中学時代からコート上の王様として君臨し続けたその男は、とうとうその生涯をバレーボールに捧げる決意を固めたらしい。まがりなりにも恋人なはずの私に一言の相談もなく。

「ちょっと飛雄、私に何か言うことあるでしょ」

宮城県立烏野高等学校と書かれた看板の前で腕組みをして、行き交う学生服の集団をいくつも見送る。久しぶりに足を向けた校舎の変わらなさに感慨に耽る間もなく、校門に向かって歩いてきているお目当ての人物の姿を見つけるなり詰め寄った。詰め寄られた当の本人といえば『心当たりがない』とでも言いたげにきょとんとした顔で首を傾げていて、可愛いなと思う反面、今回ばかりは腹立たしさが募る。

「俺なんかしましたっけ」
「自分の胸に手を当ててよーく考えてごらん」

その言葉に素直に胸を手を当てて考え出すこと少し、未だによく分かっていなさそうな顔をする飛雄に本当に胸に手を当てて考えるやつがあるかとツッコミを入れてやりたいところだったが、そろそろ在校生からの視線が痛くなってきた。学ランの黒い集団の中に私服姿でいるのはあまりにも目立つ。他の人よりも頭一つ分は大きい飛雄と一緒にいるから尚更だ。

未だに不可解そうな顔をしている飛雄に向かって「この後ちょっと付き合ってよ」と声をかけるとこくりと頷いたのを確認して足早に歩き出す。この辺りでゆっくり話せるところと言えば数えるくらいにしかないはずだけど、どこがいいだろう。ここからちょっと歩いたところにあったファミレス、まだ潰れてないといいんだけどなぁ。

ガラガラのファミレスの窓際の方、四人席を二人で陣取って机の上のメニューを広げる。しばらく来ないうちにまた品数が増えたみたいだ。

「何食べようかなぁ」
「その限定メニューのやつ美味いらしいですよ」
「そうなの? じゃあこれにしよっと」

ベルを鳴らして店員を呼び、フライドポテトとハンバーグセットを注文する。その後で自分の分のポークカレーをオーダーした飛雄がきちんとサラダまで付けているのを見て、私もそうすれば良かったなと少し思った。良いプレーは健康な身体から。そのポリシーに則って、どんな時でも三食しっかりバランスよくご飯を食べるという烏野の方針は今も変わっていないようだ。

「アドラーズのことなんだけどさ」

運ばれてきたポテトをつまみながら本題を切り出すと、サラダを食べていた飛雄の視線がこちらへ向けられたのが分かった。

「何で何も言ってくれなかったわけ。進路決まったらすぐ教えてねって言ってたじゃん」
「あ」
「忘れてたって顔しないでくれる?」

出会ったときは高校一年生だった彼らも気がつけば高校三年生、卒業を間近に控えるようになっていた。谷地ちゃんは東京、月島くんと山口くんは仙台の大学へとそれぞれ進学することが決まったらしい。日向に関しては大学進学だの就職だのを一足飛びに飛び越えて、リオへと行くのだそうだ。それもビーチバレーをやりに。

久しぶりに連絡を寄越してきた菅原から「日向リオ行くんだって」と聞かされたときに出た第一声は「何で?」だった。去年の冬、高校を卒業してもバレーを続けるのかと聞かれた西谷が「俺は世界を見に行く」とか言い出したときも同じような感想を抱いたような気がする。いつだって、私の可愛い後輩たちはこちらの想像の遥か上を軽く飛び去っていくのだ。まるで羽の生えた鳥のように、何物にも囚われず自由に羽ばたいていく。そしてそれは目の前の男だって例外ではない。

私たちが烏野を卒業してからも、飛雄が宮城県内――――いや、男子高校バレー界で飛び抜けた才能の持ち主であることに変わりはなかった。全日本ユースの合宿には必ず招集され、雑誌やテレビからの取材の申込は絶えず訪れ、高校三年生にならないうちから大学や実業団、ありとあらゆるチームから引く手数多だとは聞いていた。学業面には些か不安がある飛雄でもスポーツ推薦なら名の知れた大学にだって行けるだろうし、ゆくゆくはオリンピック選手として世界を舞台に活躍することを視野に入れていることだってもちろん分かっていた。当然の選択と言えば当然だ。いやでも、それにしたってさぁ。いつから決めてたのか知らないけど、一言くらいこっちに相談があってもよくない? 百歩譲って相談じゃなくたって報告くらいはさ、してくれてもいいと思うんだけど。だって私たち付き合ってるんだし。

