Second Kiss

いわゆる『不良』と呼ばれる人たちは、みんな総じて手を出すのが早いものだと思っていた。彼らを構成するものはとてもシンプルだ。酒と煙草と喧嘩と女、それにバイク。夜な夜なクラブに繰り出しては朝まで踊り明かして騒ぎまくり、手当たり次第に異性に声をかけてはその肩を抱いて夜のネオン街へと消えていく。未成年での飲酒や喫煙は当たり前、欲しいものはたとえ盗んででも手に入れて、気に入らないことがあればすぐに殴り倒して相手が口が聞けなくなるまで暴れ回る。そんなヤバい奴らがのさばって好き放題しているこの東京の街で、彼――九井一だけは、他の不良たちと一線を画す存在であるように感じた。

「染み付いたモンっつーのは中々取れねぇんだよ」とよくココは口にした。それはてっきり彼自身が不良以外の生き方を知らないということかと思っていたけれど、近頃の彼を見ていると、どうもそういうことだけではないらしい。

浅山図書館の書架が連なる窓際の一番奥まったところにあるテーブル。そこがココの特等席ということに私が最初に気が付いたとき、分厚い本を何冊もテーブルの上に重ねて文字の羅列を淡々とひたすらになぞっていた彼は今よりもまだ髪が短く、今よりも幾分かあどけない顔をしていて、そして私はすぐ近くの高校の制服に身を包んでいた。

「その本置いてあるのここの棚じゃねぇけど」

自分に声をかけられている、と気づくまでに暫しの時間を要した。すぐ後ろから響いてきたような気がしたその声にきょろきょろと辺りを見回してみてもこの辺りには私と目つきが悪い黒髪の男の子しかいなくて、頬杖をついて分厚い本に視線を落としていたその男の子が声の主だとようやく気付いた私が「すみません」と小声で謝ると「……913」と呟かれた言葉に首を傾げる。俯いていた彼の顔がこちらに向けられ視線が交わって、射抜くようなその眼光にたじろいでいると「棚の名前。ここ3の列だろ、その本置いてあんの900番台だからこっちじゃねぇよ」と続けられた言葉に手に持っていた本の名前を書いたメモに視線を落としてから棚に貼られたラベルへと目を向けると、確かにそこには913ではなく『337』と書かれていた。

「あっ、え、本当だ。ありがとうございます」
「……」

分かったならさっさと行け、とばかりに無言を貫く彼から発せられるオーラに後押しされて、そそくさと9の棚がある場所を目指す。てっきりこっちの方に置いてあるものだと思い込んでいたものだから、メモを片手にうろうろとこの辺りを何往復もしてしまった。しばらくの間ずっと見られていたということなのだろうか。そしてとうとう我慢ならなくなって声をかけてきたということなのかもしれない。「こいつずっとうろうろしてるな」と思われていたのだとしたらそれはちょっと恥ずかしいし、読書の邪魔をしてしまったのなら申し訳ないなと思う。本棚の場所を間違えるばかりか、いつまで経ってもそれに気付かない間抜けな奴として顔を覚えられていたりしたら嫌だなぁ。

どれだけ探しても見つけられなかった目当ての小説は、9の番号がついた本が並べられている棚に足を運ぶなりあっさりと見つかって拍子抜けした。良かった、これで読書感想文が書ける。貸し出しカウンターで手続きを済ませた後、最後にもう一度お礼を言おうと思って3の棚の方へと足を向けてみてももうそこに彼はいなくて、名前を聞きそびれてしまったことを残念に思った。親切な人だったな。見た目ちょっと怖い感じだったから声かけられたときに必要以上に警戒しちゃったけど、失礼だったかもしれない。人は見かけによらないというのはこういうときのことを指すのだろう。次にもしこの本を返しにきたときに会えたのなら名前を聞いてみよう。もしかしたら仲良くなれるかもしれないし。

