まだ何処か最果てにて

若い男女が一つ屋根の下。そう言ってしまえば聞こえはいいが、実際これは居候以外の何者でもないのではなかろうか。縁側に二人で腰掛け爪楊枝に刺したカステラを頬張りながら、夜空に浮かぶ月をじっと見ている実弥さんの横顔をちらりと盗み見る。しかしどれだけ横顔を穴が開くほど見つめてみても彼がこちらを見つめ返してくれるようなことはなくて、一体これはどうしたものかと黙々とおはぎを口にしている彼に気付かれないようにそっとをため息をついた。

鬼殺隊が解散したあの日からさらに二月ほどが経った。あれからの私と実弥さんがどうなったかというと、特にどうにもなっていない。いや、そう言ってしまうとさすがに語弊があるかもしれないのでここで弁明しておくが、鬼狩りではなくなった私たちの生活はこれまでの日々が嘘のように穏やかで平和なものだった。

初めの一月と半月で「これまでたくさんお世話になった分、せめて最後に藤の家の方や刀鍛冶の方達に挨拶がしたいです」と言った私とそれに頷いた実弥さんによるお礼参りの旅が終わり、「次はどうしましょうか」と口にしながらひとしきり首を捻ってみてもこれから行く先の当てがあるわけでもなく、何をして生きていくかも決めあぐねていた私の頭に名案など浮かんでくるはずもなく、そしてそれは彼も同じだったようで近くにあった宿屋でぼんやりと過ごしながらこれからのことについて二人で頭を悩ませる日々が続いた。……もしかしたら実弥さんはそこまで悩んではいなかったのかもしれないけれど、私はといえばもう一生分の知恵を使い切ってしまうのではないかと思えるほどに懊悩し、だけども来る日も来る日も悩んだところで私のちっぽけな脳みそ程度では一向に答えは出なかった。

実弥さんが言った通り、働かずとも二人で当分の間過ごしていけるだけの手持ち金は確かにあった。元々鬼殺隊最高位の風柱だった彼が「使い所がねェ」と言って給金のほとんどを貯め込んでいたのもあるし、鬼殺隊の解散後に輝利哉様から実弥さんにだけでなく私にも見たことがないくらいの大金が送られてきたから尚更だ。けれど、だからと言っていつまでも何もせずにぼんやりと過ごしているのも性に合わなかった。やっぱり農作業にでも手を出すべきだろうか、でもそうなると土地を探すところから始めないといけないし、そもそも最終決戦で大怪我を負った実弥さんは傷が完全に癒えるまでは何もしたくないのかもしれないし、私だけでも畑仕事をやりますと言って「ならテメェとはここまでだな」とか言われてお別れをする羽目になってしまったらどうしよう……と悶々としている私に助け舟が出されたのは、宿屋で何とはなしに過ごす日が3日続いた次の日の朝のことだった。

鬼殺隊は解散してしまったけれど、藤の家の人たちは例え私たちが任務中に訪れたこともない隊士であったとしても軒先で「元鬼狩りです」と言うとそれはそれは良くしてくれた。宴だと言って豪勢な食事と飲み切れないほどの酒を用意され、そのどんちゃん騒ぎが三日続く頃にはすっかりこちらも出来上がってしまうことも数え切れないほどあった。実弥さんは私よりも随分と酒に強いらしくどれだけ呑んでも潰れるようなことはなかったけれど、宴や酒の席といった騒がしい場はあまり得意ではなかったようで、どうにも気乗りしない様子なのを受けて旅の最後の方は宴は丁重にお断りして気持ちだけを受け取ることにすると、代わりに山ほどの食材や宝飾品を持たされるようになってしまった。

