あのとき魔法を解かなくてよかった

家具屋には親に連れられて何度か来たことがあるけれど、フロア一面にずらりと並べられたソファやベッドやテーブルを見てもどれもいまいちピンと来なくて、その一つ一つをじっくりと眺めながらやれ色がどうの素材がどうのと言ってはなかなか帰ろうとしない両親に辟易したものだった。色味や材質なんていくら拘ろうと使っているうちに気にならなくなるんだし、どんなに初めは綺麗な新品だって使っていくうちに汚れたり色褪せていく。それなのにほんの少し形や色味が違うだけで値段が大きく変わってくるのが当時の私にはどうにも理解出来なくて、意見が割れた両親に「はどれがいい?」と訊ねられても具体的にどれと挙げることは出来ず「どれでもいいよ」とばかり答えていた。本当にそう思っていたから、それ以外は言えなかった。むしろそうした言葉を紡ぐ内心、使えさえすればどれだっていいじゃん、拘ったって仕方ないのになぁとさえ思っていたほどだ。

それが今や、私は飛雄と訪れたインテリアショップで目を輝かせながら収納用のケースや家具やキッチングッズを眺めている。それも自分が使うためではなく、飛雄が新しく住む家で使うためのものばかりを。

かつての私にとっては退屈でしかなかったあの空間で、両親がどうしてあれほどまでに楽しそうにしていたのか、その理由も今なら分かるような気がする。自分の好きな人が使うための家具をこの目で見て、そして時折相談を交えながら自分たちの意思で選ぶというのはこんなにも楽しいものなのだということを、私は今まさに実感することとなっていた。

「えーっと、何がいるって言ってたんだっけ?」
「……?」
「アドラーズの人から書類来てたんでしょ? 見せて」

店内に置かれたソファに二人で腰掛けながらそう言うと、飛雄は持っていた鞄をがさごそと漁り一枚の紙を取り出した。この間アドラーズの担当者から飛雄の家に届いたという封筒に入っていた寮についての案内の書面だ。そこに載っている寮の部屋の写真をしげしげと見ながら呟く。

「なるほど、部屋にベッドは付いてるんだ。いいじゃん」
「そうですか?」
「うん。ベッド買わなくていいだけでも結構助かるんじゃない?」

ベッドって結構高いらしいよ、と言いながら学部が同じ友達が大学入学のタイミングで買ったらしいベッドフレームとマットレスの値段を告げるとその途端に飛雄が渋い顔をした。シュヴァイデンアドラーズ入りをすると同時に寮に入ることが決まった飛雄は、この春から始まる新生活の準備に追われて烏野高校の卒業式後も忙しい日々を送っている。何かと入り用なこの時期だ。部活ばかりでアルバイトもしたことがない飛雄にとっては新生活のあれこれにかかる費用のことは頭の痛くなるような話なんだろう。

会社の寮ということで一般的な一人暮らしよりも揃えないといけない品の数は少ないけれど、それでもとても一日ですべて用意出来るようなものではないし、親がある程度賄ってくれるとはいっても、思いつくままに際限なく好きなものを揃えればいいという話でもない。何せこれから飛雄は宮城から離れた土地で一人で生活していかなければならないのだ。ご飯を食べて、寝て、起きて、バレーボールをして、生活をしていくのにはどうしたってお金も労力もかかる。

「飛雄もとうとう一人暮らしかぁ」

相変わらず渋い顔をしたままの飛雄に向かってしみじみと呟いた。私の方が高校を卒業するのもアルバイトとはいえ働き始めるのも二年早かったのに、まさか飛雄の方が早くに一人暮らしを始めることになろうとは。寮生活だから厳密には一人暮らしとは言えないのかもしれないけれど、それでも、自立のための一歩を踏み出したことに変わりはない。これからは身の回りのことはすべて自分でやらなければならないのだ。私や、澤村たちや、先生たちや、家族の人、その誰の手も借りることなく。