年に数回行くか行かないかというくらいの近所の図書館にいる人のことなんてこれまでこれっぽっちも意に介していなかったのに、一度存在を認識するとどうにも気になってしまうのだから我ながら現金な女だと思った。そうして読書感想文を書き終えた後も何かと理由をつけては図書館へと通い詰める私と同じくして、彼はいつ覗いてもあのテーブルに座って分厚い本や新聞を読んでいた。

棚を隔てて顔を合わせる回数が増えるごとにいつしか一つ二つと短いながらも言葉を交わすようになり、しまいにはテーブルに座る彼の隣に腰を下ろしても何も言われなくなった。そしてそろそろ図書館の外でも会いたいと切り出してみてもいいのではないかと私が思い始めていた矢先、事件が起きた。

ココが顔に大きな傷を作ってやってきたのだ。

赤く腫れ上がった顔を見るなり「どうしたのそれ!?」と思わず声を上げてしまった私に煩わしそうに顔を顰めたココは新聞をめくりながらしばらく黙りを決め込んでいたけれど、「理由を聞き出すまでは帰らないから」と言い張る私に観念したのか渋々といった様子で小さく「……喧嘩」と呟いた。

喧嘩。思いもよらない単語が飛び出してきて反応するのが少し遅れる。人に殴られたということだろうか。友達との些細なすれ違いや小さな諍いは何度か経験したことがあってもそんな風に顔に大きな傷を作る喧嘩なんてしたことがなくて、あまりの現実感のなさにココの顔についた赤黒い傷跡をまじまじと見つめながら「痛い?」と尋ねた言葉に「……別に」と返事が返ってきたけれど、絶対嘘だと思った。

「怪我してるなら家で寝てないとダメだよ」
「そういうわけにもいかねぇんだよ」
「なんで?」
「今の時代、金を稼ぐには情報がいる。……情報ってのは水物だからな、その日に見ねぇと意味がねぇこともよくある」
「……んーと、よく分かんないけど株とかそういうのってこと?」
「……まぁ、そんなモンだ」
「そんなの私が見てあげるのに」
「オマエが見たって分かんねぇだろ」

仰る通りである。会話が一区切りついて再び新聞に目線を落としたココにそれからも何度か病院に行くよう勧めてみたけれど、頑として首を縦には振ってくれなかった。なかなかに強情なところがある男だ。いくら打っても打っても響かないその様子に、私は前に彼が口にしていた『染み付いたもの』の片鱗を見たような気がした。

▲▼▲

それからも事あるごとにココは顔に傷を作って図書館にやってきた。どうしてそんな風に喧嘩ばかりしているのか、よっぽど仲の悪い相手でもいるのだろうかと不思議に思って尋ねると、なんと暴走族に所属しているかららしい。まさかそんな単語が彼の口から飛び出してくると思わなかった私が意表を突かれてしばらく言葉を発することが出来ないでいると、「……ビビったか?」と細長い目を吊り上げたココが言う。

「ううん、ビビってはないけど。ちょっとびっくりしちゃっただけ」
「……ふーん」
「私暴走族の人って初めて会ったんだよね。今度バイクの後ろ乗せてよ」
「オレは単車には乗らねぇよ」

持っててもオマエは後ろには乗せねぇけどな、というココの言葉にケチだと口を尖らせる。バイク乗らないのに暴走族なんだ。それっていいんだろうか。それじゃあ一体暴走族に入って何をしてるんだろう。暴走することが目的じゃないの? そう聞きたかったけれど、ココの視線が私から広げられた紙面に移ったのを見て借りてきた雑誌に同じように目線を落とし書かれている言葉を目でなぞった。

今日もココは例の特等席に腰掛け新聞の経済面を熱心に読んでいる。その隣に私が座って雑誌を眺めていても何も言わないけれど、話しかけてくることはない。本当に、何も言わずにただ隣に座っているだけだ。

来シーズンのトレンド特集が何ページにも渡って掲載されているファッション雑誌をパラパラとめくっている途中でふと手が止まる。よくある恋愛に特化した読者のアンケート結果が掲載されたページには、ファーストキスの年齢だとか理想のシチュエーションだとかが読者のコメント混じりに紹介されていた。それを面白半分で読みながらふと考える。新聞や難しい本を読んでいる姿ばかりを見てきていたけれど、隣に座るこの男は一体どうなのだろう、と。

