名前のないくちづけを

「……あの、すみません。そんなに見られるとさすがにやりづらいというか、万が一鍋がひっくり返りでもしたら実弥さんが怪我してしまいますので……」
「気にすんな」
「無理です気にしてしまいます……」

台所でぐつぐつと煮立っている小豆の入った鍋の前に立ち、目を伏せながら言った私に向かって「テメェはその何でも気にしすぎるとこをいい加減直さねーとなァ」と言っている実弥さんの声がやたらと近くで聞こえるような気がするのは気のせいではないだろう。これは私が実弥さんよりも気にしいだからとか、心配性だからとか、そういうことでは決してない。何如せん、後ろに立つ彼との距離が近いのだ。

「実弥さん、あの」
「なんだ」
「そろそろ小豆も出来ますので、居間で座って待っててくださると私も助かるのですが……」
「……ここで見てるからいい」

貴方がよくても私がよくないですと言いたくなるのをぐっと堪え、手に持ったお玉を置いてからにするべきかしばし迷ってから、そのままでいいかと思い直して後ろを振り返った。真後ろに立っている実弥さんの顔をじっと見つめて「お願いします」と懇願すると、私の懸命の説得が功を奏したのか「仕方ねえな」とでも言いたげな顔で渋々ではあるものの居間の方へと足を向けてくれた彼の後ろ姿にほっと一息をつく。ああよかった、これでようやく思ったように呼吸が出来る。沸騰した鍋をかき混ぜながら確かめるように息をしている合間に彼の様子を横目で伺うと、居間の方へ向かったはずの実弥さんが廊下からこちらを振り返っていて、その拍子にまた目線が合ったような気がした心臓がどきりと音を立てた。

夫婦になるかと言われ頷いたあの日以来、こうしたこと――特に、ふとしたときに実弥さんからの視線を感じるようになったこと――はよくあるようになっていた。やっと二人の間に胸を張って名前が付けられるようになった今でも、とうとう彼の私に対する態度が劇的に甘くなるようなことはなかったけれど、時折こうやって穴が開くのではないかと思えるほどに一挙手一投足を見つめられてしまうとどうにも落ち着かない心地になってしまう。

段々と日の出が早くなる季節に差し掛かっても、実弥さんと二人で肩を並べて歩いたり縁側で腰掛けながらたわいもない話をする時間が私の一番好きな時間であることに変わりはなかった。同じ塾に通う塾生の一人から教えてもらった西の方にあるというおはぎが美味しいと評判の店の話をしている途中、「おはぎの話してたらお腹が空いてきましたね。ちょっと向こうの和菓子屋さんで買ってきます。きなこと黒ごまと粒あんだったら実弥さんはどれがいいですか?」と訊ねると少し間を置いてから「……久々にお前のが食いてえ」と言われ、舞い上がってしまったのだ。

何味のおはぎが食べたいのかを聞くのも忘れて飛び出した勢いのまま抱え切れないほどの餅米と小豆を買い込んだはいいものの、とても一人では持ち帰ることが出来ずひいひい言いながら袋を引きずるようにして歩いていると、なかなか戻ってこない私に痺れを切らしたのか追いかけてきてくれたらしい彼が私と大きな麻袋を目にするなり「どんだけ食わせるつもりだ」と呆れたように言ったのに対して口を開きかけたそのとき、麻袋を片手でひょいと持ち上げた彼に空いている方の手を握り込まれて何も言えなくなってしまった。掴まれた手を振り払うことも出来ず、かといって指を絡め直すようなことも出来ず、ただ手を引かれるがままに歩いているうちに家に辿り着いてしまい、「……ったく、量考えずに買ってきやがって。飯食う前に腹一杯になっても知らねェからな」と小言を言う彼にろくに言い返すことも出来ず「すみません」と言いながら山盛りの小豆を煮始めたのが先刻のことだ。

しばらくの間は黙々と作業を進めていたけれど、ふと後ろからの視線を感じ振り返ると実弥さんがじっと小豆の入った鍋を見ているのが見て取れ、てっきりおはぎの様子が気になるのかと思い「焦がさないようにするのでご心配なさらなくても大丈夫ですよ」と声をかけると「……そんなんじゃねえよ」と返してきた実弥さんはそれからも一向に立ち去る気配を見せなかった。そんな彼の様子に一体どうしたのだろうと首を捻りながらも粛々とおはぎ作りを進めていた私がとうとう後ろからの突き刺さってくるかのような彼の視線に耐えきれず音を上げてしまい、そして、冒頭のやりとりへと戻る訳である。

