そこで今でも尊敬する先輩に出会ったこと、そのチームにはかつて一虎くんもいたこと、そんなメンバーと一緒になって毎日のように喧嘩に明け暮れていたこと。初めのうちはただの喧嘩のはずだったチーム同士の諍いがどんどんと大事になっていって、やがて命を落とす人まで出る事態になってしまったこと。月末にいつもどこかへ行っているのは月命日にその人のお墓参りをしているからで、そこへ行くとどうしても感情が昂ってしまうということ。そして、その千冬くんが尊敬していた人が命を落とす原因を作ったのが当時敵対していたチームに入っていた一虎くんだったということも。時折言葉に詰まりながら、千冬くんは話してくれた。

一通り話し終えた後、何と言ったらいいのか分からなくて黙ったままの私に千冬くんはにっと笑って「怖くねぇの?」と訊ねた。「怖くないよ」と首を振る。怖くない。それは本当だ。だって千冬くんはいつも、私にとびきり優しくしてくれる。それは一虎くんだって同じで、愛想を振りまくようなタイプでなくてもこうして私たちのことを気にかけてくれるし、彼の首に彫られた刺青を見ても怖くないと思ったのは本心からだった。けれど、今の一虎くんは何だかいつもと雰囲気が違っていて、レジから離れた彼が一歩ずつこちらへ近づいてくる度に後ろへとたじろいでしまう。
「聞いてたんなら千冬に教えてもらわなかったのかよ。オレが年少行く前に何したのか」
「……知ってます」
「知ってんのにそれでもオレにああやって馴れ馴れしくしてきてたってこと? 随分お人好しなんだな」
「な、馴れ馴れしくなんか……」
「してんだろ」

してない、と言いかけた言葉は一気に距離を詰めてきた一虎くんに遮られてしまった。腰かけていた椅子と怒っているような様子の一虎くんに挟まれて、一切の身動きが取れなくなる。今まで生きてきた中で、こんな風に距離を詰めてきた人なんていなかった。顕になった彼の首元から虎の刺青が覗いていて、普段はそんな風には決して思わないのに、初めてこの人のことを怖いと思った。

私を見下ろしてくる一虎くんの怒った顔を見ることが出来なくてその首元に視線を注いでいると、私の首元へと手を伸ばした一虎くんが服の襟を掴んでぐっと引き下げてくる。慌てて制止しようとするも間に合わなくて、暴かれてしまった胸元にかっと顔が赤くなった。下着が見えるほどではないにせよ、そこには昨日千冬くんに付けられたばかりのキスマークがあるからだ。
「……これ付けたの千冬?」
「ひっ、ちょ、ちょっと一虎くん……!」

こちらに向かって伸ばされた指が鎖骨の下辺りの赤く鬱血した跡の上をなぞる。その触れるか触れないかくらいの手つきに背筋が粟立った。私の肌を撫でる一虎くんの目はぎらぎらとしていて、いつもの彼とはまったく異なる雰囲気をまとっていた。

怖い。直感的にそう感じて、ぶるぶると身体が小さく震え出す。「千冬くん」と声に出したいのに、震えてばかりの喉からは全然声が出てこない。

鳴き声を上げるペットたちのケージがひしめいている狭いこの空間で今の私たちの間を隔てるものは何もなくて、ただならぬ雰囲気にぶわっと嫌な汗が噴き出してくる。背中いっぱいに冷や汗をかく私をよそに、一虎くんは首元をなぞりながら静かに言葉を続けた。
「……オレのせいで千冬にこんな風にされたんだろ?」
「あ、違っ……! 違うから……! やめて、あの、一虎くん、ほんとにやめてください」

少しでも彼から離れようと前に突き出した手は呆気なく振り払われてしまって、一虎くんがさらに距離を詰めてくる。こんなところを千冬くんに見られてしまったら、と思うと一気に背筋が冷たくなった。何を思われても言い逃れが出来ないほどの距離のところに一虎くんがいて、逃げ出したくてたまらないのにどうすることも出来なくて、涙が出てきそうだった。上を向くことが出来ず目線を彷徨わせる私を見下ろしたままの一虎くんが、私の首元に手を当てたまま低い声で凄んでくる。
「違わねぇだろ、今日千冬最初にオレ見たときすげぇ機嫌悪かったし。オマエのことオレに取られると思ったんだろうな」
「そんな、千冬くんはそういう人じゃ」
「そーいうとこがお人好しだって言ってんだよ。……オマエもアイツも」

そう言った彼の薄暗い店内で煌々と輝いている金の双眸は、獲物を前にした獰猛な虎のようだった。壁にかけられた時計の針は17時45分を差している。ようやく声が出せるようになった喉から「千冬くん」と絞り出した声はひどく嗄れていた。

カフェへと走って行った千冬くんはまだ、店へは帰ってこない。

東リベ△夢アンソロジー寄稿作品

一虎くんの危うさと幼さが共存する感じがとても好きです