名残の底で息づくように

さん、休憩中のところ申し訳ありませんが今すぐ来てください!緊急事態なんです!風柱様が!あの!風柱様がー!」
「風柱様がどうかしたんですか!?」

蛇柱様にネチネチと小言を言われながら太刀筋を矯正され続けること二週間。血相を変えて伊黒様のお屋敷に飛び込んできた隠の方に大きく名前を呼ばれ振り向くと、何人もの人がわらわらと泣きそうな顔(目しか見えていないけれどそれでも分かるくらいに泣きそうな顔だった)をしながらこちらに向かって一目散に駆けてきているのが目に入り、あれよあれよという間に取り囲まれてしまった。興奮した様子で「お取込み中にすみません」「でも風柱様が」「竈門が」「止めようとしたけど俺たちのこと二人とも全然見なくて」「このままじゃあの辺り一帯全滅です」「死人が出ます」「俺たちじゃどうしようもないよアレ死ぬぞ」「とにかく来てください!」と口々に繰り出される訴えの数々に眩暈がしてくる。

……どうしよう、皆が必死に訴えてくるおかげで不死川様と炭治郎くんの間に何かあったらしいことだけは分かるのだけど、肝心のそれ以外のことがてんで分からない。これだけ隠の人が慌てているということは、それだけ大きなことがあったということだけは確かなのだけど。炭治郎くんは今日から不死川様の道場で稽古を受けているはずで、柱合裁判で初めて顔を合わせたときから折り合いが悪いとは聞いていたがまさか初日から揉め事を起こしたのだろうか。いつも優しく仲間想いな炭治郎くんが上官である柱の方と自ら進んで揉め事を起こすとは考えにくいけれど、不死川様は炭治郎くんの妹の禰豆子ちゃんを刀で突き刺したことがあるそうだし、炭治郎くんも妹のことになると途端に頑固になるところがあるし、ややもすると本当に彼らの言う通り緊急事態なのかもしれない。

だけど今は伊黒様との稽古中だ。幸い今は休憩中だったとはいえ、せっかく稽古をつけて頂いているのにそれを放っぽり出して不死川様の道場へ向かうわけにもいかない。大勢の隠の人たちに取り囲まれ、ぐいぐいと背中を押されどうにも出来ずおろおろとしていると、手に持っていた木刀を床に置いて私に背を向けた伊黒様が「さっさと行け」と戸口の方を顎でしゃくって言った。

「どうせ俺の次は不死川だ。そのまま奴の道場へ向かえばいい。お前でなくとも俺は腑抜けどもの稽古で忙しいからな」
「で、ですが伊黒様……」

床に転がる私を見下ろして「一生素振りでもやってろ」と冷たく言い放った不死川様の顔を思い出してぶるりと背筋が震えた。あのときの顔と声色は本気だった。あれからまだ二週間しか経っていないというのに、のこのこと風柱邸へ顔を出してまた彼の逆鱗に触れやしないだろうか。それこそ近隣一帯が壊滅する騒ぎになるかもしれない。そうなるともう一生お館様や柱の方々に顔向け出来ない。最悪の場合は隊律違反として鬼殺隊から除名されてしまいかねない。それだけは御免被りたい。

二の足を踏む私をよそに、隠の方達はとんでもない力でずるずると私の身体を風柱邸へと引っ張っていく。抗えないのだと気付いてもう随分と姿が小さくなってしまった伊黒様へ向かって「ありがとうございました!」と頭を下げると、「黙ってさっさと行け」とにべもなく返されしまい、引きずられるようにして歩きながらがっくりと肩を落とした。

結局伊黒様には最後まで「太刀筋が良い」とは言ってもらえなかった。太鼓判を押させるつもりだったのに。何とか髪を掠るぐらいの一撃は入れられたけれど、最後の最後まで一本取れずじまいだったし、何より初日に「甘露寺の稽古はどうだった?」と聞かれて「柔軟はとてもきつかったんですが、稽古の合間にパンケーキという手作りのお菓子を戴いて……それがとても美味しかったです」と返した途端に伊黒様の目の色が変わったのだ。もしかしたら稽古の合間にお菓子を戴いたなど、言ってはいけないことだったのだろうか。秘密にされた覚えはなかったためにべらべらと余計なことまで話してしまった。これで柱の方々の間に亀裂が入るようなことになってしまったらどうしよう。甘露寺様に申し訳が立たない。今度顔を合わせることがあれば謝っておこう。