鬼狩りとして生きているうちは、愛だの恋だのにうつつを抜かしていられる暇など到底ないのだろうと思っていた。たとえこの想いが通じることがなくとも時折稽古をつけてもらえればそれで十分で、剣を握るその姿を目にすることが出来るだけで幸せなのだ、と。私一人だけのものにはならなくたって、生きていてくれさえいればそれでいい。そう、心の底から思っていたはずなのに。いざこうして想いが実を結んでしまうとそれはそれで悩みは尽きないなんて、私はいつからこんなに贅沢な女になってしまったのだろう。

当たり前のように道で肩を並べてもらえる度、決して上手くはない私の話に耳を傾けてもらえる度、そして手を握ってもらえる度に、この人は本当に私のことが好きなんだと思い知らされるような心地がして、胸が押し潰されそうになってしまう。街を行き交う世の恋人たち、そして夫婦たちがこうしたことを毎日毎日繰り返しているのだとしたら、どうして彼らは平気な顔をしていられるのだろう。夫婦になると誓いを立てたあの日はあまりの衝撃でろくに頭が回っておらず、今後の二人の生活がどうなっていくのかということにまでは考えが至っていなかったけれど、段々と冷静になっていくうちに色々なことが頭に浮かぶようになった。……実弥さんはいつから私のことを好いていてくれたのだろう、とか。もしかして今後は一生こうして彼に触れる度に身体中の血が沸騰するような想いが続くのだろうか、とか。もし本当にそうなのだとしたら、私の心臓が保たない。実弥さんに触れられる度にこんな風にけたたましく暴れ出してしまうようでは、いつの日か身体よりも先に心臓が燃え尽きてしまうに決まってる。

しかし、長年の募らせた想いがようやく彼に通じた嬉しさをまだしばらくの間は噛み締めていたいというのもまた事実で。やめてほしいとも、もっと触れてほしいとも言えないまま、私は今日も真っ直ぐ心臓を射抜いてくるかのような彼からの視線を感じながら悶々とする時間を過ごしていた。

鬼殺隊の一員だったときの自分に言っても到底信じないだろうなと思うことばかりが起こるここ最近の中でも、とりわけ信じがたい瞬間といえば今まさにこのときだろう。

「不死川はいるか?」と玄関先で尋ねてきた冨岡様に向かって「まだ帰っていないようですが……どうなされましたか? 確か今日は冨岡様とお食事に行かれると伺っていたのですが……」と返しながら、鬼殺隊だったときに目にした姿よりも随分と柔らかい表情――困った顔と言った方が正しいのかもしれない――を浮かべている元水柱の整った顔をまじまじと見つめる。

「……実は、不死川とそばを食べに行った後に歩きながら話をしていたんだが、その途中に不死川を怒らせてしまって……」

私の問いに対して少し間を空けてから歯切れの悪い言葉を並べた冨岡様が「……家に戻っているかと思ってここへ来たんだが、違ったようだな」としょんぼりとした表情を浮かべながら続けた。俯いて小さくなってしまったその姿に、いけないとは思いつつ少し「可愛いらしいな」などと思ってしまいそうになり慌てて左右に頭を振る。そんな私のことを気に留める様子もなく、冨岡様はただただその端正な眉をへの字に曲げて困り顔を浮かべていた。……鬼殺の剣の稽古を受けているときに実弥さんから時折聞かされていた「いけ好かない奴」「澄まし顔が腹立つ」「俺はお前たちとは違うって面しやがって」という言葉の数々とは全く違う印象を見せる冨岡様のその姿に少し戸惑いつつ、「土産を渡したかったんだが、不死川もいないようだし出直すことにしよう。邪魔してしまってすまなかった」と言いながらぺこりと頭を下げた彼に「いえそんな、お気になさらないでください」とこちらも頭を下げ返した後に言葉を続ける。

「ええと、しな、……実弥さんも夕飯までには帰ってくると思いますので、良ければ上がって待っていかれますか?」
「……ああ。そうさせてもらえると助かる」

頷いた冨岡様を居間の方へと案内すると「ありがとう」と言った彼に深く頭を下げてもう一度感謝され、恐縮のあまり「とんでもございません」と言った声が裏返ってしまった。恥ずかしさで顔から火が出そうだったが、冨岡様はこれまた大して気に留める様子もなく私の用意した座布団に座り湯呑みから静かに茶を啜っている。……どちらかと言えば実弥さんも口数が少ない方だけれど、冨岡様はもっと寡黙だ。「水柱様はこちらへ何か無茶を言ってくることはないだけ良い人ではあるが、どうにも何を考えてらっしゃるかが全く分からない」と言って、風柱や音柱とはまた別の理由で隊士たちから遠巻きにされていたことを思い出した。

