薄氷にて春を告げる

夢を見た。不死川様が私の眠る墓を丁寧に掃除してくれている夢だ。桶から掬った水を柄杓で墓石へと回しかけ、持っていた花を花瓶へ生けた不死川様が目を閉じ手を合わせている姿を見て胸が詰まる。……嫌だなあ、夢の中ですら不死川様のこんな姿しか見られないなんて。せめて私の知らないところで、鬼狩りとは無縁の生活ーーとまではいかなくたって幸せに暮らしているところが見られたら、そうしたらいつまでもこの世にしがみつかずに済むだろうに。これでは成仏しようにも成仏しきれない。未練がましいのにも程がある。

「不死川様」

そんな風にしてくれなくたっていいんですよ、と声をかけるつもりで口を動かしてみても確かに音になって吐き出されているはずの言葉は彼には届いていないようで、手を合わせたまま微動だにしない大きな背中に向かって伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。……今さら触れようとしたところで、一体何が出来るというのだろう。もう私はこの人と同じところにはいられないのに。空を切った手を体の側で握りしめ、溢れそうになる涙を堪えるように大きく瞬きをする。墓へ手を合わせ終わった不死川様が柄杓と桶を手に持って立ち去ろうとしているのをじっと見つめながら噛み締めた下唇からはもうしなくなったはずの血の味がじんわりと滲み出していて、どうか彼が今後の人生で私のことを思い出すことがあるのならそのときはこんな未練がましい情けない姿ではなくもう少しマシなものであればいいと強く願いながら、遠ざかっていく後ろ姿をぼんやりと見つめていた。

次に目を開けたとき、蝶屋敷のあの真っ白な天井が視界いっぱいに広がっていて目をぱちくりとさせているとガシャーンと硝子が割れたような大きな音がして、音がした扉の方へ目を向けると手に持っていた花瓶を落としたらしいきよちゃんが慌てた様子で駆けていく後ろ姿が目に入った。

「あっ、アオイさーん!さんが!さんが目を覚ましました!」
「良かったぁ、さんだけ全然目を覚まさないからこのままずっと起きないままだったらどうしようかと思って……!」

寝台へ駆け寄ってくるなり大声を上げて泣き始めたすみちゃんと、それに釣られるようにしてわんわんと泣き声を上げるなほちゃんきよちゃんの三人をどうにか宥めようと寝台の上でおろおろとしていると、たくさんの洗濯物を抱えて血相を変えて飛び込んできたアオイちゃんに勢いよく飛びつかれて「ぐっ」と情けない声が漏れ出てしまった。「ア、アオイちゃん」ぎゅうぎゅうと両手で強く締め付けられ、息が出来なくて少し苦しい。しかしその苦しさこそが何よりも、今、私がどういう状況に置かれているのかを示す証明だった。生き残ってしまったのだ。あんな風に未練がましく夢を見てまでしがみつきたいと思っていたこの世界に、私はまた戻ってきてしまった。

それから数十分は経っただろうか。屋敷中に響きわたるほどの大声で泣いていた三人が何とか泣き止んだ後、割れた硝子を片付け温かいお粥を作ってきてくれたアオイちゃんによると、私はあの無限城での戦いから二ヶ月近く眠ったままだったらしい。それだけ長く眠ったままだったら、もう二度と目を覚まさないのではと心配になったりもするだろう。悪いことをしてしまった。眠っている間も身体を拭いたり着替えをさせたりと世話を焼いてくれていたらしいアオイちゃん達には頭が下がる。

匙ですくったお粥を口へ運びながら辺りを見回すと、この部屋の他の寝台が空っぽなことに気が付いた。……他の隊士の人たちは、鬼殺隊は、そして鬼舞辻はどうなったんだろう。不安げに辺りを見回している私の視線に気付いたらしいアオイちゃんが安心させるようにこちらの手を握りながら優しく「炭治郎さんはまだ安静が必要ですが別の部屋にいらっしゃいますよ。他の隊士の方も皆さん回復して今はもう元気です」と声をかけてくれたのに安堵し、食べ終わった皿の中へと匙を置いた。