さすがに家宝なのではないかと疑わしく思ってしまうほどの煌びやかな宝飾品の数々は受け取れなかったので有り難く思いながらも遠慮させてもらうと、泊まっていた宿屋まで訪ねてきた藤の家の主人に何でもいいから力になれることはないかと問われ、すったもんだの末にその家が所有していた空き家のうちの一つを無償で貸してもらえることになった。お金は払いますと何度言っても頑として受け取ってもらえず困り果てた私が実弥さんに助けを求めると、家を貸してもらう代わりに力仕事や畑仕事の手伝い、荷物の配達などを時折請け負うことで決着がつき、そうして無事に山と町とのちょうど中間辺りにあるこの場所に家を構えるようになってもうすぐ半月が経つ。

ちょうど田植えの時期ということもあって最近の実弥さんはよく田んぼの方へと駆り出されていて、手持ち無沙汰だった私がそれを手伝おうとすると「テメェは勉強でもしてろ」と言われてしまい、あれよあれよという間に藤の家の方の紹介で町の学習塾へと週に二、三度通うことになった。どうやらこれから何をするつもりか問われたときに「学校へ行こうと思っている」と何の気なしに言ったことを覚えられていたらしい。実弥さんが働いているのに私が暢気に学校なんて行っていていいのかなとは思いつつ、鬼殺の剣以外のこれまで触れてこなかった新しい知識を教えてもらうのは存外楽しくて、気がつくと鼻歌を歌いながら掃除や夕飯の支度をしていることが増えた。機嫌良く皿を洗っている最中に後ろから覗き込んできた実弥さんに「楽しんでるみてェだなァ」と言われたときは顔から火が出るかと思うほど恥ずかしかったけれど、ここ最近の彼は鬼殺隊でのあの険しい表情が嘘のように優しい顔をするようになったものだから、そうした軽口も叩いてもらえるほどには親しくなれたのだと思うと嬉しくなってしまう。

そうして私が学校や蝶屋敷での検診や買い出しへ、実弥さんは田んぼや薪割りの手伝いへといった具合に昼間はそれぞれが思い思いに過ごしていることが多いものの、日が落ち出す頃になるとどちらからともなくお茶やお菓子を持って縁側へ集まることが今となっては恒例となっていた。一つ屋根の下といってもさすがに部屋は別の場所を使っているし四六時中一緒にいられるわけではないのだけれど、こうして気が向いたときに話をしてもらえるようになっただけでも、継子にしてほしいと屋敷へ訪れては門前払いを食らっていたあの頃よりは少しだけでも彼に近づくことが出来ているのではないかと思う。そんな中で気がかりなことがあるとするならば、実弥さんは今のこうした生活をどう思っているのだろうということぐらいだろうか。

一緒に来るかと誘いを受けたあのとき、彼がそれ以上何かを言ってくることはなかったけれど、共に来いということはてっきり身の回りの世話をこちらに任せるということなのだろうと思っていた。なのに、鬼殺隊が解散して二月が経ち住む家を手に入れた今になってもとうとう一度も彼からそんな申し出がされることはなく、世話を焼くどころかあの人は炊事から風呂の準備から掃除に至るまで自分のことは全部自分でやってしまうものだから、女中にでもなるつもりで着いてきていた私は一体これはどうしたことかと首を捻るばかりだった。利き手の指を失くしたことで生活に支障が出ることだってあるだろうし、天気が悪い日には身体が痛むのか昼頃まで布団で横になっていることも多くなったし、「上弦の鬼と鬼舞辻を倒して指だけで済んだんだから俺は恵まれてる」と彼は言っていたけれど、いざ何かあったときのために昔馴染みで鬼殺隊の事情をよく知る私を近くに置いているのだとばかり思っていたのに。これではどうも辻褄が合わない。私って何のために実弥さんと一緒にこの家に住んでるんだろう?と、考えてしまう夜がないと言ってしまえば嘘になる。

女中でもなければ弟子でもなく、友人と呼ぶにはまだ少し遠くて、ましてやもちろん恋人などでもないのだから、これはもう居候と呼ぶしかないのではないだろうか。鬼舞辻を倒したことによって鬼狩り一辺倒だった私たちの生活は以前とは随分と違うものになっていったけれど、いくら共に過ごす時間が増えたところで結局私と実弥さんの関係に劇的な変化が訪れるようなことはないのだった。