密かに決意を固めながら視界の端で捉えた風柱邸からは断末魔と怒号と喚き声が絶えず響いてきていて、足を踏み入れる前から嫌な予感で背筋が凍った。思わず足を止め背中を押していた隠の方に向かって「何が起こってるんですか?」と問いかけると、それには答えず「お願いします!もう誰にも止められないんです!風柱様がああなってしまってはきっと止められるのはさんくらいしかいませんので!よろしくお願いします!」と言いながら稽古場へと押し込まれてしまった。……よ、よろしくと言われても一体何をすれば良いのだろう。

そうしてされるがままに不死川様の稽古場に足を踏み入れた私の視界に飛び込んできたのは、阿鼻叫喚のさながら地獄のような光景だった。道場横の庭で炭治郎くんと不死川様がお互いに凄まじい形相をしながら取っ組み合っている。そしてその周りには揉み合う二人を止めようとして吹き飛ばされたらしい隊士が転がっていたり二人の身体にしがみついていたりでもうめちゃくちゃだ。……まさかこれを止めるために私は呼び出されたんだろうか。だとしたら隠の方たちは何を考えているのだろう。私なぞにこんな喧嘩が止められるわけがない。何せ二人とも私よりうんと階級が高い隊士なのだ。仲裁に入ろうものなら巻き込まれて死んでしまう。

せめてここに柱が一人でもいれば止められたかもしれないのに、こんなことなら蛇柱邸で声をかけられたときにあらかじめ事情を把握して伊黒様に一緒に着いてきてもらうんだった。今から呼びに行って柱の方は来てくださるだろうか。鴉を飛ばした方が早いかもしれない。連絡を入れるならどなたがいいだろう。不死川様を止められるとしたら彼より体格の良い宇髄様や悲鳴嶼様か、下手な男性よりも怒ったときに迫力のある胡蝶様あたりだろうか。間違っても不死川様と相性が悪いともっぱら噂の冨岡様は呼んではいけなさそうだ。火に油を注いでしまう。柱の方々も柱稽古でお忙しいのだろうし、こんなことで一々お手を煩わせるわけにもいかないとは思いつつ、自分ではとても止められそうにない目の前で繰り広げられる乱闘騒ぎに呆然と立ち尽くすことしかできない。……でも、理由は分からないけれど誰がどう見ても激怒している不死川様をあの状態で放っておいたらいずれ炭治郎くんが死んでしまう。それか屋敷が壊れるのが先だろうか。何にせよ放っておいていい事態ではない。

「……あ、あの!不死川様!」

少しでも冷静になってもらえればと掛けた言葉も騒ぎの中心にいる彼の耳には届きそうになかった。これは困った。どうしたものかと辺りを見回すと少し離れたところから私をここまで連れてきた張本人である隠の方が縋るような目でこちらを見ている。……そ、そんな目で私を見ないでほしい。これでは「やっぱり私には止められそうにないので柱の方を呼んできてください」なんて言えない。そうだ、不死川様がダメなら炭治郎くんに声をかけてみるのはどうだろうか。他の人よりも鼻が利くとかでめっぽう勘の良い炭治郎くんなら、もしかしたら気付いてくれるかもしれない。

「炭治郎くん!」
「……! さん!あのっ……」

良かった気付いてくれたと胸を撫で下ろしたのも束の間、ボグッととんでもない音を立てて炭治郎くんの腹に不死川様の拳がめり込んだ。ヒッと自分と周りの隊士が息を呑んだ音が聞こえる。不死川様は本気だ。本気でめちゃくちゃ怒っている。よく見たら炭治郎くんはぎりぎりのところで不死川様の拳を受け止めていたようだけれど、かろうじて止めた拳ですらあんな音が鳴るようでは、いつ炭治郎くんが真正面から攻撃を食らって死んでしまうか分かったものじゃない。一刻も早く止めなければ。「不死川様!」縋るような思いでもう一度名前を呼びかけると、こめかみいっぱいに青筋を立てた不死川様が炭治郎くんに向かって振りかぶっていた手を止めて「……何でテメェがここにいやがんだァ」と言いながら振り返った。その般若のような形相にもう一度ヒュッと息を呑む。不死川様が手を止めた隙に炭治郎くんが彼と距離を取ろうとこちらへと駆けてきているのが見えて、ああ良かったと心の底から安堵した瞬間、炭治郎くんに向かって繰り出された不死川様の蹴りが左の脇腹を掠めて肝が縮んだ。……もういやだ。今すぐ家に帰りたい。

