Summer Train

東京の電車って、何でいつ乗っても混んでるんだろう。プシューと音を立てて停まった車両から次々と吐き出されていく人に揉まれながら、そう思った。ドアが開くなりむわっと吹き込んでくる蒸し暑い空気にじっとりと身体が汗ばんでいくのを感じた。

降りる人と新たに乗ってくる人で押し合いへし合いしている車両の中、不自然にぽっかりと空いた一人分のスペースの前に立ち、ドアから次々に乗り込んでくる人の波に背中を押されながら流されないように踏ん張っていると「ちゃんと立っとけよ」と降ってきた声に顔を上に向ける。すると、だるそうに吊り革を両手で掴んでいる男の頭に彫り込まれた龍と目が合って小さく顎で座席の方をしゃくったドラケンの顔が見えた。

「座れば?」
「……え、でも」
「こんなちっせー隙間オレは座れねぇし」

そう言ってシートを指差したドラケンの白と黒のカーディガンに包まれたその肩は私の二倍はあろうかと思われるほどの広さだった。その言葉を聞くなりすぐさま空いたスペースの両隣に座っている人たちが気を遣ってさらに隣の人と距離を詰めようと腰を浮かせて座り直している素振りを見せたのが見えたけれど、到底185センチ75キロの人間が収まるような隙間は空けられていない。こんなところに無理やりこの男が座ろうものなら両隣がギチギチになって大変なことになってしまう。ただでさえ蒸し暑い夏日だというのに、不快指数は高まっていくばかりだ。そうなってしまったらいつ沸点の低いこの男が怒り出すか分からないし、ここは言われた通り座ってあげるのが良いだろうと思う。そう一人納得し、「すみません」と両隣の人に軽く会釈をしながら肩にかけていた鞄を前に回して一人分のスペースに腰を下ろした。私の前に立ち吊り革に掴まっているドラケンの腕からはさっき薬局で買った買い物袋がぶら下げられていた。

「荷物持とうか? 邪魔でしょそれ」
「オマエに任せたら降りるとき忘れそうだからいい」
「えーでもぶら下げてんの邪魔じゃない?」
「いいっつってんだからいーんだよ」

しつけーなぁ、と口を尖らせてしまわれてはもう何も言えなかった。「分かったよ」と渋々諦め腰掛けていたシートにもたれて背中を預ける。ガタンゴトンと音を立てて時折揺れる電車の中はスーツに身を包んで新聞を読んでいるサラリーマンやベビーカーを傍らに置いた若いお母さん、私たちと同じように制服に身を包んだ女の子三人組など様々な人でぎゅうぎゅう詰めで、そんな中でも中学生離れしたガタイのドラケンは一際目立っていた。そして時折「あちー」と呟きながら気だるそうに立っているその周りには満員電車とは思えないほどのスペースが不自然に空いている。

子供の頃からドラケンは嫌でも注目を集める存在だった。身体は他の子より一回りも二回りも大きくて、高学年になる頃にはランドセルが全く似合わなくなっていて、頭には龍の刺青、免許も取れない年齢のくせに自前の改造バイクを乗り回しては喧嘩に明け暮れている。これで目立つなと言った方が無理な話だ。それは街中でも学校でも電車の中でも同じで、周囲の乗客から遠巻きにされながらもちらちらと様子を伺うように投げられている視線に居心地の悪さを感じてシートの上で出来る限り小さくなりながら早く目的地に着くことを願った。

電車の中は冷房が付いているとは思えないほどに暑かった。多分、人口密度に冷風が追いついていない。確か東京の電車の乗車率って200パーセント近いんだったっけ。もうちょっとダイヤ増やしてくれないかなぁ。たまにしか乗らない私ですらうんざりするほどの環境なのだから、これでは毎日電車に乗っているサラリーマンや学生が気の毒だ。じっとりと汗ばんでしまった額と首筋をハンカチで拭おうと少し身じろぎすると、ドラケンの手からぶら下げられた袋に腕が当たってカサカサと音が鳴った。お店の女の子のお気に入りだという店のロゴが印刷された袋が振り子のようにゆらゆらと左右に揺れる。「チッ」と降ってきた舌打ちに私ではなく隣に座るサラリーマンの身体がびくりと跳ねたのが分かった。