ただ、何もかも変わらないままかと言えばそうでもなくて。春風が心地よく吹いていたあの日に道で実弥さんに小突かれた後、なかなか引いていかない痛みを何とか誤魔化そうとしきりにさすっていた額は次の日にはいよいよ赤く腫れ上がってしまい、氷を当てながら「これぐらいで赤くなってるようじゃ私もまだまだ軟弱者ですね」と戯けるように言った私の姿を見て何か思うところがあったのか、それからというもの実弥さんは用事で町へでかけて行く度に「土産だ」と言って洋菓子や花を持って帰ってきてくれるようになった。それはもう、キャラメルやチョコレート、ビスケットにゼリー、撫子の花や勿忘草、時にはきらきらと光る石のついた髪飾りに至るまで、見たこともないような貴重なお菓子や綺麗なものをたくさんくれた。

初めのうちは驚いて「戴けません」と固辞したこともあったけれど「いいからもらっとけ」と押し切られてしまって以来、上手い断り方も思い浮かばず差し出されるがままに受け取る日々が続き今に至る。先程実弥さんがくれたのはデパートで買ってきたというカステラだった。ちょうど塾の帰りに私が買ってきたばかりだったおはぎと実弥さんが持って帰ってきたカステラを皿に載せて、縁側に座る彼の後ろに立つ。その広い背中を少しの間見つめたあと、意を決して「少しよろしいですか?」と口を開いた。まったく気乗りはしないけれども、今日という今日こそは言わなくてはならない。振り返って「なんだ?」と眉を顰めた彼の隣へ腰を下ろしながら、一つ一つゆっくりと言葉を選んでいく。

「……あの、こうしてよくお菓子を買ってきて頂けるのは大変嬉しいんですが、そろそろ頻度を下げてもよろしいのではないかと言いますか……その、これだけあると中々食べきれなくて悪くなってしまうのも勿体ないなと思うこともありますので、ええと……」

尻すぼみになって消えていった私の言葉を聞いた途端に眉を釣り上げた実弥さんにじっとりと睨み上げられ肩が縮こまる。やはり機嫌を損ねてしまった。だけど、私もこればかりは譲れない。剣を握ることもなくなってしまった今となっては、毎日毎日こんな風に美味しいものばかりを食べていてはあっという間に丸々と肥え太ってしまう。眉を寄せたまま何も言わない彼にどぎまぎとしてしまうのを気取られることのないように心臓を押さえつけるべく深呼吸をしていると、「そりゃテメェもだろ」と言った実弥さんが口を尖らせた。

「やれ検診だ学校だっつって出かけてくる度に山ほどおはぎ買ってきやがって。そっちも似たようなもんだろうが」
「そ、それはだって、実弥さんとは剣や呼吸の話をしてばかりでおはぎ以外の好きなものを知らないと言いますか、他に貴方の好きなものが思い浮かばないからで……おはぎ買ったら絶対喜んでもらえるって分かってるので、つい店で並んでるのを見ると手に取ってしまうというか……。それに今だって美味しそうに食べてたじゃないですか」

皿の上に置かれた食べかけのおはぎを指差すと「……まあ、俺も確かにお前の前では剣の話しかしてこなかったけどよ」と頬を掻いた彼が決まりの悪そうな顔をして言う。その言葉に黙って頷くと、少し考え込むような素振りをした実弥さんから返ってきた「テメェが毎度毎度おはぎ持って帰ってくんのをやめるっつーんなら考えてやる」との言葉に「分かりました」と勢いよく首を縦に振った。