一度は収まったかのように見えた不死川様と炭治郎くんの乱闘は結局のところ、日が沈みだし辺りが薄暗くなったことに気付いた不死川様が忌々しそうに「テメェはもう俺の前に顔見せんじゃねェぞ」と炭治郎くんに吐き捨てるまで続いた。投げつけられた言葉に何か返事をしようと口を開いた炭治郎くんの背中を思わず引っ叩いて屋敷の出口まで引きずっていく。

さんちょっと、あの、腕に爪が食い込んでます痛いですいたたたた」
「いいからもう黙って歩いて、早く!ほら!不死川様にまた怒られないうちに!」

炭治郎くんにはいつも冷や冷やさせられる。あそこで下手なことを言ってまた不死川様の怒りが爆発してしまったらどうするつもりなんだろう。また仲裁に駆り出されてしまっては私の身体がいくつあっても足りない。人間にはどうしたって相性というものがある。どうにも噛み合わないのなら無理に近づこうとせずお互いに距離を取るのが一番だ。こんなことが起こってしまった後ではもう、炭治郎くんが再び風柱様と訓練をすることはないだろうし、今日中にでも次の悲鳴嶼様のところへ向かうように指示があるはずだ。上弦の鬼を立て続けに倒したりと目覚ましい活躍を見せている炭治郎くんの稽古姿はぜひ一度見てみたかったものだけれど、こればかりは仕様がない。私も不死川様との稽古を終えたら悲鳴嶼様のところで炭治郎くんと一緒に鍛えて頂こう。……その前に、不死川様に稽古をつけて頂けるのか怪しいところだけれど。

とぼとぼと歩いていく炭治郎くんの背中が見えなくなるまで見送ってから、ふうと息をついた。不死川様の稽古を受けたわけでもないのにどっと疲れてしまった。早く家に帰りたい。家に帰る前に不死川様に一言だけでも声をかけておくべきだろうか。でも、先程まで手が付けられないほどに怒り狂っていた彼の元へのこのこと顔を出してまた怒りを買ってしまうのではと思うとどうにも踏ん切りがつかない。

屋敷へ戻ることも自分の家に帰る事も出来ずに玄関の前でうろうろとしていると、向こう側から青い顔で肩を落とした玄弥くんと鼻から血を流した善逸くんが歩いてきているのが目に入った。な、何で善逸くんは鼻血を出しながら歩いてるんだろう。もう既に善逸くんも風柱様との修行をやってたんだっけ。さっきの不死川様と炭治郎くんの乱闘騒ぎの中にはいなかったはずだけど。それに玄弥くんが見るからにしょんぼりとした顔をしているのも気になる。何か落ち込むことでもあったんだろうか……と思いながら近づいてくる二人に向かって片手を上げて名前を呼びかけると、パッと顔を輝かせた善逸くんが「ちゃん!」と私の名前を呼んで駆け寄ってくるなり大声でおいおいと泣き始めて、そのあまりの勢いにぎょっとして後ずさるもがっしりと腕を掴まれてしまい逃げられなかった。

「ああ怖かった、風のおっさんがいきなり暴れ始めて殺されるかと思った……!もうさぁ、稽古のときもあの人ずっと機嫌悪そうな音してたけど炭治郎が来てからは本当に怖い音しかしなくて!生きた心地がしないっての!……って、あれ!?炭治郎は!?まさか死んでないよね!?」
「炭治郎くんなら顔の怪我が酷かったから蝶屋敷に行くように言っておいたよ。今頃ちょうど蝶屋敷に着いたところじゃないかな」
「あ、そうなの?じゃあ俺も炭治郎のところ行かないと……おっさんと稽古してたら命に関わるし」