前に立つドラケンはさっきにも増してとてつもなく近寄りがたいオーラを発している。居た堪れなさが加速して、一刻も早く電車を降りたくなった。渋谷にはまだ着かない。新宿に到着した電車のドアからそそくさと降りていく人たちを見下ろしているドラケンのこめかみには青筋が浮かんでいた。そんなに機嫌悪くするなら「電車で買い出し行くぞ」なんて言わなきゃ良かったのに、私はバイクとか、それがダメならせめて自転車で行こうよって提案したんだけどなぁ。

ようやく電車から降りて肺に取り込んだ空気は排気ガスまみれのはずなのに生き返るような心地がした。息苦しさを感じていたのは暑さのせいだけじゃない。もう二度と一緒に電車には乗らないでおこうと固く決意しながら前を歩くドラケンとぶら下げられた買い物袋を追いかける。「あっちーな」と太陽を睨むように目を細めながら言ったドラケンの声がガヤガヤとした渋谷の喧騒にかき消されていった。そこの角を一つ曲がって、まだ看板の付いていないネオン街を抜ければドラケンの家はもうすぐそこだ。自然と足取りは早くなった。

「ねえ、ドラケンの家ってシャワーあるんでしょ。使わせてよ」
「あ? 何でだよ」
「電車で汗かきすぎて前髪ベタベタになっちゃったから。バイクの後ろ乗せてくれたらこんなことにはならなかったのに」
「うるせぇなぁ。俺は女は後ろに乗せねー主義なんだよ」

嘘ばっかり、乗せたい子がいるくせに、その子以外は乗せる気もないくせに。心の中で毒付いた言葉は言えなかった。

「オマエ今からどうすんの?」
「109覗いてから帰るよ。あっついからちょっと涼んで行きたいし」

これ見よがしにパタパタと手で顔を扇いでみせてもドラケンは気にする素振りを見せなかった。ボタンを押したドラケンの後ろで同じようにエレベーターの到着を待つ私の首筋をつうっと伝った汗がコンクリートに吸い込まれていく。それを見ていると109まで歩いていくのがとてつもなく億劫な気分になった。本当は別に見たいものなんてないけど、渋谷に来る口実がこれしか思いつかなかったから適当にワンフロア回ったらその辺の自販機でジュースでも買って帰るつもりだ。またあの灼熱地獄の電車に乗るのだけは嫌だから、出来る限り夕方まで時間を潰して涼しくなった車内で座って帰りたい。ドラケンみたいに大きい人が一緒でなきゃ満員電車なんか乗ったら揉みくちゃにされるのは目に見えてるし。無言で下へ下へと下ってくるエレベーターの表示を眺めていると、チーンとエレベーターの到着を知らせる音が鳴った。

「じゃーな。気つけて帰れよ」

音を立てて開いたエレベーターのドアに乗り込んだドラケンが袋をぶら下げた手を挙げてきたのに手を振って、ドアが閉まるまで見送った。エレベーターが4階で止まったのを確認して、踵を返して109を目指す。ドラケンは店に戻ったらきっと、買出しを頼まれたあの袋をお店の女の子に渡して、それから東卍の集会にでも行くんだろう。私はそこに連れて行ってもらえない。何故なら私はあの子じゃなくて、そして、あの子みたいに素直じゃないから。

徐々に看板に灯りがつき始めたネオン街を一人歩いていく。渋谷の街は嫌いだ。ゴミゴミしていて人が多くて酔いそうになるし、行き交う人たちにぶつからないように歩くのが大変だから。その間を縫うようにして走る鼓膜が裂けそうなぐらいの大きな音を立てるバイクだって本当は好きじゃない。だけど、それに跨るあの大きな背中と風に靡く後ろ髪を眺めているのは好きだった。お店の女の子に軽口を叩きながらもちゃんと買い出しをしてきてあげるところも、あんな怖い顔しておきながら電車で一つだけ空いている席を迷わず譲ってくれる優しいところも好きだ。だけどそれを独り占め出来ないことをどうしようもなく虚しく思った。ちょっとは名残惜しそうな顔してくれたっていいのに、どれだけ呪ったってこの想いはビルの向こうにいる彼には届かない。

渋谷の街は嫌いだ。女子中学生が一人で泣いて歩いていても、誰も何も気に留めやしない。東卍だって嫌いだ。ドラケンを私の手が届かないところに連れて行ってしまう。だけど本当は、好きだってことも、もっと一緒にいたいってことも、あの子じゃなくて私を見てほしいってことも、集会に連れて行ってほしいってことも、何一つとして言えない私のことが一番嫌いだった。誰にも言えない熱くて苦しい想いを抱えた私を、汚れた渋谷の空気だけが包んでいた。