「日向には言ったの? アドラーズ入るってこと」
「言ってません」
「じゃあ日向がリオ行くのは知ってる?」
「知ってます。山口から聞いたんで」

この言い草だと山口くんから知らされない限りはきっとずっと知らないままだったんだろうな。自分からは聞こうともしなかったんだろう。それはちょっと、ドライなのにも程がありはしないか。別に日向と飛雄がめちゃくちゃ仲良しだとは私も思ってないし、むしろ口を開けば喧嘩ばかりしていたのも知っているけれど、仮にも三年間一緒にやってきたチームメイトなんだし。多少は気にならないものなんだろうか。いやそれとも、私が知らないだけでもしかして男の子って皆こんな感じだったりする?

「何であんたらは二人揃ってそんな感じなわけ……谷地ちゃんとか山口くんに同情するよ」

全くピンと来ていなさそうな顔でストローを咥えてオレンジジュースを飲んでいる飛雄の前でがっくりと肩を落とした。私たちが高校三年生だったときは澤村も菅原も東峰も、もちろん潔子ちゃんだって、高校卒業したらどうするのかくらいは教えてくれたし、クラスが違っても廊下で会えばそれぞれ目指す進路は違うけどお互い頑張ろうねと励まし合うことくらいはした。一つ下の後輩たちだって似たようなものだろう。そういうものだと思っていたのに、この後輩たちに関してはどうも『そういうもの』ではないらしい。

日向も日向だけど、飛雄も飛雄だ。大学に行かずに高校卒業したらすぐプロ入りって、どういうことか分かってるのかなぁ。

「飛雄」
「はい」
「アドラーズの本拠地ってどこか知ってる?」
「東京です」
「うん。で、ここ宮城だよね」
「はい」
「遠距離になるよね」
「……? 多分」
「別れよっか」
「何でですか?」

えっ飛雄さっきまでの私の話聞いてた?

「別れませんよ俺。さん以外に彼女作る気もないし」
「そんなの分かんないじゃん。私だって大学で他に好きな人が出来るかもしれないし。サークルの先輩とか」
さんって年上好きなんでしたっけ?」
「例えばの話だよ。それに飛雄って遠距離出来るタイプじゃないでしょ」
「それは分かんないスけど……」

嘘でもいいから「出来る」と言い切ってほしかったのに、こういうところばかり真面目なのだから仕方がないなと思った。そういうところ含めて惚れたんだから、仕方がないのは私の方なのかもしれないけれど。

「俺のこと嫌いになったんですか?」
「なってないよ。でも、好きなだけじゃどうしようもならないことっていっぱいあるでしょ」

だから別れた方がいいかなと思って、と続けた言葉に飛雄は渋い顔をした。空っぽになったサラダの皿にフォークを置いて、いかにも不機嫌そうにむっつりとした表情でこちらをじっと見つめている。互いのことを嫌いになったわけでもないのに別れるなんて、この頭の固い後輩を納得させられるだけの説明を自分では用意出来ないであろうことは分かっていたからこういう態度を取られることは想定内だった。

だけどこればかりは本当に、どうしようもないことなのだ。

どれだけ愛情が深くても、強い絆で結ばれていても、物理的な距離には勝てない。それは高校を卒業して二年、あれほど毎日一緒にいたバレー部の皆とも、そして彼氏のはずの飛雄とも徐々に連絡を取り合わなくなっていた私が一番分かっていることだった。環境が変われば人は変わる。付き合う人間だって変わっていく。変わらない関係なんてありはしないのだ。ましてや学生と社会人なんて、見ているものから生活リズム、自由に使えるお金の額、休日の過ごし方に至るまで、何から何まで違いすぎる。その『社会人』に先になるのが私ではなく飛雄だったというのは想定外だったけれど、多分、遅かれ早かれ私たちがこうなることは決まっていたんじゃないのかとさえ思えてくる。

「私と別れてもさ、飛雄にはこれから色んな出会いがあるよ。東京ってめちゃくちゃ人いるし。ほら、よくスポーツ選手の人って女子アナと結婚したりしてるじゃん」
「はあ」
「何その顔」
「別に、さん以外の話されても興味ねえなと思って」