水柱だった彼とは任務を共にすることもなければ稽古をつけてもらうこともなく、とうとう一度も鬼殺隊にいる間に言葉を交わすことはなかったけれど、風柱である実弥さんとはどうにも折り合いが悪いらしいという噂だけは絶えずこちらの耳にまで入ってきていた。柱合会議や任務などで柱同士が顔を合わせる場から帰ってくる度に「澄ました顔しやがって」と青筋を浮かべながら道場で木刀を振るっていたかつての風柱の姿は未だに脳裏に強く焼き付いている。あの般若のような形相はそうそう忘れられるようなものではない。そんな水と油の関係だったはずの冨岡様と二人で食事に行くと聞いたときは、思わず「えっ?」と大きな声で聞き返してしまったものだ。あの実弥さんが時折ではあるものの自ら進んで冨岡様と二人で出かけるようになったのだから、本当に人生というのは何が起こるのか分からない。そして、自分と実弥さんが普段二人で暮らしている空間に(なりゆきではあるものの)冨岡様がいるというのも何とも信じがたいものがあった。

いくら私のことは気にしないでほしいと言ったところで、実弥さんは冨岡様と出かけていったときに日を跨いで帰ってくることも泊まって帰ってくることもなく、いつも日が暮れる前には真っ直ぐ家に帰ってきてくれていた。ありがたいと思う反面、申し訳ないなと思ってしまうこともまた事実だ。本当はかつての鬼殺隊の柱同士、積もる話もたくさんあるのではないのだろうか。私が聞いても分からないような、高度な剣技の話とか。はたまた男の人同士だからこそ分かる何かだったりとか……。二人でいる時は一体どんな話をしているのだろう。先ほどの冨岡様の話では話している途中で実弥さんを怒らせてしまったそうだけれど、それはつまり何かあの人の気に障ることを冨岡様が言ってしまったということなのだろうか。そんな調子で次から次へと気になることが出てくるものの、何一つとして上手い質問の仕方も浮かんでこず、かといってこの場を盛り上げることが出来るようなあっと驚く一芸を私が持っているはずもなく、窓の外を眺めながら静かに茶を啜っている冨岡様に向かって「失礼します」と頭を下げてから台所へと引っ込んだ。

襖を閉めるなり大きく息を吸い込んで、また大きく息を吐き出す。……人と言葉を交わすだけでこんなにも緊張したのは一体いつぶりだろう。水柱様以外にも、かつての鬼殺隊の仲間として私と実弥さんの様子を案じてここの家を訪ねてきてくれる人はちらほらといる。元音柱の宇髄様とその奥様たちなんてその筆頭と言えるだろう。表向きでは迷惑そうにしていながらも宇髄様が顔を出してくれる度に普段よりも少し楽しげな表情を浮かべている実弥さんの姿を微笑ましく思いはするものの、私個人としては、風柱以外の鬼殺隊の元柱の方と話すことは未だに慣れなかった。

実弥さんと気兼ねなく話すことすらまだ私にとっては難しいというのに、ましてや鬼殺隊の時分でさえろくに話したことのない元水柱と家に二人きりでいるというのはどうにも居心地の悪さを感じてしまう。自分から「実弥さんが帰ってくるまで家に上がって待っててください」と言った手前、居心地が悪いというのも勝手な話ではあるのだが、実弥さん以上に無口な水柱とどう接すればいいのかが私には分かりかねるというのが本音だった。……こんなことなら炭治郎くんにもっと水柱様のことを聞いておけばよかったなあ。私が冨岡様について知っていることといえば、水の呼吸の使い手だったということ、炭治郎くんとは同門で仲良しだということ、そして、鬼殺隊で柱同士だった実弥さんとは反りが合わないことで有名だったということぐらいだ。……精一杯記憶をたぐり寄せようとしてみるも、それ以上ろくな情報を持っていないことに気づいてがっくりと肩を落とした。早く実弥さんに帰ってきてもらいたい。その一心で時たま湯呑みを口元へと運びながら身じろぎもせずじっと窓の外を見つめている冨岡様の様子を襖越しに遠巻きに眺めつつ、ただひたすらにあの人の帰りを待った。

まさか私と冨岡様の二人に待ち構えられているとは夢にも思っていないであろう実弥さんが家に戻ってきたのはそれから少し後のことだった。居間に顔を出し冨岡様がいることを確認するなり「……何でテメェがここにいやがる」と言ってしかめっ面をした彼に向かって「実弥さんにお渡しするものがあるそうなので、上がって待って頂いていたんですよ」と言うと「そうかよ」と無愛想な返事が返ってくる。そして彼の視線が注がれる先が床に置いた包みへと移ったことに気付いた冨岡様が「土産だ」と言って差し出した手を睨め付けた実弥さんが再び眉を釣り上げた。