「ココってさ、キスしたことある?」
「……は?」

「何だよ急に」と目を釣り上げているココは心底不機嫌そうな顔をしているけれど、今回ばかりは引き下がってやらない。なにせ今日の私は一味違うのだ。

「どうなの?」
「……あるけど」

重ねた私の問いに渋々といった様子で答えたココの顔を覗き込むと、鬱陶しそうに眉を寄せられた。あるんだ。そりゃそうだろうな、クラブとかよく出入りしてるって言ってたし。そんな人が町の図書館にいることの方が、きっとおかしなことなのだろうと思う。私は図書館にいるココしか知らないからクラブにいるところの方が想像つかないけど。

「いつしたの? 幼稚園のときとか?」
「言いたくねぇ」
「なんで?」
「……言ったよな? 情報は水物だって」
「それって株とかの話だって前言ってたじゃん」
「……」

返事をするのも面倒くさい、といった様子で何も言わなくなってしまったココの横顔をじっと見つめ、意を決してずっと尋ねてみたいと思っていた本題を切り出してみる。

「私とはしてくれないの?」

何度図書館へ足を運んでも、ココが私に対して心を開いてくれることはなかった。こうして隣の席に座っても、いくら会話を重ねようとも、好きだって伝えても、彼の私に対する態度が変わることはない。こうして図書館で会って時折小声で話すのも、私の方はもうとっくにデートのつもりだったのに。……ココが好きだからここに通ってるのに。きっとココの方は何とも思ってないんだろうな。

想定の範囲内だから今更傷ついたりはしないけれど、私の一世一代の質問もココにはまったく響いている様子がなくて、ちらりとこちらを一瞥した後「何言ってんだ」と顔を顰めた彼に「だってココが私といても何もしてこないから」とは言うとさらに渋い顔をされた。分かってる。ココが私のことを何とも思ってないってことぐらい。だけど、好きになってしまったものはしょうがないじゃんか。

ココが初めてキスした相手はどんな人だったんだろう。元カノとかなのかな。その人と私は何が違うんだろう。……どうすれば私もその人みたいにしてもらえるんだろう。考えて考えて考えて、でも分からなくて、馬鹿馬鹿しいと頭では分かっていながらも、前から疑問に思っていたことをぶつけてみることしか出来ない。

「もしかしてお金必要だったりする?」
「は?」
「キスして欲しかったら10万出せ、みたいな」
「……」

本日二度目のココの「は?」には、僅かにだけ困惑の色が滲んでいた。そしてその表情がすぐに呆れ顔へと変わったのを見て、やはりさっきの言葉は失言だったのだと気付く。いや、違くて、と弁解しようと口を開くより先に、読んでいた新聞のページを閉じて椅子に座っていた身体ごとこちらを向いたココにキッと睨みつけられて言葉に詰まった。釣り上げられた細い目元はまるで獲物に狙いを定めた爬虫類の姿を連想させる。

「オマエなぁ」
「うん」
「オレのこと何だと思ってんだよ」
「何って」
「んなはした金で動く野郎と思ってんのか」

はした金。ココの口からするりと出てきたその台詞に、私にはとても一日では稼ぐことが出来ない大金も、彼にとっては造作もないものなのだと改めて実感する。やはり違う世界の人なのだココは。分かりきっていた事実を改めて突きつけられて、目の前が真っ暗になるような心地がした。

「くだらねぇ」

相当に機嫌を損ねてしまったらしく、畳んだままになっていた新聞を片付け始めたココが「今日は帰る」と言って立ち上がった。その剣幕にたじろいで、「ごめん」と短く口にするとじっとこちらを見下ろしてきたココが小さく舌打ちしたのが聞こえた。