高校受験のときに寮生活が前提の白鳥沢を希望していただけあって、飛雄は親元を離れることには特に不安を感じていないらしい。忙しなく準備に追われていながらも至っていつも通りに飄々としている飛雄に対し、私の方が心配になってあれこれ口を出してしまう始末だった。ついこの間までこちらに相談の一つもなしに進路を決めてしまった飛雄に対してあんなに腹を立てていたというのに、今は嬉々としてこれから彼が使うことになるであろう身の回りの品を選んでいる私の様子は傍から見れば滑稽に映るかもしれない。

寂しい気持ちがなくなったわけではないし、むしろこうして着々と飛雄が新天地へと赴く準備が進んでいくのを目の当たりにする度に「行かないでほしい」と言いたくなる気持ちが湧き上がってくることもあるけれど、別れないと決めたのだからそれを覆したくはなかった。

それに、私たちの周りでこういう風にありとあらゆるものを一足飛びにして遠くへ行ってしまう人物は飛雄一人に限った話でもない。地球の裏側に行ってしまった日向や今世界のどこにいるのかよく分からない西谷に比べれば、同じ国にいる飛雄はまだ可愛いものだとも思う。


ソファに座って飛雄から受け取った紙を眺めながら、さて何から見ていくべきかと考える。飛雄も私もこれまでずっと実家暮らしで、一人暮らし経験はない。先週の土曜に何が必要なのかもよく分からないままに買い出しに来て何も買うことが出来ずに帰る羽目になってしまった経験から、今日はきちんと下調べをした上でリベンジすることにしていた。

下宿をしている大学の友達の部屋に遊びに行ってどんな家具を置いているのか見せてもらったり、100円ショップで手に入る一人暮らしに便利なグッズを教えてもらったり、大学の帰り道にある家電量販店の『新生活スタートセット』と書かれた大きなポップの掲げられたコーナーに立ち寄ってみたり、さり気なく家のキッチンやリビングで使われている収納用品のメーカーをチェックしてみたり。そうして仕入れた情報すべてを総動員して今日は勇んで家具屋と家電量販店が近接しているこの地域へとやってきたというわけだ。

ここで家具や収納用品にある程度の目星をつけた後は、すぐそこの家電量販店に行こうと既に飛雄と話はつけてある。

「寮ってご飯は食堂で食べるんだよね?」
「はい」
「じゃああっちの大きいテーブルとかはいらないかなぁ」
「そうっスね」
「でもさぁ、こういうのとか、ほら、低いやつ買っちゃうと使いづらそうじゃない?」

腰掛けているソファの前に置かれたサイドテーブルを示して言うと飛雄がこくりと頷いた。食事は食堂で摂るにしても、コップや本なんかの細々としたものを置きたいときもあるだろうし、軽食くらいは部屋で食べることもあるかもしれない。そうなると自室にテーブルが一台もないというのは不便だろう。床に直置きするわけにもいかないし。

しばらく頭を悩ませてみても良い案はさっぱり浮かんでこず、隣に座って私の持つ紙を覗き込んでいる飛雄も特に「こうしたい」「これが欲しい」という自分の希望を口にしないものだから、諦めた私はテーブルについては後回しにすることにした。

部屋にテーブルがなくたって最低限食べるものと寝るところがあれば人間が暮らしていくことは出来るし、今日ここですべてを用意しなくちゃいけないというわけでもない。私一人が張り切りすぎると後で後悔することになるかもしれないし、今日のところは最低限新しい部屋に必要なものを買い揃えるくらいにした方がいいかもしれない。そうだ、その方がきっといい。

そう思い至り、手に入れておいた情報から一人暮らしに最低限必要なものを頭の中で挙げ連ねてみる。眠るためのベッドや掛け布団、照明器具、カーテン、掃除機、トイレットペーパーや歯ブラシやタオルといった日用品。ひとまずこんなところだろうか。

