さまよい焦がれも熱は遠く

不死川様の身体の傷の増える勢いが留まるところを知らない。例のごとく稽古をつけてほしいと頼みに道場に顔を出した私が、庭の真ん中でぽたぽたと血を流しながら稽古をしている不死川様を発見して悲鳴を上げたのはつい先刻のことだ。心底苛ついた様子で「うるせェ」と吐き捨てた不死川様に「ちょっとだけ待っててください!」と一言かけてから風柱邸を飛び出す。息を切らせながら蝶屋敷の門を叩いた私を出迎えてくださったのは胡蝶様だった。

「不死川さんも困ったものですね」

事情を説明すると胡蝶様は奥の戸棚から塗り薬と包帯を取り出し、それを私の手に握らせて効能と塗り方を丁寧に説明してくれた。さすがは胡蝶様だ話が早い。不死川様もこれぐらい話が分かる方であれば良かったのだけど。貰った薬の効果と使い方を忘れないように胡蝶様の説明を頭の中で反芻していると、にこりと笑った胡蝶様が戸棚から振り返って声をかけてくる。

「本当は傷口を直接治療した方がいいんですけれど、こちらには滅多に顔を出してもらえそうにありませんし、今回は薬だけにしておきます。でもこの薬も万能というわけではありませんからね。次に負傷したときは必ずこちらへ来るようにさんからも言っておいて頂けますか?」
「はい!」

お前は剣の腕は鈍いくせに返事だけは一級品だと不死川様に揶揄られたのはいつだったろうか。元気よく返事をした私に「よろしくお願いします」と微笑んだ胡蝶様に一礼してから蝶屋敷を後にする。胡蝶様にまで頼まれてしまっては、この薬を使って不死川様の傷を何としても治さなければならない。あと次に怪我をしたときはまっすぐ自分の屋敷に帰るのではなく蝶屋敷に足を運ぶように言わなければ。これは責任重大だ。

決意を新たに風柱邸に戻ると不死川様はもう稽古を終えて風呂を済ませてしまっていた。ま、待っててくださいって言ったのに。聞こえていなかったのだろうか。それとも聞こえていたけれど耳を貸す必要はないと判断されたのか。どちらにせよ悲しい。

ほかほかと身体から湯気を立ちのぼらせている不死川様を前に立ち尽くしていると、髪から水滴を滴らせた不死川様が「どこ行ってた」と口を開いた。

「蝶屋敷です。蟲柱様がこちらの薬を風柱様の傷口に塗るように、と渡してくださって」
「それを取りに行くために道場飛び出したってのかァ?」
「はい。今回は薬を出して頂けましたが、次にお怪我をされたときはちゃんと蝶屋敷で診てもらってくださいね。胡蝶様もそう仰ってましたよ」

手に持っていた塗り薬を差し出すと何か言いたげな顔をしながらも受け取ってくれた不死川様の身体をじっと見つめる。羽織から覗く腕には無数の傷が付いていて、真新しい傷口が赤黒く染まっていた。

今回ついた新しい傷はおそらく腕と背中だ。さっき稽古をしているときに血が滲んでいたのは背中だった。腕の傷はおそらく自分でつけたものだろう。不死川様の血は稀血と呼ばれる貴重なもので、その匂いを嗅いだ鬼は酩酊状態に陥ってしまうらしい。彼は自分の特別な血を使って鬼を倒しているのだ。

稽古をつけてもらっているときに「使えるモンは何でも使え」と言われたことがあった。地形でも、気候でも、それが例え自分の身体であっても、鬼を倒すために使えるものならば何であろうと躊躇わず使え、と。私たちよりもうんと強大な敵を倒すためには手段を選んでいる暇はないのだと言ったあのときの不死川様の表情を思い出しながら、広くてがっちりとした背中の後ろに回り込んで腰を落とす。不死川様の手から離れ、床に置かれたままになっていた塗り薬を手に取って同じように腰を下ろすように促すと、不死川様が露骨に不機嫌な声色で言った。

「おい、何をしてる」
「背中の傷はご自分では塗れないでしょう?」
「……放っとけ。10日もすりゃ治る」
「治らないからこうして傷痕になってしまってるんじゃないですか」
「うるせェなァ。俺に傷があろうがなかろうがテメェにゃ関係ねェことだろうがァ」
「……そのようなことを言わないでください」