それきり何も言わず黙々とおはぎを食べ出した彼に倣って切り分けたカステラを爪楊枝で刺し口へと放り込みながらふと考える。それにしてもどうして洋菓子ばかりを買ってきてくれるのだろう。甘くて柔らかくて口溶けのよい洋菓子は確かに私の好物でもあったけれど、私実弥さんに洋菓子が好きだって言ったことあったっけ。不思議に思って訊ねると、前に甘露寺様の屋敷でパンケーキを食べたのが美味しかったと藤の家を目指している合間に溢したことをどうやら覚えていてくれたらしい。帰りがけにデパートへ寄ってみたはいいものの食べたことも見たこともないパンケーキがさすがにどんなものかは分からなかったようで、「カステラで我慢してくれ」とバツが悪そうに言われたときは思わず笑い出しそうになってしまったけれど、こんな調子で穏やかに過ぎていく彼との日々を愛おしく思うことは確かだった。

驚くほどに穏やかな気持ちで過ごせているここでの日々を有り難く思う反面、眠れない夜がやってくることも時折あった。それは鬼との最終決戦を迎えたあの日、辺り一面に立ち込めていた火薬と肉の焦げた匂いだったり、無限城で次々に倒れていく仲間の後ろ姿であったり、鬼舞辻に付けられた傷の灼けつくような痛みだったり、ふとした瞬間に鬼殺隊で目にした様々なものが鮮明に甦ってきてしまうからに他ならない。じっとりと汗ばんだ額に張りついた髪を片手で払ってからのろのろとした動きで布団から起き上がり、風呂場へ薪をくべて燃え出した火をじっと見つめる。軽く身体を洗い流した後、自室へ戻る気にもなれず濡れた髪もそのままに縁側の方へ足を向けると、その途中で自室の障子を開けて廊下へと顔を出した彼と目が合った。

「不死川様。……あ、その、ええと、すみません。起こしてしまいましたか?」
「その呼び方で呼ぶんじゃねえっつったろ」
「はい」

眦をきつく釣り上げた実弥さんに怒られるのも、その刺々しい言葉に反射的に頭を下げてしまうのも、なんだか久しぶりで懐かしい感覚を覚えてしまった。かつて上官だった彼を名前で呼ぶことにも徐々に抵抗はなくなり、今ではもう意識せずとも口に出来るようになったけれど、やはり不意に呼びかける際には呼び慣れた昔の呼び名が口をついて出てきてしまう。ぺこりと頭を下げた私にフンと鼻を鳴らした彼はそれきり何も言わなくなってしまい、私も私で突然の実弥さんの登場に驚いたままの頭では何の話題も浮かんでこずに押し黙っていると、濡れたままにしていた私の髪からぽたぽたと水滴が落ちた音が静まり返った廊下に響き今が深夜だということに改めて気が付いた。極力物音を立てないように心がけたつもりだったけれど、やはりうるさかっただろうか。眠りを妨げてしまったのかもしれないし、泥棒か何かだと思わせてしまったかもしれない。申し訳ないことをしてしまった。

それからしばらくの間、二人で何も言わずに廊下に佇んでいる時間が続いた。いつまで経っても自室へ帰る気配を見せない彼を訝しく思いながらも「……じゃ、じゃあ私はこれで。おやすみなさい」と声をかけ廊下を通り抜けようとすると、引き留めるように私の名前を呼びかけた彼が言った「眠れねェのか?」の言葉にこくりと頷く。そして、その後に続けられた「散歩でも行くか」の一言に目を丸くした。

「さ、散歩ですか?」
「……眠れねェんだろ、さっさと髪乾かして着替えてこい」

私の部屋の方を顎でしゃくりながら彼が言った言葉には有無を言わせない力があって、でも、と口を開こうとしたのを途中で止めて言われた通りに自室へと戻る。手頃な手拭いで髪を拭いてから少し悩んでお気に入りの服に袖を通し縁側の方へと急ぐと、もう実弥さんは寝巻きから着流しへと身を包み庭に立っていた。月明かりに照らされたその姿はまるで私の知らない男の人のようでいて、だけども私の知る彼の通りどこから見ても格好良いものだから、夜だというのにカッと体に熱が集まりそうになってしまう。