エアコンは今の季節にはまだ必要ないだろうし、洗濯機や電子レンジといった家電は共用のものがあるから買う必要がないとしても、それでも結構揃えなくちゃいけないものがある。物が増えてきたら収納も必要になってくるだろうし、やっぱりこれはとても今日一日じゃ見切れないだろうなぁ。

思いついた物を一つ一つ指折り数えながら挙げていくと、飛雄がまた渋い顔をする。気持ちは分からなくもないけど、ここは飛雄にも頑張ってもらいたいなぁ。「一個ずつ見ていこっか」と言うとそれを聞いた飛雄がのっそりと頷いた。


広々としたフロアをぐるりと見回して、さてどれから見ていくべきだろうと考える。やっぱり優先度の高いやつからかなぁ。そうなると布団と布団カバーはまず必要になるだろう。近頃どんどん暖かくなってきているし、いくら東京が宮城より過ごしやすい気候といっても、4月はまだ掛け布団なしで眠るには早い。あとは家電と日用品だけど、冷蔵庫は共用スペースにあるかもしれないしなぁ。ああでも、自室にも小さいものがあった方が冷やした飲み物をすぐに飲めたりして便利だろうか。予算大丈夫かな。キッチンやシンクは共用だし主に食堂でご飯を食べることになるということで調理器具は必要ないとして、自分用のお皿やコップはあった方がいいのだろうか。それに、部屋で過ごすときはどこに座ることになるんだろう。ベッドの上? それとも床にそのまま? 何か椅子に座ったりする?

次から次に湧いてくる疑問を一気にぶつけたら飛雄も困ってしまうだろう。元からバレーボール以外のことには然程興味を示さないこの男のことだから、「分からない」の一点張りになるに違いない。現に何度か「これとこれだったらどっちがいい?」と訊ねて「どっちでもいいです」と返されてしまっている。またそうなるかもなと予想はしつつ、座っていたソファをポンポンと叩いてから口を開いて言った。

「飛雄ってこういうソファとか使う?」
「家では使ってました」
「そうなんだ。ソファもいいけど、寮の部屋だったらこういうの置いたら狭くなっちゃうよね。座椅子とかの方がいい? あっちの方に置いてあるみたいだから後で見にいこっか」
「はい」
「んーでもやっぱりソファも捨てがたいなぁ……。これすごい座り心地いいんだよね。飛雄は柔らかめと硬めだったらどっち派?」
「どっちでもいいです」
「……さっきからそればっかだけど飛雄、ちゃんと私の話聞いてる?」
「聞いてます」

どうだかなぁ。一事が万事こんな調子で、今日ここに来てるのは私のためじゃなくて飛雄のためなのに大丈夫なんだろうかと心配になってしまう。それともやっぱり、私が浮かれすぎているだけなのだろうか。

けれど、私が浮かれてしまうのも仕方がないと思う。だって、バレーボールになるとこうはいかない。

バレーに関することなら飛雄は何でも自分で決めてその通りにやってしまうから、私の出る幕といえば試合の応援のときくらいだ。これが私たち二人ともが高校生のときだったら、勉強がてんでダメな飛雄に数学の公式や漢字の読みを教えてあげることだって出来たけれど、プロのバレーボール選手となればもうそんなものは必要なくて、頭に詰め込むのはより一層バレーボールや自分のコンディションの整え方ばかりになるのだろうし、そうなるといよいよ私が飛雄にしてあげられることは何もなくなってしまう。

だから今は、何でもいいから飛雄の役に立ちたかった。それは、本業ではどうやったって役に立てないのだから、せめてバレーから離れた自分の部屋でくらい私のことを思い出すことがあってほしいという願いを込めた思いでもあった。