命に関わるって、そんなに不死川様の稽古は過酷だったのだろうか……と神妙な面持ちで言った善逸くんに稽古のことについて聞きたかったけれど、もう彼は炭治郎くんを追いかけて蝶屋敷に向かう道をすたすたと歩き始めてしまっていた。風柱邸の前で取り残されてしまった玄弥くんと顔を見合わせようとするも、しょんぼりと俯いてしまっている玄弥くんの表情は見えない。ここは何か声をかけてあげるべきだろうか。「久しぶりだね」と話しかけてみても玄弥くんは俯いたまま何も答えなかった。……うーん。どうしたものか。

「……ええと、柱稽古は順調にやってる?私は明日から不死川様のところで稽古なんだけど、玄弥くんもそうなの?」
「…………」
「玄弥くん?」

返事がない。どうしよう。何か他の話題にするべきだっただろうか。でも玄弥くんとの共通の話題って不死川様のことぐらいしかないし、今彼の話題を出すのはあんまり良くない気がするし……とぐるぐると考え込む私の思考を遮って「俺のせいなんです」と蚊の鳴くような声で言った玄弥くんに向かって首を傾げると、「炭治郎と、兄貴が喧嘩したの……俺が接触禁止なの分かってて会いに行って兄貴を怒らせて、それを炭治郎が庇ってくれて……」と玄弥くんが続けた。何と反応すれば良いのか分からず「そうだったんだ」と返すと玄弥くんがこくりと頷く。

……不死川様と玄弥くんが接触禁止だなんて知らなかった。それで不死川様が玄弥くんに怒ったのを炭治郎くんが庇おうとしてあの乱闘騒ぎになったんだ。ようやく合点がいった。接触禁止というのは、彼らが顔を合わせればこうして揉め事になることが分かっていたからなのだろうか。あそこまでの騒ぎになるなんて、玄弥くんは一体不死川様に何を言ったんだろう。甘味処で玄弥くんの話をしたときの不死川様は、とても実の弟に向かって暴力を振るうような人には見えなかったのに。この様子だとお見舞いはうまくいかなかったのだろうか。お見舞いのことを玄弥くんに聞いてみたいと思いつつ、不死川様のいないところで彼の言動について私が言及するのも気が引けて押し黙っていると「じゃあ、俺は悲鳴嶼さんのとこに帰ります」と言ってぺこりと頭を下げた玄弥くんが歩き出してしまった。引き止めようにも上手い台詞が浮かんでこず「またね」と手を振ってその背中が見えなくなるまで見送る。……やっぱり不死川様に一言かけてから帰ろう。玄弥くんのあの寂しそうな表情は、私にそう決心させるのには十分すぎるほどだった。

「……何でテメェがここに来たァ」

せめて一声だけでもかけるべく不死川様の姿を探すも稽古場にも縁側にも彼の姿はなく、一体どこにいらっしゃるのだろうと思いながら屋敷の中を探すと、奥の部屋から灯りが漏れていた。失礼します、と襖を開いて中を覗くと、部屋の隅に腰を下ろし刀の手入れをしている不死川様に昼間と全く同じ質問を投げかけられ、同じように彼の手元に視線を落としてから口を開く。

「蛇柱様との稽古中に隠の方が緊急事態だから今すぐ風柱様のところまで来てくださいって飛び込んでこられて、伊黒様に伺ったらそのまま不死川様の道場へ行けとおっしゃられたので、その……」
「それで言われた通りのこのこと俺んとこに来たってのかァ?」
「はい。……申し訳ありません」
「テメェは謝ってばっかだなァ」

突っ立ってないで座れ、と促されおずおずと彼の向かいに腰を下ろす。……今の不死川様の言葉は、怒っていないから謝らなくていいという意味だったのだろうか。風の呼吸の使用法や刀の使い方をご指導頂くうちに彼と話す機会も増えていったけれど、その分、釣り上がった目で睨み付けられるとすぐに謝罪の言葉が口をついて出るようになってしまった。怒ってもいないのに謝られてばかりだと彼も気分が悪いだろう。私も炭治郎くんや善逸くんのように五感で相手の気持ちが分かるような人間であれば良かったのに、と察しの悪い自分に嫌気が差しつつ、黙々と刀を磨いている不死川様に向かって頭を下げる。