あっけらかんとした表情の飛雄から発されたその言葉に水が入っていた紙コップを握り潰しそうになった。

「……じゃあ何でVリーグのこと一言も言ってくれなかったわけ」

飛雄がいずれ自分とは全く違う世界へと行ってしまうであろうことは、同じ部活で同じボールを部員全員一丸となって追いかけていたときから分かりきっていることだった。バレーボールを愛してやまず、そして、バレーボールからも人一倍に愛された男。それが影山飛雄で、本来ならそこに私が入る余地なんてどこにもない。それでも、ほんの少しだけでも飛雄は私を迎え入れてくれた。付き合った最初の頃は、本当にそれだけで良かったはずなのに。四六時中バレーのことばかりを考えては連絡もろくに寄越さない(こっちから送ったメッセージに一応返信はしてくる)飛雄のことも、可愛いとさえ思えていたのに。いつしかそれだけでは満足出来なくなってしまっていた。

初めから彼の中では決まっていたことだったのだとしても、せめて一言くらい、飛雄の口から聞いてみたかった。どうして何も言わずに全部自分で決めちゃうの。アドラーズに入ったら東京に行くことになるって分かったとき、少しは私のことを考えてくれたりした? 遠距離になったらもう前みたいにあんまり会えなくなるのかもって、寂しく思ったりはしなかった? ねえ、どうなの飛雄。教えてよ。

バレーボールに関すること以外をしているときの飛雄は決して饒舌なタイプだとは言えない。二人の間に流れる沈黙を破ったのは、「ハンバーグとポークカレーお待たせ致しました」という店員さんの朗らかな声だった。目の前に置かれたハンバーグからはじゅうじゅうと美味しそうな音がしている。メインディッシュを前にしても相変わらずむっつりとした顔のまま、一向にカレーに手をつけようとしない飛雄に向かって「冷めちゃうよ」と促すと、渋々ではあるけれどスプーンを手に取った様子を見て自分の分のハンバーグにナイフを入れた。フォークに突き刺した一口大の肉を頬張ると、「さんは」同じようにカレーにスプーンを突き刺したところだった飛雄がぽつりと呟いた言葉に目の前の彼の顔へと視線を移す。

「言ってほしかったんですか? 俺がVリーグ行くってこと」
「当たり前でしょ。飛雄のことなら何だって教えてほしいと思ってるよ」

それが例えどんなにくだらないことであっても、飛雄のことを一番に知るのはいつだって私がいい。それは当たり前の欲求だと思っていたのに、この男を見ているととんでもなく贅沢なことなのかもしれないとすら思えてきてしまう。

「……じゃあ、次からはちゃんと言うようにします」
「別にいいよ。もう次なんてないんだし」
「別れませんよ俺」
「だから飛雄、私の話聞いてた?」

こくりと頷いた飛雄を見て『堂々巡り』という言葉が頭をよぎる。どう説明したら、どんな言葉を選んだら、この男は私の言いたいことを分かってくれるんだろう。飛雄はきっと、私がいなくてもずっとバレーボールと一緒に生きていける。でも、私はそうじゃない。私は飛雄とは違う。他でもない飛雄自身の手でそれを思い知らされてしまうのが、私は何よりも怖かった。だから傷が浅いうちに、これ以上彼との距離を感じてしまう羽目になる前に、綺麗さっぱり終わらせようとしているのに。

春は出会いと別れの季節だ。今ここで少しの傷を負ったって、また新しい季節がそれを癒していく。ここで私と別れたって、アドラーズでの様々な出会いが飛雄をまた待っている。恋の終わりを告げるにはこれ以上ない絶好の機会だというのに、目の前の男は頑として首を縦に振ろうとはしてくれない。一体何がそんなにお気に召さないというのだろう。

「俺はさんのこと好きです」
「知ってるよ」
さんも俺のこと好きですよね」
「そりゃまあね。じゃないと付き合ってないし」
「じゃあ別に何も問題ないじゃないですか」

一体何が不満なのか、と言いたげな目をしている飛雄の顔をじっと見つめる。困ったな、ここまで食い下がられるとは思ってもみなかった。『コート上の王様』なんて呼ばれてはいても、先輩に対しては礼儀正しいところがある彼のことだから、私がずばり切り出せばすんなり「分かりました」って言ってくれると思ってたのに。それに、さっきの言葉だって聞き捨てならない。「何の問題もない」なんて、どの口が言えたんだか。

