やさしい呪いをかけてあげる

このお話の続編

※ハッピーエンドではありませんので注意


一に才能、二に血筋、三に術式。初めっから平等なんて存在してすらいなかったこの呪術界で、平等なものがあるとすれば『人間として生きているからには腹は減る』ということぐらいだったのかもしれない。がらんとした部屋で家主の帰りを待っているのであろう冷蔵庫や洗濯機が息を潜めるように佇んでいる中で一際目を引くワインセラーに視線を送りながら、別にこんなことをするために合鍵が欲しかったんじゃないんだけどなあと独りごちた。



客人は今日も唐突にやってくる。2018年10月30日と表示されたスマートフォンのポップアップ通知には『今から行きます』といつものごとく淡白な一言だけが並んでいて、そのメッセージアプリの通知を軽くタップして既読を付けてから冷蔵庫の中身をチェックするべくキッチンへと向かった。

私の部屋を訪れる頻度が上がっても数少ない一級呪術師たる七海の仕事は相変わらず変則的で、スケジュールを事前に知らせてほしいなんて土台無理なお願いをすることはなかったけれど、食材がどうの部屋の片付けがどうのと垂れ流される文句に思うところがあったのか「今から行きます」ばかりだったメッセージに「明日行きます」というバリエーションが追加されたのが半年ほど前のことだ。七海の名前が表示されているトークルームを開き上へ上へと遡ると、「明日行きます」もしくは「今から行きます」の文字ばかりが並んでいて、まるで事務連絡みたいだなと思った。

まあ、前日に予定を知らせてくれるようになっただけでも大きな進歩かな。大抵任務終わりの夜になって送信してくるものだから、それを受信するなり私が慌てて部屋の掃除をする羽目になることは変わってはいないのだけれど、少しだけでもこちらに歩み寄ってくれようとする姿勢だけは評価してあげたい。タイミングが良いのか悪いのか、七海が来るときに限って冷蔵庫は空っぽ寸前なことが多い。ざっと棚に並べられた食材と調味料の数々を目でなぞり賞味期限切れのものがないかを確認してから扉を閉じる。報酬が振り込まれる前ということもあってろくなものが入っていなかったけれど、これはもうそういう星の下に生まれてきてしまったのだということで勘弁してもらおう。



例の如く彼は呪霊との戦いでヨレヨレになったスーツに身を包んで玄関の前までやってきた。呼び鈴を鳴らした七海に向かって「どうぞ」と呼びかけると、「お邪魔します」という小さな声とともに鍵を開けて入ってくる姿をキッチンから顔を出して確認する。また今年も出番がやってきたぞと勇んでクローゼットから引っ張り出したグレーのスウェットをソファの上に置いてやると「ありがとうございます」と小さく会釈してくるものだから、こちらも「どういたしまして」と頭を下げ返した。洗濯を繰り返して少し毛羽立つようになってしまった安物のスウェット一つさえ決して無下にはしない、そんなところが気に入っていると先月辺りにどさくさに紛れて伝えたことを覚えているのかいないのか。人前で着替えるのは気が引けると言う七海が余計な気を使わないようにキッチンへ引っ込んで作業をしていると、着替え終わったらしい七海がダイニングテーブルからもう一度「ありがとうございます」と声をかけてきたものだから「そんな何回も言わなくても大丈夫だってば」と苦笑した。

冷蔵庫を開けてあらかじめ作っておいた肉じゃが入りの一人分のタッパーを取り出し電子レンジへと入れる途中で視線を感じ振り返ると、カウンターの向こうから「さんは食べないんですか?」と分かりきったことを言う七海に向かっていそいそとストック置き場から取り出した袋麺のパッケージを掲げて見せてやると怪訝そうな表情を浮かべる色素の薄い瞳と視線が合う。
「私味噌ラーメン食べるから大丈夫」
「味噌ラーメン」
「バターとコーン入れると美味しいんだって。知ってた?」

