act.1

労働の中にのみ平和が宿り、労働の中には安息がある。
フォントネル 『幸福論』より引用



働かざる者食うべからずという言葉があるように、労働とは一部の高等遊民を除く大半の人間が人生の中で最も時間を割くもののうちの一つだ。食事、睡眠、そして労働。それだけで社会人の1日のうちの4分の3の時間は終わってしまう。残りの4分の1をどう過ごすのかはもちろん彼や彼女次第だが、例えばこんな話を寝物語の代わりにでも聞いてもらうのはどうだろうか。


その日、は走っていた。MSBYブラックジャッカルファン感謝デーのために貸し切られた遊園地の中を、おろしたてのヒール靴を履いてきたことも忘れて駆けずり回っていた。


「佐久早くんは!? いた!?」
「いません!」
「あーもう! あのでっかい身体でどこ隠れてんだあいつはー!」


普段の柔らかな物腰は形を潜め、息を弾ませながら後輩とともに再び走り出したは徒労感を露わにしていた。それもこれも全てはブラックジャッカルの面々がその逞しい脚力を存分に発揮してバブリーダンスを華麗に披露している最中、メンバーの一人である佐久早聖臣が忽然と姿を消してしまったことにある。


潔癖かつ悪ふざけを好まない気がある彼が恒例となっている年に一度のファン感のお楽しみイベントーー今年は選手の面々が流行りのバブリーダンスを披露し、そのあとファンとのハイタッチタイムが設けられるはずだったーーに乗り気でないことは練習のときから誰の目にも明らかだった。しかし、ファン感当日の本番の最中に姿を眩ましてしまうほどに嫌だったとは。そんなに嫌だったなら初めから言ってくれれば日向くんと同じように裏方の仕事だって用意出来たかもしれないのにとは思ったが、しかし彼がそう言ったところで「臣くんだけやめたいとか許さへんからな!」「大丈夫だって! 臣くんなら俺と同じくらい美人になれる素質秘めてるからさ!」と口々に文句や激励(本人は激励のつもりだが佐久早にとっては嫌がらせでしかない)の言葉を口にするであろう彼のチームメイトの顔が浮かんでその考えを改めた。やらない、という選択肢は彼には用意されていなかったのだ。だからこそこの強硬手段に打って出たのだろう。


今日はやブラックジャッカルの選手たちが所属する株式会社ムスビイがイベントのために遊園地を貸し切っているために、敷地の中には基本的にムスビイの関係者と招待されたファンの人々しかいない。入り口には挨拶と次のブラックジャッカルの試合の宣伝のためのビラを配るために社員が配置されているし、そこを選手の誰かが通ろうとすれば社員の誰かが必ず気づくはずで、このイベントの担当者のうちの一人であるに連絡が来ていないということは佐久早は遊園地の外には出ていないということだ。いくら乗り気ではなかったとはいえ、これも選手としての大切な務めの一つ、広報活動の一環であり、さすがにそれを放棄するほど佐久早も無責任な男ではないだろう。ただバブリーな化粧とド派手な衣装に身を包んだ上でファンとハイタッチをすることに耐えられなかっただけなのだ。だからといって何も言わずに姿を眩まされてしまっては、ただでさえ臨機応変な対応が求められることが多いイベント時に『佐久早聖臣の捜索』という仕事が追加される羽目になるので勘弁してほしいというのがの本音であったが、それは後日開かれる反省会の時にでも意見すれば良い。今はまず、何としてもファン感が終わる前に佐久早を見つけ出してステージへと連れ戻さなければ。


ヒールを踏み鳴らしながら探し回ること15分。佐久早は舞台裏のベンチに腰掛けていた。すぐ近くのメリーゴーランドから響いてくる軽快な音楽と、どこまでも青々とした快晴の空に似つかわしくない曇った表情を浮かべてベンチに身体を預けている佐久早の前にが立ちはだかる。


「佐久早くん! 探しましたよ!」
「…………」
「突然いなくなられると私たちも困りますので、席を外すときは誰かに連絡を入れてからお願いしますね。もうハイタッチはしなくていいですから、とりあえずステージに戻ってください」
「……俺はこんなことやるためにここ入ったんじゃないんだけど」
「それはこっちの台詞ですよ!」