「お待たせしました」
「あァ」
「どこへ行くんですか?」
「決めてねェ。どっか行きたいところあるかァ?」

問われてふむ、と考える。実弥さんと行きたいところなんて数えきれないほどあるはずなのに、こうして面と向かって問われると何も思い浮かんでこなくなってしまう自分を恨めしく思った。……少しでも貴方と長く一緒にいられるのならどこでもいいですと言ってしまえば、また呆れられてしまうだろうか。うんうんと頭を悩ませながらも一向に名案が浮かんでこない私を見かねてか「港の方でも行くか」と呟いて歩き出す素振りを見せた彼に置いていかれないように小走りで追いかけると、木の根に足が引っかかりあわや転倒しそうになってしまった。今が夜中だというのも忘れ間抜けな声を上げた私に「何やってんだ」と振り返った実弥さんがやれやれとでも言いたげな顔をしているのがうっすら見える。こちらに向かって伸びてきた手に怒られてしまうと身構えたそのとき、身体の前に構えた手をぐっと掴まれ、あろうことかそのまますたすたと歩き出した彼に目を見張った。

歩幅の大きな彼に半ば引きずられるようにして山間の道を歩いていく。港の方から吹き抜けてくる風が心地よい。まだ少し濡れた髪に春の冷たさの残る風が触れても私の頬の火照りが冷める気配はなく、先程までとはまた違う汗が噴き出してくる身体を必死に鎮めようと努めながら黙りこくって歩いていると、ふと思い出したかのように「寒くねえか」と尋ねられた言葉にぶんぶんと首を横に振った。寒いなんてまさか、むしろ暑いくらいだ。最近は電気の発達で夜でも明るい場所が増えたけれど、この辺りはまだ夜になると随分と暗くて月の光と民家から漏れる明かりだけが頼りだ。夜目が効くのか私の手を握ったままずんずんと歩いていってしまう実弥さんは相変わらず言葉少なでその意図は掴めそうにない。試しに少しだけ手を引いてみるも、がっしりと掴まれてしまっている手は離れる素振りを見せなくて、……間違えて握ったなんてことではなさそうだなと思い至る。ふと繋がれていない方の彼の手に、ーー普通よりも指の少なくなってしまった手の方へと視線を移した。実弥さんの手は私よりも随分と大きくて、温かい。だけどこんな風に手を繋いでもらえただけでは飽き足らず、せっかく触れさせてもらえるのならばこちらの手の方がいいと言えば、妙なことを言うなとまた彼を怒らせてしまうだろうか。

「実弥さん」

怒らせてしまうだろうと予想はつきながらも、むくむくと頭をもたげ始めてしまった想いにはどうにも歯止めをかけることも出来ず、前を行く背中に向かって恐る恐る呼びかけると振り返った彼とぱちりと視線がぶつかった。

「あ、あの、……手、出来ればこっちの手がいいです」
「…………」

掴まれていた手を離し、空いていた方の右手を掬い取るようにすると、元々大きな実弥さんの瞳がこれでもかとばかりに見開かれるのが分かった。その後すぐに困惑しているかのような怒っているかのような少しだけ眉根が寄せられた表情に変わった彼の様子に、思い出されるのは柱稽古の折に僅かながらに触れたことのある硬くがっしりとした背中と床に転がる私を見下ろす冷ややかな瞳、そして「調子に乗るんじゃねェ」と言ったときの棘のある声色で、途端に冷や水を浴びせられたような心地になる。ゆっくりと瞬きを繰り返している彼の視線から逃れるように慌てて掴んでいた指を離し、数歩分距離を取ってから謝罪の言葉を口にした。

「すみません、……勝手に触るようなことをしてしまって。不躾でしたよね。ちゃんと自分で歩けるので大丈夫です」
「……いや、気にすんな」

一度離したはずの手をもう一度、今度は先程よりも強い力で握られて目を丸くした。そのまま何も言わずに歩き出してしまった彼の真意が聞きたくてまた名前を呼びかけてはみるも、それ以上彼がこちらを振り返ってくることはなくて、それならせめてこの胸の昂りがほんの少しでもいいから伝わりますようにと願いながらそっと力を込めて掴まれている手を握り返す。