良かった。……炭治郎くんたちも生きてたんだ。最前線で鬼舞辻と戦っていた炭治郎くんが無事(もちろんとても無事とは言えないくらいの大怪我だっただろうけど、少なくとも生きて蝶屋敷へ帰ってこれている)ということは、あの夜、鬼殺隊は鬼舞辻を夜明けまであの場所に留めておいていられたということで間違いないだろう。……アオイちゃんは何も言ってこないけれど、炭治郎くん以外のあの場にいた柱の方々は、ーー不死川様はどうなったんだろう。聞いてみてもいいんだろうか。だけど、すみちゃんたちやアオイちゃんが何も言ってこないということは理由があってのことかもしれないし、また落ち着いた頃に改めて誰かから話があるのかもしれないし……と頭を悩ませているうちに「安静にしておいてくださいね」と言い残したアオイちゃんが空になった皿を持って部屋の外へと出て行ってしまった。

誰もいなくなり途端に静かになった部屋で一人天井を眺め、考えを巡らせる。お粥を食べている間に聞かせてもらった話によると、私が生き残ったのは奇跡に近かったそうだ。他の隊員に比べ動き出すのが遅れたせいで鬼舞辻から少し距離が離れていたこと、頭と腰に傷を負ったものの傷が浅かったおかげで身体に回った毒の量が他の人よりも少なかったこと、隠の方がすぐ近くにいて看病してもらえるのが早かったこと、そして鬼舞辻の毒を無効化する血清を比較的早くに打ってもらえたこと、そのどれか一つでも欠けていたら助からなかったらしい。つまり運が良かった、ただそれだけ。それだけなのに生き残ってしまった。……なら、他の人たちはどうだったんだろう。そう訊ねてみようにも鎹鴉はどこかへ行ってしまったようで姿が見当たらず、アオイちゃん達も他の隊士の世話や家事でバタバタと忙しなく屋敷中を行ったり来たりしていて忙しそうだ。言われた通り大人しく寝ておいた方がいいだろうか。次に起きたときにアオイちゃんやすみちゃんたちが部屋へ来てくれたらそのときは、あの日無限城で何があったかちゃんと聞かなくちゃならない。……何があったか、その全部を聞いて、それがたとえどんな結末だったとしても受け止めなくては。

安静にしておけと言われた通りに寝台に横たわってはみるも、ぐるぐると巡っていく思考に気を取られ眠るに眠れず何とはなしに寝返りを打つと、コンコンと部屋の扉を誰かが叩く音がした。「どうぞ」誰だろう、アオイちゃんが忘れ物でもしたのかなと思いながら扉の方へと一声かけ身体を起こすと、ぎいと音を立てて開いた扉からひょっこりとちょうど先程まで顔を思い浮かべていた張本人である不死川様が顔を出し、驚きのあまり寝台から転げ落ちそうになってたまらず大きな悲鳴が口から出てしまった。

「し、不死川様」
「……その様子だと調子は悪くねえみてェだなァ」

うるさいと言いたげに眉間に皺を寄せた彼が寝台脇の椅子へどっかりと腰を下ろしたのを見て目を白黒させる。明るい色の髪も、不機嫌そうな低い声も、傷だらけの腕も、眉間に皺を寄せた険しい表情も、間違いなく私の知る不死川様だ。……私が作り出した都合の良い幻じゃなくて、不死川様がそこにいる。良かった、生きていてくれたんだ。そう思った途端に鼻の奥がツンと痛くなり、それを気取られまいと深呼吸を一つしてから、おずおずと口を開き頬杖をついてこちらを見ている彼に向かって言葉をかけた。

「あ、あの、……どうして不死川様がここに?」
「テメェの鴉が飛んできて『すぐ蝶屋敷に来い』っつって騒ぎやがったからなァ」
「えっ!?」

まったく誰に似たんだか、と言いながら呆れた顔をする不死川様に向かって「すみません……」と頭を下げる。いないとは思っていたけれどまさか不死川様のところだったとは。気が利くんだか利かないんだか、こういうところまで主人に似なくたっていいはずなのにと落ち込んでいると「顔上げろ」と言いながら下げたままになっていた私の頭を掴んで上げさせた不死川が「どうせお前が目覚ましたらそのうち来るつもりだった」と続けた言葉に再び目を丸くする。……呼ばなくたって来てくれるつもりだったってことは、私のことを少しだけでも気にかけてくれていたってこと?それなら、本当にそうだったのならどうしようもなく嬉しい。堪えていた涙が溢れてきそうなり布団の上で握りしめていた手へと目線を落とす。ああダメだ、言いたいことはたくさんあるのに胸に詰まって何一つとして言葉に出来そうにない。