テーブルもソファもすぐには必要ないとすると、次は布団を見に行った方がよさそうだ。そう判断してソファから立ち上がり、寝室関連の用品が置いてあるコーナーへと移動する。その途中でいくつか座椅子が展示してあるのを見つけて「こんなのどう?」と訊ねてみると、案の定また「どれでもいいです」と返されてしまって肩をすくめた。どれでもいいって言ったって、大きいのがいいとかリクライニング出来るのがいいとかとにかく安いやつをとか、色々あると思うんだけどなぁ。そう思ったけれど苦言は呈さなかった。今の飛雄の受け答えはかつての私が両親にしていたものと同じ類のものであると分かっていたからだ。あのときの私と違うところといえば、今の飛雄は家族の買い物に付き合わされているのではなく正真正銘自分のための家具を選んでいるというところだろうけれど。

「……あ」

掛け布団が置いてあるエリアに移動している途中、いくつもベッドが並べられたコーナーで足を止めた。ダブルベッドが展示されているのが目に入ったからだ。足を止めたのに気付いた飛雄が「さん?」と私の名前を呼んで後ろから覗き込んでくる。

「このベッド大きいから飛雄でも寝られそうだなと思って。ねえ、靴履いたまま寝ていいみたいだからちょっと寝てみてよ」
「……」
「……あ、ごめん」

私の後ろで無表情のまま立っている飛雄を見て、はしゃぎすぎてしまったと思った。今日はベッドを選ぶためにここに来たんじゃないというのに。こんな風にしていたらいくら時間があっても足りない。飛雄をここへ引っ張ってきた張本人である私がこんな調子でどうする。

浮かれた思考を少しでも元に戻そうと頭を小さく振ってそこから移動しようとすると、それより先に飛雄が背を屈めてベッドの上に寝転がった。思いがけない飛雄の行動に目が点になってしまう。

さっき何もないところで見たときは随分と大きく見えたのに、飛雄が横たわると途端に小さいサイズのベッドみたいに見えてきてしまうものだから恐ろしいと思った。

「これでもまだ小さいね。足出そうになってる」
「はい」
「やっぱり買うならキングかクイーンくらい大っきなやつの方がいいかな」

シングルベッドを買うという選択肢は私たち二人ともが初めから持っていなかった。飛雄の身長は日本の規格に収めるにはあまりにも抜きん出ている。だからもしもベッドを買うなら迷わず大きなものにすると決めていた。縦のサイズもそうだし、横のサイズだってそうだ。アドラーズに入って身体を本格的に鍛えるようになれば、最低でも今のダブルベッドくらいのサイズは必要になるだろう。

ネットで調べると今はロングサイズのベッドというのもあるらしい。買うなら絶対にそういうものにした方がいいと思う。烏野の合宿でもいつも「ベッドが小さい」「満足に寝られない」「身体が痛くなる」と月島や東峰が不平不満を漏らしていたのを聞いていたし、じゃあこっちの方がまだマシだろうと用意した布団に対しても「足が出て寒い」と散々な言いようだった。彼らだって私や潔子ちゃんを困らせたくてそうしたことを言ったのではないと分かってはいるからわがままだと感じたり腹を立てたりはしなかったけれど、バレーボールをする上では悩みなんてなさそうな背の高い彼らにも色々な悩みはあるものなんだなぁと感じたものだ。そしてそのとき休息が取れれば何でもいいとばかりに何も言わなかった飛雄の身体は高校在学中もにょきにょきと成長し続け、今や彼の身長は180センチ台後半に到達している。きっと月島や東峰と同じような悩みを抱えているに違いない。

上半身を起こした飛雄の隣に腰を下ろし、座り心地を確かめてみる。少し硬めの感触は私の好みだけれど、果たして飛雄にとってはどうだろうか。

「ベッドも硬めとか柔らかめとか色々あるみたいだね。飛雄はどういうのが好き?」
さんの好きなの選んでいいですよ」
「飛雄の部屋に置くやつでしょ、私が選んじゃダメじゃん。面倒くさいかもしれないけどちゃんと見ないと」
「でもさんも使うことになるじゃないですか」
「……え? 寮って女子禁制でしょ。私は入れないよ」