佐久早の言葉に思わずが声を張り上げた。辺りに響き渡ったその声に、驚いた佐久早がベンチに座ったまま彼女を見上げる。


が株式会社ムスビイへ入社を希望した理由はずばり『安定した会社でそこそこ充実した人生を送りたいから』だった。大学四年の春、就職先選びをしている最中で受けた会社説明会で人事担当者が言った「個の努力で人を結ぶ」という企業理念に共感したことももちろん理由の一つであるが、生まれ育った地元である大阪で、自動車部品メーカーとして安定した収益を出し続けている株式会社ムスビイで働くことはにとってとても魅力的だった。バリバリのキャリアウーマンになりたいわけではない。だけど、趣味や交友関係を充実させるためにそれなりに安定した給料も欲しい。そんなにとって、株式会社ムスビイはうってつけの存在だったのだ。


「私も御社の一員として、人と自動車、そしてバレーボールを繋ぐ架け橋のような存在になりたいと思います」我ながら完璧な志望動機だった、と今でもは面接のときの満足げな担当役員の表情を思い出して思う。その完璧な問答の甲斐もあり見事ムスビイからの採用通知を受け取ったは、翌春晴れて株式会社ムスビイの一員となり、大学で学んできた経済や会計の知識を活かして経理や事務の仕事に精を出していくーーはずだった。しかし蓋を開けてみればが配属されたのは全く希望していなかった広報部社外広報課。一体どういうことかと上司に詰め寄ると、「ブラックジャッカルの広報担当が人事部に異動することになって、次は選手たちと同年代の担当者をつけたいっていう話に役員の間でなったそうなんだ。さんはバレーボールに興味があるそうだし、引き受けてくれるよね?」との言葉が返ってきて、自分のデスクにふらふらとした足取りで戻ったは力なく椅子へ座り込んだ。


言った。確かに言った。「バレーボールと社会を繋ぐ架け橋になりたい」と、確かにあの場ではそう言ったけれども。物事には何事にも本音と建前というものがある。採用面接という会社と学生間の腹の探り合いの場で、まさか学生が本気の志望動機を口にするとうちの役員たちは思っていたのだろうか。そんなもの、どうにかして採用面接に受かるための詭弁に決まっているじゃないか。会社だって都合の悪いことは説明せずに面接や説明会で良い面ばかりをアピールしてくるんだから、そこはお互い様だろう。の本音はただ一つ、『出来るだけ安定した会社で出来うる限りの楽をして生きていくための金を稼ぎたい』だ。もちろん、そんなことを面接の場で言えばどこの会社にも採用してもらえないことは重々承知の上だったため、その本音は包み隠したままだった訳だが。まさか採用されたいが一心で夜な夜な考えた志望動機をまともに受け止められるとは思ってもみなかったは今からでも志望動機を撤回したい気持ちでいっぱいだったが、しかし撤回したところで一端の新入社員にもう決まってしまった人事を動かすほどの力は当然なく、はスケジュールと個性豊かなブラックジャッカルの面々が巻き起こすハプニングの尻拭いに追われながら、社会人生活の幕を開けることとなったのだった。


バレーボールの道を極め、『世界』という更なる高みを目指すべくブラックジャッカルに入った彼らと、安定を求めてムスビイに就職した。双方の意見は当然噛み合わず、衝突が起こることもしばしばだった。特にと同い年である木兎光太郎。この男にはとことん手を焼かされた。なにぶん「我慢する」ということを知らない男なのだ。が用意した段取りを「こっちの方がやりたかったから」「今のタイミングの方が面白そうだったから」という理由でぶち壊していく木兎には何度涙を飲んだことか。しかしブラックジャッカルにとって大切なターゲット層である子供からの人気がぶっちぎりで高い木兎をイベントや試合後のファンとの交流タイムに登場させないわけにもいかず、は木兎の突拍子もない提案や思いつきの数々に振り回されながらも、広報部へ配属されて2年弱が経ったここ最近は木兎の扱い方も心得始め、初めの頃のように翻弄されてばかりの生活ではなくなった。どうにも仕事が上手くいかずに帰宅後に枕を濡らすことも、ここ最近ではめっきり少なくなったのだ。


