白日を垂らす朝を待つまで

近隣一帯で件の嫁入り前の女ばかりを狙う鬼が出るようになってからというもの、この里では祝言を挙げることが出来なくなってしまったらしい。久しぶりの宴だとにわかに色めき立つ里の人々に盛大に迎え入れられながら、予想以上の歓迎ぶりに面食らいつつ善逸くんと顔を見合わせた。

「あの、私たちは隊士ですので酒はちょっと……」
「まあまあ、せっかくこんな里まで来られたんだ。鬼狩り様にも楽しんでもらわねば我らも気が済みません故。さ、こちらに食事も用意しておりますから。遠慮なさらずたんと食べてください」

この前不死川様と二人で平らげた料理の数々とは比べ物にならないほどのご馳走を前に、腹の虫がぐうと鳴く。これまでも藤の家や任務先で「鬼狩り様」や「命の恩人」などと言って感謝されることはあったけれど、ここまで手厚く出迎えられるのは初めてだ。

野菜と米をどっさり持たされたあの時が人生で一番誰かにもてなされた瞬間だったと思っていたが、今ここで訂正する。昼間からこんなに浮かれてしまって良いのだろうか。善逸くんは……もう料理に手をつけてる。順応するの早すぎない?

勧められるがままにたらふく料理を食べた後、手招きされ屋敷の奥へ入るとそこには家財道具と立派な着物が用意されていた。綺麗な着物だ。実物は見たことがなかったけれど、これが白無垢というものだろうか。着物を手に取り私の身体に当てながら、この屋敷の主だという女性がにこにこと笑みを浮かべて口を開く。

「良かった、丈もぴったりね。これなら直す必要もなさそう。せっかくなのであちらの旦那様にも見て頂きます?」
「い、いえ、えーっと、私たちこの任務のために組んだだけで本当に夫婦というわけではないので……」
「あらそう。お似合いなのに残念ね」
「あの、この衣装と嫁入り道具は」
「……娘のものになるはずだったもの、です」

ダメだ目の前の女の人の顔が見れない。この人の娘も、そうだったんだ。上背も同じようなものだし、年だってきっと、私とそう変わらない人だったんだろう。祝言を挙げるというのは本来、その人の生涯の中でもとびきりおめでたいことのはずで、愛する人と結ばれるその日を目前にして鬼に襲われた女の人たちはどれだけ無念だったろうか。これ以上、この里から悲しみに暮れる人を出してはいけない。この鬼はここで狩らなくちゃいけない。着物を丁寧に畳み直している女性の後ろ姿を焼き付けるようにじっと見つめ、腰に挿した日輪刀の柄を握ってゆっくりと目を閉じた。

準備が粛々と進められていく中、里に鬼が出たのは話に聞いていた通り祝言を挙げる予定日の前日の夜のことだった。日が落ちた後、寝室に入ってきた鬼を前に善逸くんと並んで刀を構える。

「善逸くん!出番だよ!」
「ヒィー!何かコイツめっちゃ呪詛みたいなの呟いてるんだけど俺呪われたりしないかなぁ!?」

何でこの子はこんなに及び腰なんだろう。宇髄様の話だと、遊郭に潜んでいた上弦の鬼を炭治郎くんたちと協力して倒した見込みのある隊士らしいのに。階級も実は庚じゃなくて丙にまで昇格してたんだっけ。丙かぁ。鬼殺隊に入ったばかりって聞いてたのに凄いなぁ。どんな呼吸を使うんだろう。……さっきから「ギャー!」とか「ヒィー!」とか悲鳴ばっかり上げてるけど、まさか呼吸使えないわけじゃないよね?

「無理無理無理無理!ちょっとちゃん何かコイツ頸全然切れないんだけど!?」
「……呪ってやる……絶対に許さんからなァ……」
「ほらやっぱり呪いかけてるし!頸切れねぇし!ちょっとこれまずいんじゃない!?」

……確かにまずいかもしれない。今ここにいるのは鬼をおびき寄せるために囮となった私と善逸くんだけで、里の人たちには里の外れの方へ集まってもらっている。私たちがここでこの鬼を倒せれば問題ないけれど、もし倒せなかったら、里の人たちを一か所に集めているのが仇になってしまう。人の気配があちらの方に集まっていることには鬼もおそらく気付いているだろう。そちらに向かう前に、ここで何とか始末しなければ。