不死川様が鬼との戦いでどれだけ傷つこうと身体に傷を増やしていようと私には関係ない。確かにそうだ。そんなことは言われずとも理解している。だけどそれは隊士同士としての話であって、不死川様を慕う一人の女としての私には、決して無関係なことなどではない。好いた男が自らを傷つけてでも鬼を狩ろうとすることに心を痛めない女がどこにいようか。鬼を1匹でも多く退治できることはもちろん喜ばしいことだけれど、出来れば無事に帰ってきてほしいと願うことの何がいけないのだろう。

「不死川様のお身体に傷が出来るのは私が悲しいです」
「そうかい。そりゃ残念だったなァ」

心底どうでもいいとでも言いたげな声色で返事をした不死川様がふいとそっぽを向いてしまったのを見て、俯いて掌の中の薬に視線を落とす。私が何を言ったってこの人には響かないのだ。それがどうしようもなく悲しい。怪我をしたわけでもないのに胸がじんじんと痛む。

「……泣きそうな面してんじゃねえよ」

降ってきた声に俯いていた顔を上げると、呆れたような表情を浮かべる不死川様と視線がかち合った。泣きそうな面って、私は今どんな顔をしているんだろう。きっと情けない顔をしているはずだ。それも、不死川様が愛想を尽かすほどの。

ハァ、とため息を吐いた不死川様が眉根を寄せて私の前に腰を下ろした。こちらに向けられた広い背中に向かってぱちぱちと瞬きをする。一体どういうつもりだろう。てっきり愛想を尽かされたものだとばかり思っていたのに。不死川様の意図が掴めず困惑していると、ポリポリと頭を掻いた不死川様がもう一度ため息を吐いてからこちらを向いて口を開いた。

「俺に蝶屋敷に行けっつって説教垂れるバカは匡近ぐらいかと思ってたんだがなァ」
「匡近?」
「俺の兄弟子だ」

兄弟子。不死川様には兄弟子がいたんだ。知らなかった。思えば、彼が自分から身の上話をしてくれるのはこれが初めてかもしれない。

「兄弟子がいらっしゃったんですね」
「あァ。もういねえけどなァ」
「…………」

聞かない方が良かっただろうか。塗り薬の件といい、私はこと不死川様に関しては余計なことばかり、空回ってばかりだ。兄弟子というからにはその匡近さんという方は鬼殺隊の隊士だったのだろう。その彼が『もういない』ということは、負傷や老いなどの何らかの理由で一線を退いたか、あるいは。そして、不死川様の口ぶりからすると前者の方ではなさそうだ。そうならばきっとこの人も私と同じで、大切な人を亡くす悲しみを知っている。広く逞しい背中はどこか寂しげに見えた。

「どうしたァ?」
「え?」
「……薬を塗るんだろォ」

しばらくの間、ぼーっとしていたらしい。いつのまにか目の前の不死川様は上着を脱いでいた。あらわになった肌に痛々しい傷が刻まれている。先ほどの不死川様の言葉を頭の中でもう一度繰り返した。薬を塗るんだろ、と確かに彼は言った。ぬ、塗ってもいいんだ。私が。不死川様に。……ほんとに?後でやっぱり怒られたりしない?

自分が言い出したことのはずなのに、いざとなると緊張でどうしようもなく手が震えた。覚束ない手つきで何とか薬の入った容器の蓋を開け、中身を指に取って不死川様の背中に触れる。熱い。不死川様の身体じゃなく私の指先がとんでもなく熱い。目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。自分自身に言い聞かせる。これは治療だ。これは治療。だから、今、不死川様が私に無防備に背中をさらけ出しているのは治療以外に何の意味もない。落ち着け、落ち着け、落ち着け。

ようやく暴れるのをやめた心臓にほっと一息ついてから、傷口が開いてしまわないように気を払いつつ丁寧に薬を塗り込んでいく。傷跡をなぞる指が震えてしまっているのに、彼は気付いているだろうか。気付いていて口に出さないのであれば、どうかそのままでいてほしい。何とか薬を塗り終え包帯を巻き終えた後、ふうと息を吐き出した。やっと終わった。

「終わったかァ?」
「はい。ですが、傷口が開いてしまってはいけませんのでしばらくは安静にしておいてくださいね」
「そりゃ聞けねェ願いだなァ」
「あっ、ちょっと、そんなに動かすとせっかくの包帯が解けてしまいます!」

私の制止の声も構わず不死川様が立ち上がって肩を回した。その顔がどこか機嫌がよさそうに見えるのは、私の見間違いだろうか。未だ彼の肌の感触の残る指先をギュッと握る。いつか治療の名目がなくとも彼に触れることが出来る日がくればいいのにと、願わずにはいられなかった。