目の前のこの男ーーーー佐久早聖臣がブラックジャッカルへ入団してくるまでは。


こんなことをやるためにここに入ったんじゃない。まさしくが言いたい言葉だった。私は木兎くんや宮くんの間の揉め事を仲裁するために社会人になったわけではないし、せっかく今日のために買ってきた新品のちょっと値が張るパンプスの踵をすり減らして佐久早くんを遊園地で探し回るためにムスビイに入った訳でもない。そもそも私はデスクワークがしたかったのだ。8事から17時までたまに休憩を挟みながらパソコン相手に仕事をして、たまのアフター5には同僚とお酒を飲みに行って、週2日の休みには映画や美術館の展示を観に行ったり友達と会って話したりして、その交流の中で良い人が見つけられたら結婚したりも出来たらいいな、と。そんな細やかな願いだけを持っていたはずなのに何一つ叶えてくれない神様は私のことが嫌いなのだろうか。もう今すぐにでも全てを投げ出して家に帰りたいところだったが、自分が投げ出した仕事が今年入社したての経理部の新入社員ーー広報部だけでは対応する人数が足りないが故に駆り出されてしまった、まだ何も知らない他部署の真っ新な後輩だーーに押し付けられてしまうことは目に見えている。入社したてでまだ右も左も分からない新人に、そんな余計な苦労はかけたくない。その一心では全てを投げ出してしまいたい衝動を必死で抑えながら、佐久早の前に立ちはだかっていた。


ただならぬの様子に怯んだ佐久早が「……この後のじゃんけん大会って何時から?」と小さく呟いた。ハイタッチタイムが終わった後、選手たちはボディコンを脱ぎメイクを落としてユニフォームに着替え、じゃんけん大会やプレゼント大会、ジェスチャーゲームといった出し物に参加する予定だった。この様子だと、渋々といった様子ではあるがどうやらじゃんけん大会には参加するつもりになってくれたようだ。が「もうすぐ始まるので準備お願いします」と時計を見ながら言った直後、バタバタとけたたましい足音とともに日向翔陽が舞台裏に顔を出した。


「あ、いた! 臣さん! 次じゃんけん臣さんの番なんで用意お願いしまーす!」
「…………」


日向に無理やり立たされ引きずられていく佐久早が「服掴むんじゃねえ」とぶつくさ文句を言いながらも日向に着いてステージに向かって歩いていく。すると、ふとその足を止めて戻ってきた佐久早が「これ」と言ってに向かって何かを握った手を差し出してきた。困惑しつつが両手を差し出すと、佐久早の手からひらりと一枚の絆創膏がの手に落ちる。


「え、佐久早くん、これ」
「……足怪我してんだろ。さっき走ってきたとき走り方変だった」
「走り方変だった、って……」


誰のせいでこうなったのか、とは言わないでおいた。佐久早なりに精一杯誠意を見せたのであろう彼の対応に水を差すような真似はしたくない。下ろしたてのパンプスで駆けずり回ったせいで左足の踵と右足の小指が靴擦れを起こしていることには、もちろんも気付いてはいた。しかし佐久早の捜索に急を要していたために自身の怪我の対応は後回しにしていたのだ。興奮していたおかげか先程までは全く気にならなかったというのに、意識を向けると擦りむいたところが急激に熱を持ってじんじんと痛み出す。「臣さん何スか今のあれ! カッケー!」と目を輝かせながら言っているであろう日向に向かって「うぜぇ」と言っている佐久早の後ろ姿を見ながらは手に持った絆創膏をぎゅっと握りしめた。じんじんと疼き出した痛みが、じわじわと全身に広がって鼓動が速くなっていくのを感じる。


佐久早と日向が無事にステージへと姿を消していったのを見てはそっと一息つく。かの有名なフランスの著述家はああ言ったが、今の私のこの労働に平和や安息があるものか。大学の一般教養の授業で触れた『幸福論』で説かれた言葉を思い出しはそう独りごちたが、その言葉に答えが返ってくることはなかった。


NEXT