ぶつぶつと呪詛のようなものを唱えていた鬼が善逸くんに襲いかかった。

「ギャー!」
「善逸くん!大丈夫!?」

返事がない。善逸くんにのしかかっている鬼を力ずくで薙ぎ払うと、善逸くんは気絶していた。……嘘でしょ、ここで寝たら間違いなく死ぬんだけど。善逸くんを揺さぶりながら振り返ると、後ろからこちらへ突進してくる鬼と目が合った。むき出しの牙とギラリと光る爪が見える。……あ、まずい死ぬ。

肉を切り裂かれる痛みを覚悟したとき、シイイイイと周囲の空気を吸い尽くしてしまいそうな呼吸音がした。私のものではない。善逸くんだ。さっきまで気絶していたはずの善逸くんが立って刀を構えている。目を閉じたままの善逸くんが地面を蹴った。瞬きの間の、ほんの一閃。次の瞬間には鬼の頸は斬れていて、ゴトリと音を立てて鬼の頭が落ちる。え、ちょっと待ってよ。善逸くん凄いんだけど。実はこんな凄い子だったの?

しばし呆然としたのち、我に帰って目を覚ました善逸くんと一緒に屋敷の外に出る。頭と身体がバラバラになった鬼を見て驚いていた善逸くんに「善逸くんがやったんだよ」と言うと首をブンブン横に振って否定していたけれど、覚えていないのだろうか。じゃあさっきのは気絶しながら刀振り回してたってこと?ほんとに?

……まあいい。善逸くんの呼吸とか剣技については後で詳しく聞こう。とにかく、里を苦しめていたあの鬼はいなくなった。一刻も早く里の人たちに知らせてあげたい。里の外れに向かって歩いていると、ひどく慌てた様子の善逸くんが私の肩をバシバシと叩く。一体何事かと善逸くんが指差す方を振り返ると、あの鬼が私たち目がけて走ってきていた。

頸は確かに善逸くんが斬ったはずだ。なのにどうして、あの鬼はまだ動いているんだろう。まさか再生したっていうのか。頸を斬ったのに。まずい、まずい、まずい、追いつかれたら殺される。私たち二人ともが死んだら、この里に鬼を斬れる者はいなくなってしまう。そうしたら、この里の人たちはきっと全滅だ。嫁入り前の女ばかりを狙うからといって、それ以外の人間を食わないとも限らない。さっき善逸くんも襲われそうになっていたし、それだけは何としても避けなければならない。とにかくあの鬼を里から引き離して、そして増援を呼ばなければ。

無我夢中で里とは逆の方向へ走りながら足音が聞こえなくなったのを不審に思い振り返ると善逸くんは再び気を失っていた。あのバカ!全速力で引き返し、地面に転がる善逸くんの頬を思いきり平手打ちして叩き起こすと、大きな目をぱちくりさせて目の前の私とあちらから追いかけてくる鬼を交互に見た善逸くんが混乱した様子で言う。

「えっちゃん何なのこの状況、何であいつ首ないのに動いてんの!?ねえちょっと待って全然意味分かんないんだけど!前倒した上弦の陸もこんなんだったらしいけどもしかしてアイツ新しい上弦!?何で俺ばっかりああいうのと当たるわけ悪いモンでも付いてんのかな!?」

ええい、やかましい!寝ぼけている暇があるなら早く足を動かしてほしい。まだ鬼との距離は離れているとは言え、いつ追いつかれるか分からない。

「説明してる時間はないから走って!早く!」

未だ状況を掴めていない善逸くんの羽織を掴んでひた走る。あの鬼は頸を斬っても死なない。これは想定外だ。どうしよう、どうしよう、どうしよう。どうすればいい。私の剣じゃとても勝てない。善逸くんは……どうだろう。さっきの鬼の頸を斬ったときの居合は凄かったけれど、またあれをやってくれと言って出来るものなんだろうか。今の善逸くんにその余裕はなさそうだ。なら、とにかく今は走るしかない。

呼吸が乱れる。ハアハアと、自分が息を吸う音がやたらと近くで聞こえる。鬼は人間のように疲れたりしない。失った手足も再生するし、永遠の命を生きられる。どこからどう見てもこちらの分が悪い。だけど、ここで死ぬわけにはいかないのだ。