そのまましばらく何も言えずに目を伏せていると、横に座る不死川様が「明日」とぽつりと小さく呟いた声が聞こえて顔を上げた。まるで鍛錬を重ねているときのような真剣な顔をしてこちらを見る不死川様と視線がぶつかり、また胸が詰まるような心地がしたのを悟られないようにごくりと唾を飲み込む。

「……連れて行きたいところがある。外出許可はもう出てんのかァ?」
「は、はい。アオイちゃんにも寝てばかりで体力が落ちてるだろうから少しずつでも出来る範囲で身体を動かした方がいいと言われたので……大丈夫だと思います」
「分かった」

続けて「時間になったら迎えにくる」と言う不死川様の申し出を丁重に断ろうとするも、「いいから俺が来るまで寝とけ。無理して動いてぶっ倒れられたらたまんねェからな」と念を押され渋々ながらも頷くと「安静にしとけよ」と再び釘を刺してから不死川様は部屋から出ていった。……もう少しだけここにいてほしかったな、なんて、調子の良いことを考え出す頭をぶんぶんと振って布団の上へ身体を預ける。連れて行きたいところがあるって、不死川様はそう言っていたけれど、明日どこへ行くんだろう。考えてみてもさっぱり見当がつかない。思えば不死川様と事前に示し合わせてどこかへ出かけるなんて初めてのことかもしれない。浮かれてはいけないと思いつつ、弛みそうになる頬を押さえる。どうかこれが死に際の私が見ている都合の良い走馬灯ではありませんようにと願いながら目を閉じると、存外疲れていたらしい身体はすぐに眠りの世界へと引き込まれていった。

翌日。昼食を食べ終えた頃に蝶屋敷に顔を出した不死川様に連れられ産屋敷邸近くの山を登った先で私を待っていたのは、ずらりと辺り一面に並んでいる墓の数々だった。呆気に取られている私をよそに、慣れた様子で桶と柄杓を手に取ってから墓石の山の中を進んで行き、そのうちの一つの前で立ち止まった不死川様が「着いたぞ」と声をかけてくる。

「……あ、あの、不死川様。ここって」
「玄弥の墓だ。テメェには玄弥が世話になったみてェだからなァ。手ぐらい合わせてやってくれ」
「そんな、世話なんて……私は玄弥くんに何も、」

言いかけた私の言葉を片手で制した不死川様が「頼む」と小さく呟いた言葉に促されるがまま、墓の正面へ立つ彼の側へと足を進める。私が墓石のすぐ側まで歩いてきたのをちらりと確認した不死川様が桶から汲んだ水を柄杓で墓石へ回しかけている背中が夢で見たあのときの後ろ姿に重なって、キリキリと強く胸が締め付けられる心地がした。

……ここに来る途中で不死川様がぽつぽつと話してくれた言葉によると、あの日無限城で玄弥くんの最期を看取ったのは不死川様だったらしい。鬼喰いをするあまり鬼に近づきすぎてしまった玄弥くんの身体は最後には跡形もなく崩れてしまって、骨の一つたりとも残らなかった。だから、今目の前にあるこの墓の中に玄弥くんはいない。それでもせめて、あの日戦った隊士たちのことを忘れることのないように、ずっとずっと覚えていられるようにというお館様のご意向で、産屋敷家が管理するこの敷地内に墓が建てられることになったそうだ。