鬼殺の剣を振るうようになってからというもの、私たちの夜はいつだって冷たくて悲しい血の匂いと憎しみばかりが募るものだった。死に物狂いで剣を振るう度、そして身体に新しい傷がついていく度に、遠い東の空から上ってくる朝日に向かって何度早く来てくれと願ったことか分からない。だけど今日だけは、いつもよりも日の出が来るのが遅くなればいいと思った。あれほど待ちわびていたはずの夜明けが来なければいいと願ったのは、これが初めてのことだった。

鬼殺隊が解散してからというもの、実弥さんは本当によく笑うようになった。柱の中でもとりわけ隊士や隠の方達から恐れられていた風柱の面影は形を潜め、凪いだ風のような穏やかな表情を浮かべる彼のその姿にもうかつてのような近寄りがたさはない。そして私はその柔和な笑みを目にする度に、もう何度も見てきた顔だというのに性懲りもなくどきどきと胸を高鳴らせてしまうのだった。

仕方のないことだと弁えてはいつつも、以前とは別人のような姿を見せる実弥さんの優しさに気が付く人が増えてしまった事実を目の当たりにする度に大変遺憾の意を感じざるをえない。例えばそう、今のように。

「本当に私が書いてもよろしいのですか?」
「あァ。この手じゃろくに書けねェからな」

こくりと頷いた実弥さんに、でもあの子は実弥さんからの返事がほしくてこの手紙を渡したんじゃないのかなぁとは思ったものの、どうしてもその一言が言えそうになくて『貴方さえよければ今度どこかへお出かけしましょう』と締めくくられた手紙の文面へと視線を落とす。きっと何度も何度も書き直したのだろう丁寧に綴られたその文字は、桜のような頬と唇が印象的だったあの子と同じようにとても綺麗なものだった。

たまたま私の通う塾近くまで来ていたという実弥さんと一緒に訪れた洋食屋で給仕係として働いていたあの女の子は以前他の客に絡まれていたのを実弥さんに助けてもらったことがあるそうで、会計を済ませた彼に駆け寄ってくるなり「お返事お待ちしております」と興奮した様子で綺麗に折り畳まれたこの手紙を差し出してきたのだ。その弾けるような笑顔と実弥さんを見つめる熱っぽい瞳に心臓がぎゅうと握りつぶされそうな心地になるのをなんとか誤魔化しながら、手紙を書く習慣がないと言う彼に「そこの店に確か便箋が売っていたはずなので、せっかくですし買って帰りましょうか」と持ちかけると「頼む」と答えられ、引くに引けなくなってしまった私が買ってきた筆と便箋をちゃぶ台へと広げて「どうぞ」と彼に向かって座るように促したのがつい先刻のことだ。急須を片手に腰を下ろした彼に「お前も座れ」と促され、あろうことか「……代わりに書いてくれねェか」と持ちかけられてしまい、そういう経緯もあって今、こうして私が実弥さんの代わりに筆を取っているわけである。

筆を取ったはいいものの何も上手い言葉が浮かんでこず、さて何から書いていこうと筆を握ったまま思案する。身寄りのない私と彼に定期的に手紙を送ってきてくれるのは鬼殺隊がなくなった今となってはもう炭治郎くんぐらいのもので、その手紙にすら実弥さんはろくに返事を書かないものだから、お節介だと分かってはいつつも「返事出さなくていいんですか?」と訊ね「お前が書いてんだからいいだろ」とにべもなく返されてしまって以来、私たちの間で手紙の話題が出ることはなかった。私が炭治郎くんとの手紙のやりとりで実弥さんの話をしていることには何となく感づいてはいるようだけれど、やめろとは言われないために暗黙の了解ということにしている。けれど、今回はさすがの彼も返事を出す気になったようだ。