すぐ後ろからあの鬼の呪いの言葉が聞こえてくる。繰り返される女の人の名前と、その夫と思しき人の名前と、恨み言の数々。好いていた女性が他の人と結婚してしまったというところだろうか。ああ、だから嫁入り前の女の人ばかりを狙っていたんだ。この鬼は、自分が手に入れられなかったものを、人間じゃなくなった今もずっと求めてるんだ。

とうとう私たちの目と鼻の先まで迫った鬼の爪が肩を切り裂いた。善逸くんが金切り声を上げたのが聞こえる。痛い。熱い。熱いのに冷や汗がだらだらと流れてくる。私の剣じゃとても勝てない、そんなことは分かってる。だけどやらなきゃいけない。ただで死ぬわけにはいかない。これ以上、あんな顔をする人をこの里から出しちゃいけない。鬼殺隊として、そして一人の女として、恨み言ばかりを並べて平然と人の幸せを奪おうとするこの鬼はここで倒さなければ。日輪刀の柄を握り直して構える。血を流しすぎたせいだろうか、ぐらりと視界が揺れた。

ぐっと足を踏みしめたそのとき、遠くからヒュウと吹く風の音が聞こえたような気がした。

私が刀を振り下ろすよりも先に、ドンッとけたたましい音を立てて鬼が目の前から消えた。いや、消えたんじゃない。見えなくなるぐらいに細かく切り刻まれたのだ。誰にってそんなの、顔が見えなくたって分かる。こんなことが出来るのは、鬼殺隊でも柱しかいない。突然の隊士の登場に地面にへたり込んだ後、刀に付いた血を振り払っている「殺」の文字を背負った背中に向かって声を絞り出した。

「し、不死川様」
「……鬼殺隊が二人揃って鬼から逃げるんじゃざまあねェなァ」

再び気絶していたらしい善逸くんを肩に背負った不死川様にギロリと見下ろされ、心臓が縮み上がった。粛清だ。粛清される。それとも自らここで腹を切れと命じられるのかもしれない。鬼狩りともあろう者が斬るべき鬼を前に出奔しようとするなど、あってはならないことなのだから。

「申し訳ありませんでした」と地面に額を擦りつけんばかりの勢いで頭を下げると「顔を上げろォ」と不死川様の刺々しい声が降ってきた。言われた通り恐る恐る顔を上げると、そこにあった不死川様の表情は想像していたほどの険しいものではなく、介錯のための刀が抜かれる気配もない。一体どういうことだろうと状況を飲み込めずに混乱していると、善逸くんを肩から下ろした不死川様が周辺にあった岩の上に腰を下ろし、失神している善逸くんを顎でしゃくってから口を開いた。

「お前とコイツが二人揃って里から離れる方角に走って行ったのは見えてた。大方里の奴らをこの鬼が食わねェようにおびき寄せたかったようだが……頸を斬っても死なない鬼だ。元からテメェらの手に負える相手じゃねェ」
「ですが、宇髄様は私と善逸くんに二人であの鬼を狩ってくるように、と……」
「そりゃ頸を斬っても死なねェって情報がなかったときの判断だろォ。宇髄も知ってたらテメェらだけじゃ行かせなかったはずだ。だから俺が呼ばれた」
「そうだったんですか……」

私と善逸くんが窮地に陥っていると聞いて駆け付けてくれた。不死川様の話を聞いてようやく彼がここに現れた理由に合点がいく。分かっている。嬉しい、なんて思ってはいけないことぐらい。鬼殺隊の柱として彼は当然のことをしたまでだ。

……そんなことはとっくの昔から心得ているのに、どうしたって熱を持つこの身体は本当に始末に負えない。

「帰るぞ」と歩き出した不死川様の後ろを歩きながら、そういえば肩を怪我したんだったと今更気づいて足を止める。私と善逸くんが逃げるのもやっとだった鬼を、不死川様はかすり傷一つなく一瞬で倒してしまった。焦がれ続けた柱の背中は未だ、これほどまでに遠い。それでもいつか、この人に追いつける日が、隣に立てる日は来るのだろうか。

駆け寄ってきた隠の人に肩を借りながら、傷口からぽたぽたと流れる血を呼吸で止めて再び足を踏み出す。神様どうか、この私の身体が火照る理由が鬼を倒したことと怪我を負ったことだけによるものではないことに、前を歩く不死川様が気付きませんように。