鬼のいない泰平の世など、そう簡単に実現できるものではない。何百年と続いてきた長い鬼殺隊の歴史の中でようやっと鬼舞辻を倒すことが出来たのが私たちの代だったというだけで、今の私たちがこうやって刀を持たずに外へ出ることが出来ているのは鬼をこの手で倒すためならどんな犠牲だって厭わないと戦ってきたたくさんの鬼殺隊の人たちがいたからだと、ちゃんと頭では分かっていたはずなのに。いざこうしてそれを目の当たりにすると失ったもののあまりの大きさに立ち竦んでしまう私は、曲がりなりにも鬼殺隊隊士の端くれのうちの一人だったはずなのになんと情けないのだろう。ここに眠っているのは玄弥くんだけじゃない。あの日、鬼舞辻や上弦の鬼たちと戦った七人の柱の方々のうち、生き残ったのは不死川様と冨岡様だけだった。その二人だって、鬼舞辻や上弦の鬼を倒したのと引き換えに指や片腕を失くしている。……それでも、例えどれだけの犠牲を払うことになったとしても貴方だけでも生きていてくれてよかったなんて、決して思ってはいけないことなのに、どうしたって思わずにはいられなくなってしまう。

墓石の掃除を終え、目を閉じ静かに手を合わせている不死川様の隣に立った。上弦の壱は玄弥くんと時透様と悲鳴嶼様と不死川様の4人で倒したのに、そして鬼舞辻は皆で力を合わせてようやく倒すことが出来たのに、こうして生きて返ってこられたのは自分だけだったと呟くようにして言う不死川様に何と声をかけたらいいのか分からず、何も言わずに同じように手を合わせる。兄弟のいなかった私に、たった一人の弟だった玄弥くんを、そして柱の方達を目の前で失った不死川様にかける言葉なんて見つかりそうもない。……それでも、不死川様はここへ私を連れてきてくれた。そこに込められたこの人の想いに、優しさに、少しでも応えることが出来ているだろうか。

どれくらいの間、そうしていただろう。手を合わせるのをやめて「……そろそろ行くか」と声をかけてきた不死川様に向かって「はい」と頷く。山を降りる手前でふと湧いてきた考えに足を止めると、足音が聞こえなくなったのに気づいて「どうした?」と訝しげな顔をしながらこちらを振り返った不死川様に向かって口を開いた。

「今日はありがとうございました。……あの、明日、またここに来てもよろしいでしょうか?今日はその、手ぶらで来てしまったので……不死川様さえ良ければまた今度お花かお菓子をお供えさせてほしいと思ったのですが」
「…………」

私の言葉を聞いた不死川様はこれまでに一度も見たことのない、なんとも言えない顔をしていた。ぽかんと呆気に取られているようにも、困惑しているようにも見える表情だ。お墓に手を合わせさせてもらっただけでは飽きたらず、お供えまでさせてほしいなんて、さすがに出すぎた真似だっただろうか。ずかずかと土足で彼ら家族の領域を踏み荒らすようなことをして、機嫌を損ねてしまっていたらどうしよう。「……あの、不死川様」おずおずと伺うように声をかける。やっぱり先程の言葉は忘れてくださいと言いかけたところで、しばらく黙ってぱちぱちと瞬きをしていた不死川様がぽりぽりと頭を掻いた後にぼそりと言った。

「好きにしろ。別に俺に許可取る必要なんかねェよ」

そう言って続けざまに「玄弥の好きな花とか食いもんとか知ってんのか?」と問うてきた不死川様の顔はいつもより少しだけ口元が緩められていて、これまでに見たどんな彼よりも優しい表情をしていた。

時は巡り、蝶屋敷にも春がやってきた。お館様のお屋敷から戻ってきた不死川様から鬼殺隊が今日限りで解散することを聞かされ、寝台に腰掛け帰り支度をしながら鬼殺隊に入ってからの長いようで短い間にあった幾つもの出来事を思い出す。辛いことばかりだった。たくさんのものを失ってしまった。悔やんだって悔やみきれないことだらけだけれど、それでもまだ、私たちは生きている。生きているからには前を向いて歩いていかなくてはならない。それがたとえどれだけ亀のように遅い歩みだったとしても、進み続ける他ないのだ。

荷物を持ってまだ少しだけ重い身体を引きずるようにして蝶屋敷の廊下を歩いているとその途中でたくさんの隊士の人たちとすれ違い、挨拶を交わしているうちに随分と時間がかかってしまった。不死川様はもう屋敷の外へ出て行ってしまっただろうか。もう帰ってしまっていたらどうしよう、まだろくに挨拶も出来ていないのに。せめて一言、お別れの挨拶ぐらいはさせてもらいたい。

