まぼろしほど美しくはなれない

蝶屋敷のこの白い天井を寝台に横たわって眺めるのはもう何度目になるだろう。アオイちゃんが替えてくれたばかりの腕に巻かれた真新しい包帯をじっと見つめ、じくじくと痛む傷をかばいながら、隣で眠っている隊士を起こしてしまわないようにひっそりと寝返りを打った。

不死川玄弥という名前の隊士が私と同じく蝶屋敷で治療を受けている。何でも恋柱様と霞柱様、そして炭治郎くんと一緒に刀鍛冶の里から担ぎ込まれてきたらしい。不死川という名前を聞いたときからもしやとは思っていたけれど、顔を真っ赤に染めながら食事を食べる食べないですみちゃんやアオイちゃんと小一時間ほど騒いでいた彼の顔を見て疑惑は確信に変わった。彼はおそらく不死川様の肉親だ。甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼いてくれるすみちゃんにそれとなく尋ねると、やはり不死川様の弟なのだという。

知らなかった。不死川様に弟がいたなんて。てっきり私と同じように、彼にも肉親がいないものだとばかり思い込んでしまっていた。この前の兄弟子の件といい、おはぎの件といい、弟さんの件といい、どれだけ「継子にしてくれ」と付きまとったところで所詮私は不死川様の剣技以外のことについてはほとんど何も知らないのだということをつくづく思い知らされる。

私がこうして蝶屋敷で寝台に横たわりながら傷の治りを今か今かと待っている間にも、不死川様は人里を襲う鬼を屠ってはまたその身体に傷を増やしていく。その背中に追いつけないのならばせめて少しでもこの世から鬼を一匹でも減らす手助けをしたいのに、一向に縮まりはしない彼との距離に焦燥感が高まっていくばかりだ。

腕の傷が癒え胡蝶様からようやく「家に帰ってもいいですよ」と退院の許可が出た頃。全身を包帯でぐるぐる巻きにされてしまうほどの大怪我を負った炭治郎くんがついに目を覚ましたとの報せを受けて彼が治療を受けている部屋を覗くと、すやすやと眠る炭治郎くんの隣で噂の玄弥くんが一口大の大きさに切り分けられたリンゴを食べていた。これは話しかける絶好の機会なのでは、と思いながら黙々とリンゴを口にしている彼に向かって「こんにちは」と声をかけると、きょろきょろと部屋の中を見回した後、どうやら自分に向かって挨拶をされていると気付いた彼が顔を赤く染めながら軽く会釈を返してくる。風柱様とよく似た顔の少年がリンゴの入った皿を持ちながらあたふたとしている様を見て、風柱様もこのくらいの年だった頃はこんな風に初々しい姿を見せることもあったんだろうかとかつての彼の姿に想いを馳せながら、寝台に腰掛けている玄弥くんに近づいて声をかけた。

「食事中に邪魔しちゃってごめんね。炭治郎くんが目を覚ましたって聞いて、顔見てから帰ろうと思ったんだけど……寝ちゃってるかな?」
「は、はい。えっと、コイツさっきまで起きてたんですけど……」
「起こさなくていいよ。ひどい怪我だし、また起きてる間に見舞いに来るから。それより、刀鍛冶の里での戦いは大変だったんでしょう?」
「え、あ、ああ、まあ……」
「炭治郎くんはもちろんだけど、玄弥くんもゆっくり休んでね」
「…………」

こくりと頷いた彼に向かってにっこりと微笑んでみたはいいものの、それ以上彼からの返答はなかった。大変だ。お兄さんである不死川様以上に玄弥くんとの会話が続かない。会話の糸口を完全に見失ってしまい、ここは潔く立ち去るべきかと悩んでいると、顔を真っ赤にした玄弥くんがこちらをちらりと一瞥してからリンゴの入った皿へと再び視線を落として口を開いた。

「あ、あの、名前……」
「ん?」
「俺、自分の名前言ったっけ、と思って……」

手に持った皿を傍らへと置いて、落ち着かない様子でもじもじと恥ずかしそうに言葉を紡ぐ玄弥くんは、風柱様とよく似た顔をしているのに随分と可愛らしく見える。……あの人も、剣を握るときのように険しい顔をしていなければ、本当はこういう表情を見せる人なんだろうか。それならば是非一度でいいから拝んでみたいものだ。そんなことを考えながら「食事の世話をしてもらってるときに、すみちゃんに貴方と風柱様が兄弟だって聞いちゃって。弟さんなら不死川様のこと何か知ってるかと思って一度話してみたいと思ってたんだけど」と答えると、風柱という言葉に玄弥くんの眉がぴくりと動いたのが見えた。

「兄ちゃ……いや、風柱と知り合いなんですか?」
「知り合いというか、何というか……時折風柱様のお時間があるときに稽古をつけてもらっているというか……」

玄弥くんに問われてはたと気づく。私は不死川様とどういう関係なのだろう。鬼殺隊の同志として稽古で剣を交えている以上、もちろん知り合いではあるはずだけれども。師匠と弟子というわけでもなく、かと言って友達などという気安い関係でもないし、ただの先輩後輩と呼ぶほど味気ない関係でもない。少なくとも私はそう思っている。何せ同じ釜の飯を食らった仲だ。今更他人とは呼べないだろう。だけど鬼殺隊に入ってから3年の月日が経っても未だ継子にしてもらえる気配もなければ恋人になれるようなはずもなく、ただひたすらに不死川様の背中を私が追いかけているだけだ。この関係に名前を付けるとするのなら、一体何と呼ぶべきなのだろう。