言いながら首を傾げる。飛雄がこれから始めるのが寮生活ではなく一般的なアパートのような社宅暮らしだったのなら週末に私が入り浸ることだって出来たのかもしれないけれど、生憎飛雄が住むのは男子寮だ。関係者以外は立ち入り禁止、両親や(いるのかは分からないけれど)男の子の友達ならまだしも、異性の恋人を部屋に泊めるなんて以ての外だろう。大学の友達から散々惚気を聞かされている憧れのお家デートはまだ当分お預けになる。

こうして家具を見ているうちに私も一人暮らしがしたいという気持ちが大きくなってきてしまったものの、講義とサークル活動の合間を縫ったアルバイトでは生活費を賄えるだけのお金は稼げていないし、大学は家から電車で通えるくらいの距離に位置していることもあって、今すぐ家を出るのは現実的じゃない。もう少し貯金をしてから――そう、たとえば社会人になったタイミングで始めるのがベストだろう。そのときは飛雄が遊びに来てくれたら楽しいだろうなとは思うけれど、それはまだ当分先の話になるだろうし、さっき言った通りアドラーズの寮は男子寮だから、私が飛雄のところに行くわけにもいかないしなぁ。

考えてもさっきの飛雄の言葉の意図が分からず首を捻ったままでいると、飛雄は少し黙って何かを考えるような仕草をした後でゆっくり口を開いて言った。

「面倒くせえとかじゃないんですけど」
「うん」
「一緒に住むことになったらさんも使うじゃないですか。だからさんが決めたらいいと思っただけです」
「……え」

なんだろう。今、飛雄がものすごく聞き捨てならないことを言った気がする。

「ええ?」
「ダメですか?」
「ダメっていうか……」

だ、ダメとかダメじゃないとかそういう話ではない。なにせ前提からして私にとっては初耳なのだ。それなのに何で飛雄はそんなしれっとした顔してるわけ。混乱する頭で再び飛雄に向かって問いかける。

「……飛雄、私と一緒に住む予定あるの?」
「住まないんですか?」
「すっ……住みたい、けど」

そんな話は今までまったくしたことがなかったのに、飛雄がまるで決定事項であるかのように言うものだからいつの間にそんな約束してたんだっけ? と混乱してしまう。……いや、どれだけ記憶を遡ろうとそんな約束をした覚えはないし、酔っ払って飛雄の前で記憶を飛ばしたこともないはずだ。

だって私は飛雄がアドラーズに入ることになるまで、この男の前では将来の話はしないようにしていた。進む道が異なることをまざまざと見せつけられて、別れを選ぶことになってしまうのが怖かったから。

「寮に住むんじゃなかったっけ」
「住みますけど、寮住んでない人もいるらしいんで、金貯まったらそのうち出るつもりです。海外のリーグにも挑戦したいんで」
「そっ……そういうこと! そういうこともさぁ! 自分で全部決める前にちゃんと相談してほしいってこの前言ったばっかじゃん」
「……」

やっぱり全然伝わってなかったんだ。そう思うと否応なしに言葉に力が入ってしまう私の前で、飛雄がはっとした顔を見せた後に口元をきゅっと引き結んでばつの悪そうな表情をする。そんな表情をされてしまうとそれ以上怒る気にもなれなくて、勢い余って振り上げた手をぼすんとベッドに落とし先程の飛雄と同じように寝転がった。

まだ何一つとして必要なものの買い出しも出来ていないのに、飛雄が変なこと言うからどっと疲れちゃったな……。仰向けになったまま「疲れた」と呟くと、「俺飲み物買ってきます」と言った飛雄が立ち上がろうとする。