半ば走るようにして廊下を急いでいると、向こう側から禰󠄀豆子ちゃんが歩いてくるのが見え、そしてその向かいに不死川様が立っているのが見えて思わず走っていた足を止めて柱の陰からそっと顔を出して二人の様子を伺った。……あの不死川様と禰󠄀豆子ちゃんが、二人きりで言葉を交わしている。三ヶ月前の鬼殺隊では到底考えられなかった光景だ。人間に戻った禰󠄀豆子ちゃんは明るく快活なとても気立ての良い女の子で、鬼だったときの禰󠄀豆子ちゃんを刀で刺してしまったことのある不死川様はかなり負い目を感じていたらしい。二つ三つほど言葉を交わした後、禰󠄀豆子ちゃんの頭を撫でた不死川様が「元気でなァ」と言っている声が廊下に響いた。……今の不死川様の声、これまでに聞いたどんなあの人の声よりも優しい声色してたなあ。少しだけ禰󠄀豆子ちゃんが羨ましいと思ってしまった。

禰󠄀豆子ちゃんを探して廊下へやってきたらしい炭治郎くんと善逸くんと最後に少し挨拶をして、蝶屋敷の外へ出る。門の側で腕を組み待ちくたびれたといった様子で「遅ェ」と顔を顰めた不死川様に「すみません」と言いながら駆け寄った。……良かった、まだいてくれたんだ。走ったおかげで少し乱れた呼吸を整えているうちに「置いてくぞ」と言った不死川様がすたすたと歩き始めてしまったのを見て、その背中を小走りで追いかけながら考える。

もしかしたらこれで不死川様に会えるのも最後なのかもしれない。鬼がいなくなり鬼殺隊が解体された今、私たちが鬼狩りとして共にいる理由はなくなってしまったのだから。炭治郎くんたちは生まれ育った家に帰るそうだけれど、不死川様はこれからどうするんだろう。またあの大きなお屋敷に住むんだろうか。たまになら訪ねて行っても怒られたりしないかな。月に一度、手紙を送るくらいなら許してもらえるだろうか。……せめて、年に一度の玄弥くんの命日くらいはお墓参りをさせてほしい。本当は月命日にもお参りしたいのだけど、そう何度も頻繁に足を運ぶとせっかくの家族水入らずの時間を邪魔してしまうことになるかもしれない。結局最後まで彼の継子にすらなれなかった私に、そこまで入り込む権利はない。……入り込む権利なんて到底ないけれど、でも、訊ねてみるくらいならばバチも当たらないだろう。

前を行く背中に向かって「不死川様はこれからどうなさるんですか?」と声をかけると、「……さあなァ」の一言だけが返ってきた。はぐらかした訳ではなく、本当にこれから何をするか決めあぐねているような声色だ。それもそうだろう。自分が生きているうちに鬼がいない泰平の世が訪れるなど、想像すらもしていなかった。それは鬼から世の人たちを守るために夜毎身を粉にして戦ってきた柱の方々だって同じことなのかもしれない。振り返った不死川様が「お前はどうすんだ?」と問いかけてくるのに対し、少し首を捻って考えてから言葉を選んでいく。

「畑仕事でもやろうかなと思ってます。それか学校へ行って一から学び直すのもいいかもしれません。住んでた家は藤の家の方のご厚意で住まわせて頂けていたわけですし、こんな身体じゃ嫁の貰い手もないでしょうし……手に職つけないと。皆様に鍛えて頂いたおかげで体力だけは自信がありますし」
「……そうかい」

柱稽古でみっちりと鍛えて頂いたおかげで小さな岩程度なら難なく動かせるようになった。この辺りでこの身体が活かせる職はどのくらいあるだろうか。女なのに力がありすぎると煙たがられるかもしれない。だけど、ここがダメでも都会にならきっと、女でも雇ってもらえるような力仕事だってあるだろう。鬼のいなくなった泰平の世で、これからの生き方を時間をかけて探すのも案外いいものかもしれない。そんなことを考えながら、前を行く背中に向かって「不死川様」と声をかけると、足を止めた彼が「まだ何かあんのかよ」と言いながらこちらへ向き直った。