何か一言で私と風柱様の関係を玄弥くんにも伝わるように言い表すことができる都合の良い表現はないものかと頭を捻っていると、「稽古か……」と呟いた玄弥くんがおずおずと口を開いて続けた。

「それじゃあ、風柱の継子ってことですか?」
「そうなれたら良かったんだけど、かれこれ3年ぐらい「継子にしてください」ってお願いし続けてるのに一向に「分かった」って言ってもらえないんだよね」

肩を落としながら言った私の言葉を聞くなり玄弥くんが吹き出した。慌てて「すみません」と頭を下げる彼に「気にしないで」と言葉をかける。話しているうちに少しずつ落ち着いてきたのか、顔の赤みが引いた玄弥くんが俯きながらぼそりと呟く。

「俺は、……風柱に、兄ちゃんに会いたくて、会って一言でいいから謝りたくて鬼殺隊に入ったんですけど……」

そうしてぽつりぽつりと玄弥くんが話し始めた不死川一家の話は悲惨で救いようがなく、どうしようもなく胸が締め付けられるものだった。兄弟たちを守ろうと幼いながらに必死で鬼と戦った不死川様も、目の当たりにした事態のあまりの恐ろしさに実の兄に向かって「人殺し」と叫んでしまった玄弥くんも、誰のことも責めることは出来ない。悪いのは彼らの母親を鬼にして全てを奪っていった奴らだ。きっと頭ではそれを分かっていたとしても、せめて一言だけでも謝らないと玄弥くんは不死川様ともう一度兄弟として向き合うことが出来ないのだろう。そのために呼吸が使えないながらも鬼殺隊に入隊し、柱である兄に会うために日々鍛錬を続けているのだという。……例えそれが、鬼喰いという人の道を外れたものであったとしても。そうだ。鬼殺隊の柱は、一般の隊士がそう易々と会うことの出来る存在ではない。それが例えこの世に残されたたった一人の弟だったとしても。

唯一の肉親である玄弥くんですら中々顔を合わせて言葉を交わすことが叶わないほどに、鬼殺隊の柱とは遠い存在であることを改めて思い知らされる。大きな背中を丸めながらあと何体の鬼を倒せば隊士として兄に認めてもらうことができるだろうかと独り言のように呟いた玄弥くんに、曖昧に笑みを返すことしか出来なかった。

胡蝶様から退院の許可が下り明日からまた任務や鍛錬に戻れることが分かった後も、玄弥くんのああいう話を聞いた後では道場へと足を向ける気にもなれず、たまの気晴らし程度にはなるかと繰り出した町の甘味処で不死川様とばったり出くわした。稽古をつけてもらおうと風柱邸へと出向いても鬼の討伐や警備の任務などで留守のときが多く中々顔を合わすことができないというのに、何故こうした気分のときだけ相見えてしまうのだろう。自分の悪運を呪いながら、例え非番の日の街中でばったり出くわした程度であっても仮にも自身の上官である風柱を無視するわけにもいかず、「不死川様は任務終わりですか?お疲れ様です」と声をかけると、頷いた彼から「傷はもう治ったみてェだなァ」と言葉が返ってきて「はい」と頷いた。

それきり何も言わなくなった私に怪訝そうな顔をした不死川様が「具合でも悪いのか?」と声をかけてきたのに対してぶんぶんと首を横に振って否定すると、「テメェが俺に会って稽古だなんだと言わねェ日があるなんてなァ」と物珍しそうな表情に変わった不死川様が言葉を続ける。その言葉にやはり私は事あるごとに稽古をつけてくれと頼み込んでくる傍迷惑な女だと不死川様に思われていたのだろうと予想がついて、ただでさえ玄弥くんの話を聞いて鬱屈としていた気分に拍車がかかった。……どうしてこういう日に限って私は不死川様に出会ってしまうのだろう。少しは気分も晴れるかと思って注文したあんみつも、全く喉を通りそうにない。こんな調子ではとても鬼殺の剣など振るうことはできない。しかし明日からはきっとまた、山ほどの任務が私を待っている。なにせ鬼殺隊は常に人手不足なのだ。

ダメだ全然食欲が湧かない。こんなことなら持ち帰って家で食べられるようにあらかじめ注文しておくんだった。運ばれてきたきり手付かずとなっているあんみつを前に思わずため息をつくと、いくつか甘味を購入し売り子からそれらが入った包みを受け取った不死川様が私の向かいの席にどっかりと腰を下ろした。

「浮かねェ顔してんなァ。あんみつ全然減ってねェじゃねぇか。やっぱりまだ調子悪いんじゃねェのかァ?」
「……いえ、大丈夫です。蝶屋敷で胡蝶様にたくさん治療して頂けたので」