「待って。私も行く」

それを呼び止めて起き上がると、飛雄と一緒になって自販機に向かった。


引越しのハイシーズンということもあって、ひっきりなしに目の前を行き交う家族連れやカップルを目線で追いつつベンチに座って自販機で買ったレモンティーを喉へ流し込んでいく。その隣で飛雄はぐびぐびと緑茶を飲んでいた。

「……はあ」

レモンティーを半分くらい飲んだ後大きく息を吐き出した私に、飛雄が「疲れましたか」と訊ねてくる。

「うん。……何かごめんね、私一人だけ盛り上がっちゃって」
「いや……」
「飛雄が使うやつ選んでるうちに楽しくなっちゃってさ」

口先では飛雄のためだなんて言いながら、その実私が一番今日のこれを楽しんでいるということにはとっくに気付いていた。どんな口実にせよ飛雄とデート出来るのは嬉しいし、頼ってもらえるのも嬉しい。一人で勝手に張り切りすぎるとよくないだろうなってちゃんと思ってたはずなのに、張り切りすぎた結果がこれだ。結局まだ私たちはここで何も買うことが出来ていない。道草を食っている場合じゃなくて、これから家電量販店の方にも行かないといけないのに……と肩を落とすと、緑茶を飲み干した飛雄が空のペットボトルを持ってゴミ箱の方へと歩いていく。そして戻ってくるなり口を開いて言った。

「俺は好きです」
「ん?」
さんが楽しそうにしてるの」

まさか飛雄がそんなことを言ってくるとは予想もしていなくて、返事に戸惑ってしまう。目を泳がせる私の横に飛雄が再び腰を下ろした。

「……前にさんに聞かれたとき、寂しくねえって言ったけど」

そう言いながら、空いている方の手を伸ばしてきた飛雄が私の手を取り握り込んだ後、親指で数回手の甲を擦るようにする。

「こうやってすぐにさんに触れなくなるのは嫌だって今日ここ来て思いました」
「なっ、な、なにそれ……」

触るとか、そういう言い方をしないでほしい。ここ、外なのに、人もいっぱいいる場所なのに、そんな顔でそんなことを言われると、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなってきてしまう。

「飛雄、あの、人に見られちゃうよ」
「ダメなんですか?」
「ダメっていうか、……噂になるかもしれないし」
「噂」
「これから飛雄はプロになるのに人から変な風に言われたりするの嫌だなっていうか」
「……バレー以外で何か言われても、俺は気にならないですけど」
「私が気になるの!」

例えば、調子がイマイチ上がらないのは女にうつつを抜かしているせいだとか、優れているのはセッティングの技術だけで私生活はろくでもないコート上の王様だとか、何も知らない人に飛雄がそういう風に受け取られてしまうのが私には耐えられない。直接的であれ間接的であれ、そう言われるような原因に自分がなってしまうのも嫌だ。けれど、それを飛雄に言ったところでまたもや伝わらないであろうことは分かっているから困ってしまった。

「も、もういいから早く行こ」

まだ半分くらい残っているレモンティーのペットボトルを鞄の中へと押し込んで、勢いよく席を立つ。全部は飲めなかったけれどもういいや。そそくさとエスカレーターへ向かう私に大人しく着いてきた飛雄が後ろから「どこ行くんでしたっけ」と訊ねてくる。

「布団買わないといけないでしょ」

改めて頭の中で買うもの予定リストを挙げ直し、もうこうなったら今日は飛雄にとことん付き合ってもらおうと決意を固めながら、エスカレーターの後ろの段に乗っている飛雄を振り返る。その口がまた何か余計なことを言う前に私から空いている手に指を絡めて握り込んでやった。

一瞬だけ驚いたような顔をした後、すぐにまたあの人相の悪い笑みを浮かべる飛雄に向かって私も笑う。こうして近くにいられなくなることを残念だと感じたり、触れられないのが嫌だと思ったり、もっとこうした時間を過ごしたいと思っているのが自分だけだなんて、そんな風に自惚れたりしないでほしいという精一杯の気持ちを込めながら。