「先ほどは次に何するか決まってないとおっしゃっていましたが、……その、風の呼吸はどんな形であれ残していってほしいと私は思ってます。あと、これは善逸くんが言っていたんですけど、西の方にも美味しいおはぎを出す店がいくつもあるそうなのでそういうのを食べて回るのも楽しいかもしれませんよ。おはぎ食い倒れ日本一周の旅の本とか、そういうのが出せるようになるかもしれませんし……」
「なんだそりゃ」

「バカみてェなこと言ってんじゃねェ」との言葉とは裏腹に機嫌が良さそうな声色に、話しているうちに段々と俯きがちになっていた顔を上げる。すると、大きな目を細めてこちらを見ている不死川様と目が合った。笑っている。どれだけの鬼を倒そうと、(滅多にないことだけれど)柱の方々が冗談ひとつ飛ばそうとにこりともしなかったあの不死川様が、くつくつと楽しそうに笑っている。これは夢だろうか。右の手のひらをつねってみた。痛い。夢じゃない。……夢じゃないんだ。

鬼殺隊随一と言っても過言ではないほどに苛烈で誰よりも恐れられていたあの不死川様が、こんな柔らかな表情を見せる日が来るなんて一体誰が予想しただろう。あまりのことに思わず「風柱様」と呟くと、すかさず「もう風柱じゃねェ」という言葉が返ってくる。その言葉に少し考えてから、ああそうだった鬼殺隊はもう解散してしまったんだと思い至り改めて「不死川様」と彼の名前を口にすると「……今更えらく他人行儀だなァ」と言った彼がもう一度笑った姿が目に入った。……ど、どういう意味なんだろう。不死川様はもう鬼殺隊の風柱ではない。私ももう、鬼殺隊の隊士ではない。ただのになってしまった。そしてそれは彼とて同じだ。ただの不死川実弥という男の人になってしまった。それでも、これまでと同じようにその背中に向かって名を呼んでも構わないというのなら。そして、鬼殺隊の仲間として出会った私たちはもう他人と呼べるほど遠い存在ではないと、そう思ってくれているのだとしたら。どこまでも都合の良い解釈だと分かってはいても、期待せずにはいられなくなってしまう。

踵を返し再び歩き出そうとした彼に向かって意を決して口を開いた。

「実弥さん」
「なんだ」
「おはぎ食い倒れ日本一周の旅をするまでは死なないでくださいね」
「……誰に向かって言ってんだァ?」

伸びてきた左手にわしゃわしゃと髪をかき回される。……名前で呼んでも怒られなかった。また呼んでみてもいいのかな。これからも呼ばせてもらえるといいなあ。次はいつ会えるんだろう。また会いたいって、会いに行ってもいいかって、聞いてみてもいいんだろうか。

足を止めたままぼーっとしていた私に「何やってんだ?置いてくぞっつってんだろうが」と言った彼が早く来るように促してくるのに対し、ふと一体どこまで行くのだろうという考えが頭を掠め首を捻った。この先は私の家とも不死川様の屋敷とも違う方向だ。痺れを切らしたのか私が持っていた荷物を奪うようにして掻っ攫い、自分の分の荷物とまとめて背中に担ぎすたすたと歩き出してしまった不死川様の意図が分からず混乱する頭のまま置いていかれまいと走って前を行く大きな背中を追いかけた。追いついた不死川様の少し後ろで息を整えながら、早足で歩みを進める彼に向かって声をかける。

「あ、あの、不死川様。荷物くらい自分で持てますので……」
「……テメェに持たせてたらチンタラやってる間に日が暮れるだろうが。黙って持たれときゃいい」
「で、でも、不死川様のお屋敷って逆方向じゃ」
「別に、……あの家にはもう住まねェから気にしなくていい。それにテメェもまだ住むところ決まってねェんだろ?」
「そ、それはそうですけど……ええと、その、私も一緒に行ってもよろしいのですか?」
「はァ?」