おかげさまで身体の方はいつでも任務に繰り出せるくらいに全快だというのに、問題なのは心の方だった。焦がれ続けてやまない風柱が目の前に、言葉を交わせるほどの距離にいるというのに、今ここにはいない玄弥くんのあの寂しそうな表情ばかりが脳裏に浮かんできてしまう。……私がこうして不死川様と話すことが出来ているのも、街中で出くわしたときに声をかけてもらえるのも、気が向いたときに稽古をつけてもらえるのだって、何一つこの世界では当たり前のことではない。私以外の誰かがどれほど願っても手に入れることの出来ないものを、きっともう私は手にしてしまっている。それでもまだ満たされることなくあまつさえ彼の心までも求めてしまう自分は何と欲深い人間なのかと頭を抱えた。

任務終わりで一刻も早く屋敷に帰って身体を休めたいだろうに、向かいの席に腰を下ろし頬杖をついてこちらを見る不死川様は一向に立ち去る気配を見せない。普段どれほど継子にしてくれと頼み込んでも相手にしてもらえないというのに、こんなときだけそんな表情を見せてくるなんて勘弁してほしい。……もしや元気のないように見える私を彼なりに心配してくれているのでは、なんて、都合の良いことを考えてしまう。

たっぷりと蜜のかかった蜜豆を手に持った匙で突きながら、不死川様に向かって口を開いた。

「この前の戦いのとき、初めて走馬灯を見た気がしたんです」
「はァ?」
「走馬灯の中でも私、不死川様にめちゃくちゃ怒られてました」
「…………」
「蝶屋敷で不死川様の弟さんの……玄弥くんと会ったんですけど、玄弥くんもこの前の刀鍛冶の里での戦いで小さい頃の不死川様の笑った顔を走馬灯で見たって言ってて。案外私たち似たもの同士なのかもしれませんね」
「……テメェと玄弥を一緒にされてたまるかよォ」

あ、玄弥って呼んだ。やっぱり弟さんなんだ。つい「玄弥」と呼んでしまったことに気付いたらしい不死川様は、バツの悪そうな顔で頬を掻いている。気まずそうにしてはいるけれど、その表情は決して自身を追いかけて鬼殺隊にまで入った弟を疎んじるものではなかった。それならば一体どうして、玄弥くんとの血縁関係を否定するんだろう。蝶屋敷で玄弥くんから聞いたことが本当なら、彼らはこの世に残されたたった二人の兄弟であるはずなのに。

これ以上彼らの問題に、彼の心の内に踏み込んではいけない。私は不死川様にとってたくさんいる配下のうちの一人で、継子でもなければ恋人でもない。だけど、差し出がましいと頭では分かってはいても、気にせずにはいられなくなる。だって私は不死川様に、華々しい剣技だけでなく時折見せる彼の優しさに、どうしようもなく惹かれているのだから。

「玄弥くんのお見舞い、行かれないんですか?私もちょうど今日会ったところだったんですけど、リンゴ食べられるくらいまでは回復したみたいですよ」
「うるせェなァ。余計なお世話だって前にも言わなかったかァ?」
「……すみません」

ピシャリとはねつけられすごすごと視線を落とした先の、机に置かれた包みからちらりと大福のようなものが覗いている。……もしかして、このあとあれを持って蝶屋敷に行くつもりだったんだろうか。だからああやって売り子の人に説明を受けながらああでもないこうでもないと甘味を選んでいたのかもしれない。普段なら迷わずおはぎだけを買って帰るのであろう不死川様が、珍しく大福やどら焼きの前でうろうろとしながら頭を悩ませていたことを思い出して、綻びそうになる口元に慌てて匙で蜜豆をすくって頬張り誤魔化した。……こんなところでこれ以上余計なことを言って不死川様を怒らせてしまうわけにはいかない。私の視線が大福の入った包みへと注がれていることに気付いた不死川様が決まりの悪そうな表情を浮かべているのを見て、蝶屋敷で玄弥くんが言っていた「兄貴、見た目も行動もあんなんだから鬼殺隊の人には誤解されてると思うけど、昔からずっと優しい人だから」という言葉を思い出した。

玄弥くんの言う通り、不死川様は優しい人だ。鍛錬の内容や口調がどれほど厳しいものであっても、継子でもないしがない一般隊士の私が浮かない顔をしていることに気付いて声をかけてくれるぐらいには優しい。だから私は、例え追いつけやしないと分かっていても懲りずにこの背中に焦がれ続けてしまうのだろう。

ようやく味がするようになった蜜豆を次々に匙ですくって口の中へと放り込む。今はまだ、何も名前を付けることの出来ない関係であったとしても、……唯一の肉親である玄弥くんが不死川様に近付こうとあれほどまでに頑張っているというのに、私だけが彼のことを諦めてしまうわけにはいかない。どれだけ剣の腕が鈍いと詰られようと、稽古をつけてもらえるうちはどれだけ疎ましがられようと食らいついていきたい。胸を張って彼との関係に名前が付けられるようになる、いつかきっと訪れるであろうその日までは。