手紙に認められた文のそこかしこから、あの子が実弥さんのことを好いていることが伝わってくる。それにしても綺麗な字だ。きっと学もあるんだろうな。弾むような声色で「また会えてよかった」と口にしながら駆け寄ってきたあの子の顔を思い出して、ふうと息をついた。どうして私は好きな人へ他の人が宛てた手紙の返事なんか書いてるんだろう。手紙の文面には『今度良ければお茶でも』という風に誘い文句が書いてあるけれど、実弥さんはどう返事をするのかな。お茶ぐらいなら一緒にしてあげるんだろうか。共に過ごす時間が増えてから二月以上が経っても私たちが色恋の話をすることは滅多になかったけれど、彼だって男の人だし、やはり可愛い女の子に誘われて嫌な気持ちはしないのかもしれない。

いつでも待っているから色よい返事がほしいと言ったときのきらきらとした瞳も、料理を運んできてくれた手も、どこもかしこも綺麗な女の子だった。もしかしたらあの子は、実弥さんが無限城の戦いで指を失くしたことに気付いていないのかもしれない。それならばその方がいい。あんな風に辛くて悲しい鬼殺隊での日々を覚えているのは、風の如く鬼に向かって駆けていく彼の後ろ姿をずっとずっと忘れられずに胸に抱いているのは私だけでいいのだ。

「おい。……またぼーっとしてんのかァ?」

頬杖をついてこちらを見ている彼の声で我に返った。一度何かを考え出すとぐるぐると回っていってしまう思考に気を取られてぼんやりとしてしまうのも、それを窘めるかのように彼に声をかけられてはっとした拍子に頭を下げるのも、もう何度も繰り返したお決まりの流れとなってしまっている。

「すみません、返事を書くんでしたよね。いつでもいいので今度どこかのカフェでお茶でもということですが、どうされますか?」
「断っとけ」

えっ、と驚いて目を見開いた私の顔をじっと見た実弥さんが「わざわざこんな男を相手にするこたァねェだろ」とぶっきらぼうに言い放ったのを聞いて、どういう意味だろうと眉を顰めながら首を傾げると、わしわしと後ろ手で頭を掻いた彼が続けた。

「俺は無限城の戦いで痣が出た。痣者の寿命の話は知ってるな?……長く持ってあと4年だ。25になるまでは生きられねェ」
「存じ上げております」
「……だから、わざわざこんな先の短けェ野郎を相手にすることもねェって話だ」

断る理由ならそれで十分だろ、と締め括られた彼の言葉に俯いてまだ何も書いていない筆先へと視線を落とす。本当はそんなこと聞きたくなかった。どうして今更、そんな風に突き放すようなことを言うんだろう。無限城での戦いがあったあの日に鬼舞辻と最後まで戦った彼らの顛末を聞かされたときから、どれだけ願おうと痣が出た彼らと過ごす時間が限られたものになってしまったことなど承知の上で生きてきたつもりだったのに、ここにきてそんな風に言うなんて酷い。……もしかすると実弥さんは、私のこともそういう風に思ってるんだろうか。いずれ先立つことになるのなら初めから相手にしない方がいいと、そんな風に私も思われているのかな。そうした考えが頭を過ぎるやいなやじわりと熱くなってくる目頭を押さえながら鼻を啜ると、「何泣いてやがる」と言った彼の片手に頬を掴まれ上を向かされる。

「まだ喋ってる途中だろうが」
「……は、はい。申し訳ありません」

これ以上一体何を話すというのだろう。聞きたくないと思いつつ、私の頬から手を離し何か考えるような仕草をしている彼の向かいに姿勢を正して座り直す。それからしばらくの間、お互い一言も発さない時間が続いた。まだ喋っている途中だと言っていたからには、彼の言葉には続きがあるのだろう。けれどいつまで経っても彼が口を開く気配はなく、珍しく悩ましげな表情をしている様子によほど言いづらいことでもあるのだろうかと些か心配になってしまう。少し考えてから、ここは何か言葉をかけてみた方がいいかと思い至り「あの」と声をかけようとしたその瞬間、長い沈黙の後に聞こえてきた言葉に耳を疑った。