小さく首を横に振られ、そういや長い付き合いの中でこの男がこういうのを食べてるのって見たことないな、と思い至った。灰原はよく夜中に「腹減った!」って言いながら夜食で食べてたけど、それを見ても咎めはすれど便乗してくるようなことは一度もなかったし。ビリビリと乾麺の入った袋を破きながら『もしや』と浮かんできた疑問を投げかけてみる。
「七海ってこういうインスタントのラーメン食べたことないの?」
「ありません。……そこまで驚くことでもないでしょう」
「いや今さぁ、今世紀一番って言っても過言じゃないくらいにはびっくりしたよ」
「…………」
「大袈裟だなコイツって顔しないで欲しいんだけど」
「そんなこと言ってませんが」
「顔にそう書いてあるじゃん」

図星だったのかほんの少し下唇を噛み締めたその顔が可笑しいやら懐かしいやらで、ぐつぐつと沸き立っている鍋の前で笑ってしまった。嘘が下手な男だ。灰原と三人で繰り出した任務帰りに一番重傷を負った彼に「傷痛くない?」と尋ねたときも、灰原が死んでしばらくして呪術師にはならないと決めたと一言だけ言ってきたときも、どんな心境の変化かせっかく入った良い会社を辞めて脱サラ呪術師として呪術界に戻ってきたときも、七海は嘘が下手だった。人を傷つけるような嘘は決してつかないけれど、呪術師らしく自分の本当の気持ちは中々口にしようとしないものだから、高専にいたときは灰原と一緒になって何とかしてほんの少しだけでもいいからと本心を聞き出そうとして躍起になったものだ。記憶の中の灰原はあんな凄惨な死に方をしたのが嘘のようにきゃらきゃらと楽しげに笑っている。……死に際の顔が朧げにしか思い出せないのは、きっと、あんな姿はもう思い出したくもないと記憶に蓋をしてしまっているからだろう。

かつて一緒になって七海をからかって遊んでいた戦友の顔が浮かんで消えたところで、3分経ったことを知らせるタイマーが鳴った。作り方を見たのが本当に初めてだったらしく、茹だった麺が泳いでいる鍋を物珍しそうに眺めている七海に「溢したら危ないから」とダイニングテーブルに戻るよう促してから、忘れ物とばかりにほんの一瞬口付けてやるとサングラス越しに切長の目が少しだけ見開かれたのが分かって途端に気分が良くなっていくのを感じる。

熱々の汁を溢してしまわないように細心の注意を払いながらダイニングテーブルへ丼を運び、向かいに座る七海に「お待たせ」と声をかけた。バターとコーンともやし、そしてこういうこともあろうかと仕込んでおいた煮卵を乗せた味噌ラーメンを前に手を合わせた。こちらの支度が出来るのを待っていたらしい七海の前に置かれた肉じゃがにはまだ手をつけられた様子もなく、行儀がいい男だなと感心しながら「戴きます」と口にして箸を手に取った七海の手をじっと見つめる。肉じゃが初めて出したけど、なんだかんだでグルメな七海の口に合うだろうかと今更ながら不安に思った。こういうのって家庭の味が出るって言うよね。中学の頃に友達とお弁当交換したときにうちのとは全然味が違ってて驚いた記憶がある。……七海の家はどんな感じだったんだろう。私が感じていた少しの不安が伝わったのか、きちんとこちらにも聞こえる声量で呟かれた「美味しいです」の言葉にほっと胸を撫で下ろした。

肉じゃがとほうれん草の胡麻和えと豚汁という小料理屋も真っ青の純和食メニューを平らげた七海が行儀よく手を合わせて「ご馳走様でした」と言った声色は至極穏やかなものだった。以前はそういうの好きそうだし、と洋食ばかりを出していたけれど、ふとしたときに献立のリクエストがあるかを訊ね和食がいいと答えられて以来ずっと、似たようなメニューを作り続けている。特に出汁にこだわったりもしていない何の変哲もない普通の家庭料理だけれど、七海にとってはそういうのが一番良いらしかった。私からしたら七海が普段食べてるオシャレなカタカナ料理の方が食べたいけどなと思いつつ、人のご飯が食べたくなるときってあるよね、と一人で納得し麺を啜った。

聞けば七海の家には麺つゆもないらしい。味噌ラーメンをあらかた平らげたところで「普段家で何作ってんの?」と訊ねると聞いたこともないカタカナの料理名が返ってきて、後で検索しようとうろ覚えのカタカナをスマートフォンのメモに打ち込みつつ「今度作ってよ」と打診してみる。すると「いいですよ」とすんなり了承されて拍子抜けした。
「明日また、渋谷の任務が終わったら来るのでそのときに」
「分かった。……早く終わるといいね」
「ええ」