「先程も申し上げましたが、明日からこちらの道場でお世話になる予定なので……ご指導のほどよろしくお願い致します」
「あァ」
「…………」
「…………」

会話が続かない。帰る前に明日からの稽古について不死川様に一言声をかけるという目的は果たされたのだから、潔く立ち去るべきだろうか。視線を落としたまま思案する。……明日からの稽古、ちゃんと指導して頂けるみたいで良かった。「一生素振りやってろって言っただろうが」とかそういう風に返されてしまったら、と心配していたけれど杞憂だったようだ。あんなことがあったのにもう水に流してくださるなんて、不死川様は優しい。炭治郎くんと揉めていたときはまさしく修羅のような顔をしていたけれど、それだって何かあれほどまでに怒っていた理由があるはずなのだ。その理由を訊ねてみたいと思いつつ、また彼の神経を逆撫ですることになってはいけないと口をつぐんだ。

いつの間にか窓の外は真っ暗になっていた。日が暮れたのに柱である不死川様が家にいらっしゃるのは珍しい。鬼の出没が止んでいるという話は本当のようだ。今日は警備の任務はないのだろうか。聞きたいことは次から次へと出てくるのに一体どれから訊ねてみればいいのか分からず悶々としていると、不死川様が「今日泊まってくかァ?」と口を開いた。その突拍子もない言葉に「えっ?」と思わず聞き返すと、手入れの終わった刀を傍らへと置いた不死川様がこちらへ向き直る。

「風呂の沸かし方だの台所の使い方だので隊士どもがうるせェからなァ。お前なら全部分かってんだろォ。あいつらに教えてやれ」
「あ、え、は、はい……」

何だそういうことか、と思ってしまった自分を殴り飛ばしたい。不死川様のお屋敷はとても広く、厠や物がしまってある場所を覚えるだけでも一苦労だ。初めて足を踏み入れた人にとってはさながら迷路のようなものだろう。目当てのものを探そうにも鬼殺隊最高位の風柱である屋敷の主人にはそう気軽に話しかけられないだろうし、不死川様もそれを分かった上での先程の申し出なのだろうと思うとやはりこの方は優しい方なのだと思う。……そうだ、不死川様は優しい。だから、先程の発言は不死川様の扱きで満身創痍であろう隊士たちを気遣ってこそのもので、そこに私が期待してしまっているような意味はない。そんなことは分かっているのに、彼の一挙手一投足に一々期待してしまう自分の浅ましさが嫌になる。これだから恋心というのはたちが悪い。ぱちりと視線がぶつかった不死川様に向かって「あの」と口を開きかけたそのとき、襖の向こうからバタバタと駆けてくる音がした。

さん!お取込み中のところすみません。あの、風呂を沸かしていたんですが薪がなくなってしまって……新しい薪の場所をご存知でしたら教えて頂きたいのですが、今よろしいですか?」
「はっ、はい。すぐ行きます!」

慌てて立ち上がり襖へと手をかけた。横目で確認した不死川様は黙って何も言わずに私が部屋を出ていくのをじっと見つめている。「明日からまたよろしくお願いします!」ともう一度念を押すように頭を下げてから部屋を後にして、裏口を出て風呂用の薪が積んである場所まで先程声をかけてきた隊士を案内すると、深々と頭を下げて感謝された。不死川様へ薪の場所を訊ねようにも昼間の乱闘騒ぎを目にした後ではどうにも気が進まなかったらしい。その気持ちはよく分かる。私も彼の立場だったら絶対に不死川様に話しかけようとは思わないだろう。

ましてや、同じ呼吸の使い手でなければ稽古をつけてもらおうなんて思わなかったはずだ。そうしたら、こうして彼の家の勝手を知ることも、彼が本当は優しい人だと知ることも、そんな彼に惹かれることもなかったのだろう。そう思うと不死川様に代わって彼の屋敷を案内している今のこの状況が可笑しいような感慨深いような、不思議な心境に陥る。血相を変えて蛇柱邸へ隠の方達が飛び込んできたのがもう随分と前のことのようだ。長い一日だった。まさか不死川様のことで呼びつけられるとは思いもしなかったなあ。あの隠の方達も、そしてこの隊士の方も、私が他の隊士よりも不死川様と親しいと思って声をかけてきたのだろうけど、実態はどうあれ周りから見てそう思われているのなら継子にしてほしいと願い続けた3年の月日も無駄ではないように思える。いつか名実ともに彼の特別な人間になることが出来ればいいと願いながら、私は薪をくべて煌々と燃え盛るようになった炎をじっと見つめていた。