「……夫婦になるかァ」
「えっ?」

その言葉を聞くなり弾かれたように立ち上がろうとするも、うるさいと言いたげな顔で私を睨めつけた彼の圧に負け、またすごすごと元いた場所へと腰を下ろす。精一杯平静を装おうとしたけれど、そんなものは到底無理だった。だって、夫婦って聞こえた。夫婦って。夫婦になるか、と確かに言われたのだ。……それが聞き間違いじゃないとするならば、実弥さんは私を、…………。いや、でも、そんなことあり得るんだろうか。居心地の悪い沈黙が部屋全体を包んでいく中、ばくばくと一回り大きくなってしまったかのように大きな音を立てて暴れる心臓に潰されそうになる胸を押さえつけもう一度「あの」と声を絞り出すようにすると、そっぽを向いてしまっていた彼の大きな瞳がこちらへ向けられる。

「め、夫婦って……実弥さん私のこと好きだったんですか?」
「はァ?」

おずおずと投げかけた言葉に今度は彼が眉を顰める番だった。

「今更んなこと聞いてんじゃねェよ」
「だ、だって交際してるわけでもないのに夫婦って、話が飛躍しすぎで……」
「あァ?お前が前に道の真ん中で俺に向かって「好きだ」っつって恥ずかしげもなく叫んだんだろうが。もう忘れたってのか?」
「忘れられるわけないじゃないですか!ちゃんと覚えてます!そりゃ私は不死川様が……実弥さんがずっとずっと好きでしたけど、でも、貴方からはそんなこと一度も、」
「んなもん一緒に来いって言ったときから分かってただろ。それともなんだ? テメェにゃ俺がどうでもいい女を横に置いとくような奴に見えてたってのかァ?」
「い、いえ、決してそういうわけでは……」

ちゃぶ台を挟んだ向こうに座る彼にギロリと睨み付けられ、手に持っていた筆を置き出来る限り小さく縮こまりながら頭を巡らせる。本当はずっと思っていた。私は実弥さんのことが好きだけど、実弥さんは私のことをどう思ってくれてるんだろうって。ただの元鬼殺隊の仲間のよしみとして傍に置いてくれているんじゃなくて、私のことを好いてくれているから一緒にいてくれるんだといいなって、そうなれたらどんなにいいだろうって、ずっとずっと思っていた。

そして、何度も何度も夢にまで見たその瞬間が今、目の前にある。さっきの実弥さんの言葉はつまり、私はこの人にとってどうでもいい女なんかじゃないって、……私のことが好きなんだって、そう思ってしまっても構わないってことなんだよね。起きたら全部夢でしたなんてことにならないよね?

いくら心の中で問いかけてみようとも彼から答えが返ってくることはない。けれど、それでいいと思った。この人がふいに見せる優しさや一見ぶっきらぼうに見える言動の裏の思惑の数々に一番近くで気付くことのできる女はまだ、この世界に私一人だけでいい。目尻に滲んでいたはずの涙はいつのまにか引っ込んでいて、代わりにじわじわと嬉しさが込み上げてくる。どれだけ無言の時間が続いても席を外す素振りを見せない彼に、これからも一緒にいていいと言外にそう言われている気がして、たまらず「好きです」と口にすると「今更分かりきったこと言ってんじゃねえ」とこちらを見て笑った実弥さんにごく弱い力で額を小突かれ苦言を呈されているというのにだらしなく頬が弛んでしまった。だけどもう、彼の前ではこうして綻ぶ口元を隠す必要もないのだと思うとどうしようもなく嬉しくなって随分と優しい表情をするようになった彼へと視線を返す。

そうやって微笑み合う私たちの間を、初夏の瑞々しい風が吹き抜けていった。