「今更何言ってやがる」と眉を吊り上げ足を止めた不死川様に額を小突かれた。小突いたつもりなんだろうけどめちゃくちゃ痛い。指が貫通したかと思った。じんじんと痛む額を片手でさすりながら、「いちいち言ってやんねえと分かんねェのかよ」と憎々しげに舌打ちをした不死川様を見上げる。

「テメェのことだからどうせ今の家にはもう住まねえつもりなんだろ」
「は、はい。鬼殺隊は解体されてしまったので、鬼狩りでもないのに藤の家の方にいつまでも家を貸して頂くのは気が引けてしまって……とりあえず明後日くらいには家の荷物をまとめようと思っています」
「次どこ行くかは決まってんのかァ」
「決めてません。当分は宿屋にでも泊まって、まずは当面の食い扶持を稼げるような仕事でも探そうかと思って……」
「なら俺と来りゃいいだろうが。まだ住むとこは決まってねェが人二人が当面食ってけるぐらいの金ならある」
「えっ」
「なんだその顔は……散々勝手に稽古だ飯だっつって人ん家に上り込んできといて今更嫌だってのかァ?」
「そんな、嫌というわけでは……で、でも、しな、……ええと、その、実弥さんはそれでよろしいのですか?」
「だからそう言ってんだろうが、何回も言わせんじゃねェ。……どうせ放っといてもテメェなら地獄の果てまで追いかけてきそうだからなァ」

さすがに鬼殺隊がなくなって柱と隊士の間柄でもなくなってしまった今、地獄の果てまで追いかけたりはしない。……多分。私って不死川様にどれだけしつこい奴だと思われてたんだろう。まさか彼の方からそんな風に打診があるとは思ってもみなかった。いいのかな、ついていっても。そんな風に優しくしてもらっていいのかな。これ以上ないくらいに願ってもみない申し出だけれど、もう鬼殺隊の部下でもなくなってしまったはずの、ただの女になった私にそこまで良くしてもらっていいのだろうか。……傍に置いてもらったところで、私が彼に出来ることなんて今更もう何もないというのに。

「おい」
「…………」
「おい、
「…………」
「またごちゃごちゃと一人で余計なこと考えてるみてえだなァ」
「あ痛ァ!?」

さっきよりも強い力で額を小突かれ、あまりの痛みに悶絶した。額を抑え地面に蹲る私を見た実弥さんがけらけらと声を出し愉快そうに笑った後、橙色に変わり始めた空へと視線を移して言う。

「……ったく、テメェに付き合ってたらあっという間に日暮れだぜ。俺は気が長ぇ性分じゃねえからな、今すぐ決めろ。二度は言わねェ。……俺と来るのか来ねえのかァ?」
「い、行かせて頂きます!」

すっくと立ち上がり間髪入れず答えた私に「分かった」と返事をするなりまたすたすたと歩いて行ってしまった大きな背中を慌てて追いかける。……どうしよう、勢いで行くって返事してしまった。「分かった」と言われてしまった手前、もう今更撤回することは出来ない。

どんどんと遠ざかっていく背中を見つめながら思う。結局、この人に私が何をしてあげられるのかは出会ってから3年以上が経った今でも分からずじまいなままだ。いくら考えたところで一向に答えは出そうにないけれど、少なくともまだここで、今生の別れをしなくてもいいのなら。継子にはなれずともこれからも傍に置いておいてもいいと思ってくれているのなら、今はそれだけで十分なのかもしれない。私が彼のために何が出来るのかは、これからどれだけ時間がかかろうと根気強く探していけばいい。いつの間にか随分と遠くまで歩いていってしまった後ろ姿を追いかけながら声を張り上げる。

「不死川様!」
「……だから、そうやって呼ぶんじゃねえって何度言ったら分かりやがんだテメェは」
「好きです!」
「……道の真ん中ででけェ声出してんじゃねェ」
「はい!」

半ば叫ぶようにして言った私の言葉に振り返った彼が「相変わらず返事だけは一級品だな」と呆れたように言った表情に胸が高鳴る。この人が好きだ。それだけは私たちが鬼殺隊の隊士と柱でなくなった今も、これまでも何も変わらない。これから先の私たちがどうなるのかはまだ誰にも分からないけれど、たった一つそれだけは確かなことのように思えた。