新聞を元あった場所に戻して図書館を出ていくココの後ろを小走りで追いかけていく。どれだけ急いで走っても追いつけなくて、普段図書館の中を一緒に歩いているときは歩幅を合わせてくれていたのだと改めて気が付いたけれど、今更そんなのに気がついたところでもう遅かった。馬鹿なことを言ってしまった。……こんなにもココの機嫌を損ねてしまうのなら、あんなこと言わなきゃ良かったのに。

図書館の外に出た背中がどんどん遠ざかっていく。しまいには見えなくなってしまったココの姿に俯いて滲んできそうになる涙を堪えながらしばらく立ち尽くしていると、いつのまにか目の前に呆れ顔をしながらココが立っていた。険しい顔をした彼を見上げてもう一度「ごめん」と謝ると、「何回も謝ってんじゃねぇよ」と言ったココの表情が少しだけ和らいだようにも見える。

「……馬鹿みたいなこと言ってるって思った?」
「まぁな。金さえあればオレがキスするとでも思ってんならおめでてぇ奴だと思った」
「本気で思ってたわけじゃないけど、……でも、ココにキスしてほしかったんだもん」

いわゆる『不良』と呼ばれる人たちは、みんな総じて手を出すのが早いものだと思っていた。なのにココときたら暴走族に入っているのに図書館で新聞を読んでるし、読んでいる本も難しいものばかりで、私にはてんで興味を示さない。異性としてココのことが好きだからもっと話したいと言っても曖昧にはぐらかされるし、たまにしてくれるお金の話はややこしいことばかりで、その本心もまったく掴めやしないし、ココのことになると私にはよく分からないことだらけだ。

そのくせ私の好意がバレてしまった後でもこちらを避けるようなこともせず、理解力の及ばない私に愛想を尽かしたりせず話しかけたらちゃんと返事をしてくれるところが好きだった。怒っていたのに最後にはこうやって戻ってきてくれるところも好きだ。……ココ、まだ怒ってるのかな。明日からまた図書館で会ってもちゃんと話してくれるだろうか。もう話しかけるなって言われちゃったら嫌だなぁ。ああ、本当に、あんなこと言わなきゃ良かった。後悔の念ばかりが募っていく。

「怒ってる?」
「別に」
「さっきは怒ってたじゃん」
「……オマエが」
「ん?」
「オレが何もしてこねぇっつったのが気に食わねぇだけ」
「……え」

そう彼が呟いた言葉の意図を確かめるよりも前に、こちらに向かって背を屈めたココにキスされた。途端に真っ白になった頭で何とか「なんで?」と呟くと、「してほしかったんだろ」と言いながらちらりと舌を出した彼に口をぱくぱくと動かすことしか出来なくて、それを見たココが「間抜け面」と揶揄ってくる。

「な、」
「あ?」
「何回目だったの? 今のキス」
「……さあな」
「私はファーストキスだったんだけど」

やっとの思いで絞り出した声でそう言うと、ココの瞳が少しだけ見開かれたのが分かった。

「ココは何回目か分かんないけど、私は初めてだからさ、大事にするね。好きになったのもキスしたのもココが最初だし」
「そうかよ」
「うん、……私、今日のこともココのことも、多分一生忘れられないと思う」
「……言ったな? 今自分で言ったの忘れんなよ。後悔しても知らねぇからな」
「するわけないじゃん」

すぐさまそう答えると、ココの眉間に寄せられていた皺がようやく薄くなったのが見えた。

――私が後悔することがもしもあるとするならば、彼の一番最初の人になれなかったぐらいのものだと思うのだけど、それは今はココには言えない。どんな気持ちでキスしてくれたのかも、今はまだ確かめられる術はない。

けれど、まったく違う世界の住人だと思っていたココがもしも私と同じような気持ちを抱いてくれたのだとしたら、これほど嬉しいことはないと思った。こうしてキスをした後も、ココが私のことをどう思っているのかは分からない。分かる日なんてきっと来ないのだろう。だけど、いつか来るかもしれない二回目のためにもう少しロマンチックな台詞を練習しておくくらいなら、私にも出来るかもしれないと思う。好きとも嫌いとも言わない彼が唇を重ねてくれる理由を確かめるのは、その後だっていいはずだ。