明日ーー10月31日はきっと、一級呪術師の七海だけでなく呪術師ひいては私たち補助監督を含む呪術界総出で夜通し呪霊の討伐に当たることになるであろうことはちゃんと私も七海も分かっていたけれど、あえてそうは言わなかったのは何処かで何も起こらなければいいと願っていたからなのかもしれない。



結局それから七海が私の家の玄関を潜ってあの全く似合わないグレーのスウェットに袖を通し手料理を振る舞ってくれる機会は二度とやってこなくて、渋谷が壊滅したあの日の後始末や報告に追われて時間の感覚も無くなっていた私の部屋のポストに「さんへ」と書かれた封筒が届いているのに気が付いたのは渋谷事変が終わってから随分と後になってのことだった。

整理するものなんてないじゃん、と思いながらがらんとした部屋を見回してみる。この部屋にあるものと言えば革張りのソファにベッド、冷蔵庫や洗濯機といった一人暮らしのための最低限の家電、そしてやたらと目を引く中身入りのワインセラーぐらいのものだった。装飾品の類は全く置かれていないところが七海らしいと言うべきか。これで綺麗な花の一つでも置いていたらまだ可愛げもあったものをと思いながら戸棚を漁って手頃なコップを取り出し買ってきた花を生けてやると、途端に無機質な部屋が華やいだ気がした。だけどいくら部屋の彩りを良くしたところで、断りなく行われるこの行為をグラサンを片手で押し上げながら咎めてくる家主はもういない。

灰原が死んだときも、多分同じようなことをした気がする。「せっかくだから二人で最後に片付けてやってくれ」と誰かに言われて同じように荷物の整理をしてやったはずなのに、もう10年も経ってしまうとどうしていたのかもろくに思い出せない。あのときは、七海と二人でどうやって片付けたんだっけ。狭い高専の寮部屋に置かれた灰原の荷物は段ボール2箱分に収まるくらいの少なさだったような覚えがあるけれど、これじゃ七海もいい勝負だ。整理するまでもなく既にあらかた片付いている部屋を見回すと、黒っぽい木の素材で出来たテレビボードの上にぽつんと置かれた写真立てが目に入る。初任務終了、と灰原の下手くそな字で書き込まれている高専の制服姿の私と七海と灰原が写っているそれを覗き込むと、記憶の中の灰原がまた笑ったような気がした。

ほとんど物がない七海の自室で、唯一ここが彼の部屋であると主張しているのはベッド脇に置かれた本の山とどうやって使うのかも分からないキッチンに並べられた聞き慣れない名前の調味料ぐらいのものだった。「貴方が欲しいものがあれば」という手紙に書かれていた言葉通り、目ぼしい本がないかを一つ一つページをめくって選んでいく。読んだって私には到底分かりっこない難しい本ばかりの中に素知らぬ顔で紛れ込んでいたガイドブックを手に取って鞄の中へと押し込んだ。……どうせ遺品をくれるのならこんな本じゃなくて指輪が良かったなんて言ったら、少しだけでも笑ってくれたのかなぁ。最後の最後まで大口開けて笑う顔は見れなかったな。

リビングへと戻り、再び写真立てを手に取る。写真の中には呪術師らしからぬバカ笑いを浮かべる私と灰原と、それに挟まれて仏頂面を浮かべる七海が写っていた。……このときは毎日のように一緒にいたはずなのに、四六時中聞いていたはずの灰原の声も話し方も今となってはろくに思い出せないなんて、ここに五条さんがいたらとんだ薄情者だって指差されて笑われてしまうだろうか。それとも「やっとらしくなってきた」なんて言われる? それが嫌だったから前線に立つ呪術師ではなく補助監督を選んだってのに、結局こうなるのは避けられないことだったのかと思うとやるせなさでいっぱいになる。

ねえ七海、いつかは私もあんたの声ごと忘れちゃうのかな。灰原と3人でいた10年前のあの日も、ついこの前食べたばかりのラーメンの味も、私とは少し違う柔軟剤の匂いも、どれもこれも忘れたくないなんて、もう今更誰にも言えなくなっちゃったね。

呪14巻を未だに引きずっています

titled by 草臥れた愛で良ければ