「これまでは飛雄も烏野にいたから会いに来れたけど、東京に行ったらもうそんな風には出来なくなるんだよ。それでも付き合ってたいって飛雄は思ってるの?」
「思ってますけど」
「寂しくなったりしないの?」
「何でですか?」
「……だって、今までみたいにすぐ会えるわけじゃないんだし」

私ばっかりに構ってもいられなくなるだろうし、と言いかけた言葉を口の中で噛み殺した。別にこれまでだって、頻繁に会えていたわけじゃない。私たちが烏野で一緒に学生生活を送れたのは一年にも満たない間だった。私は大学、飛雄は高校。離れて過ごしていた時間の方が長い。それでも良いと思っていた。毎日会うことが出来なくたって、『いざとなればすぐに会いに行ける』ということだけが、知らず知らずのうちに心の支えになっていたというのに。それすらもなくなってしまったら、きっともう、私たちの間には何も残らない。

飛雄はようやく私の言いたいことが分かったのか、合点のいったような表情をしてポークカレーの最後の一口を飲み込むと、またあのあっけらかんとした調子で口を開こうとする。

「俺はバレーしにアドラーズに入るんで、さんがどこにいたって変わらないと思います」

平然と言ってのけた目の前の男の態度に涙が出そうになった。そうだ。影山飛雄はこういう男だった。そっちが変わらなくたって、私は変わっちゃうかもしれないのに、何でそうやって言い切れちゃうのかなぁ。本当を言うと、この強さがずっと羨ましくもあった。いよいよ堂々巡りの様相を呈してきたやりとりにがっくりと項垂れると、すっかり冷めてしまったハンバーグが目に入る。もう食べる気力も残っていない。食欲がすっかり失せてしまった私をよそに、満腹になったらしい飛雄はまた淡々と言葉を紡いでいく。

さんが何をそんなに気にしてるかはよく分かんねえけど、俺はVリーグに行っても変わらないし、さんには彼女でいてほしいと思ってます」
「……ほんとに? 休みの日とかちゃんと会いに来てくれる? バレーばっかりやって放ったらかしにしたりしない?」
「しません」
「うっそだぁ」
「ほんとですよ。……結婚したいと思ってるんで」

思ってもみなかった言葉に目を見開くと、今度はほんの少しだけ耳を赤く染めた飛雄が目の前に座っていた。……嘘でしょ。そんなの、こんな普通のファミレスでハンバーグとカレー食べながら言うべき台詞じゃないと思う。ファミレスで別れ話をしようとした私が言えたものじゃないかもしれないけれど。

飛雄の口から将来についての考えを聞かされるのはこれが初めてのことで、どういう風に返事をしたらいいのか分からなくて困った。……バレーじゃなくて私のことだけを考えてくれる瞬間が、ちゃんと飛雄にもあったんだ。そう思うと途端にこれまで聞き分けのいい女のふりをしていた身体が熱を持ってしまう。

飛雄の進路を聞いたあのときに別れることを固く決意したはずなのに、ほんの少し将来のことを仄めかされたぐらいで揺らいでしまう私はきっとまだまだ子どもだ。軽々しく将来のことを口に出来てしまう飛雄だって、きっとまだ子ども。子どもの私たちに思い描ける未来なんて、大人からすれば取るに足らないものなのかもしれない。舞い上がってしまった勢いに任せて今ここで別れ話を無かったことにしても、多分また、遠くない未来で似たような瞬間は訪れるんだろう。だけど、他でもない飛雄の口から少なからず私との未来を思い描いているということを知らされたことが今の私にとっては何よりも嬉しかった。私たちはまだ大人じゃない。好きという気持ちだけではどうにもならないことだってあるということも、もちろん分かってる。だけどまだ、好きという気持ちだけを原動力にして生きていられるような気がした。

またしばらくの沈黙の後、観念した私が「分かった」と頷くと飛雄は今日一番の嬉しそうな顔をした。相変わらず笑うのが下手くそだけど、その顔を見てももう腹立たしいとは思わない。素直に「可愛い」と言えば、目の前のお世辞にも爽やかとは言えない笑みを浮かべた顔が驚いたような表情に変わる。それが可笑しいやら愛おしいやらで、けらけらと笑う私の声だけが二人以外誰もいないファミレスに響いていた。