「はァ? 土産? ……んなもん飯食ったときにさっさと渡しゃよかっただろうが。わざわざこんなとこまで押しかけて来やがって」
「渡そうとした。……が、怒って先に行ってしまったのは不死川の方だろう」
「あァ? なんだ、俺が悪いってのかァ?」
「いや、そうとは言っていないが……」

一触即発とはまさにこのこと、やりとりを聞いているこちらの方がハラハラさせられてしまう。いくら実弥さんが鬼殺隊だった頃よりも随分と丸くなったとはいえ、やはり冨岡様と犬猿の仲であることには変わりないようだ。……口調は荒っぽくとも力ずくで家から追い出そうとはしない分、これでも幾らかマシになった方なのかもしれないけれど。

今にもまた怒り出してしまいそうな実弥さんと、それに気がついていないのか気に留めてもいないのか無表情で何を考えているのか分からない様子の冨岡様に挟まれてただただあわあわとするしかない私のなんと情けないことか。ただならぬ緊張感が漂う中、心安らぐはずの住処で柱同士に揉め事でも起こされてはたまらないと冨岡様が差し出したままになっていた包みを受け取り「冨岡様もせっかくなので夕食でもご一緒にいかがですか? お土産も頂いたことですし、良ければ食事の後でご一緒させて頂ければと思うのですが……昨 日おはぎを作りすぎてしまったので、良ければそちらも召し上がっていってください」と持ちかけると「いいのか? 不死川」冨岡様の視線が実弥さんへと注がれる。

「俺に聞いてんじゃねェ。こいつがいいっつってんだろうが」
「……では、甘えさせてもらうことにしよう」

再び頭を下げた冨岡様へ向かって実弥さんが「チッ」と遠慮なく舌打ちしているのが聞こえた。……た、対応を間違えてしまっただろうか。だけどこれ以上の方法はとても私の頭では思いつきそうもないし、調子に乗っておはぎを作りすぎてしまって途方に暮れていたのも事実だった。夕食を共にする以外にもどうにかして二人の仲を取り保てるような妙案はないかと悩んでみてもそんなものが都合よく浮かんでくるはずもなく、いくら頭を悩ませたところで出ないものは出ない。……もしも私が禰󠄀豆子ちゃんのように気立ての良い女の子だったのならもう少し上手くこの場を和ませることも出来たのだろうかと頭の片隅で思いながら、「夕飯の支度をしてきますね」と言うなりそそくさと席を立つ。野菜を切っている合間に台所からこっそり様子を伺うと、ぽつぽつとではあるけれど言葉を交わしているらしい二人の様子が目に入った。

取り越し苦労だったかなぁと思いながら二人のやりとりを耳をそばだてて聞きつつ味噌汁の支度を進めていると、「刀持て冨岡ァ」と凄んでいる地を這うような低い声が聞こえ、慌てて居間の方へと飛び出すと立ち上がって冨岡様を睨みつけている実弥さんと、すぐそばで実弥さんに目くじらを立てられているというのに気に留めず座ってお茶を飲んでいる冨岡様の姿が目に入った。今にも爆発寸前といった様子の実弥さんではあったけれど、慌てて居間へと飛び込んできた私を見て少し冷静になったのか、後ろ手で頭を掻いた後「……飯にするか」とバツが悪そうな顔をして言った彼の言葉に頷いて皿を取りに台所へと戻る。すると私に続くようにして台所へと入ってきた彼に「座って待っていてください」と言うと「これ以上冨岡と二人でいると俺の気がもたねェ」と神妙な面持ちとともに返ってきた言葉に笑いそうになってしまった。

奥歯を噛んで笑いが漏れそうになるのをなんとか堪え、食事を盛り付けた皿を持ってそそくさと居間へと向かう。すると、その後ろでまた「テメェは大人しくしてろっつってんだろうが」と冨岡様へ向かって少し声を荒げている実弥さんの声が聞こえてきた。……こんなことを言おうものなら怒りの矛先がこちらへと向けられることは分かりきっているから口が裂けても言えないけれど、二人の時には滅多に見せなくなったかつての風柱を彷彿とさせる彼の姿に、懐かしさのあまり頬が緩んでしまいそうになる。鬼がいない世界が訪れたくさんのことが目まぐるしく変わっていく今となってはもう、私たちがこの手に刀を握ることはない。それでも、確かに私たちは鬼殺隊の仲間であり共に切磋琢磨した日々があったのだということを思い出させるかのような彼らのやりとりを聞いて、懐かしさと感慨深さのあまりしみじみと感じ入るような心地を覚えながら私は粛々と食事の準備を進めていた。

二人で暮らすこの家を訪ねてきてくれるのは、何も元鬼殺隊の仲間たちだけではない。通っている塾の生徒仲間のうちの一人が「昨日渡しそびれてしまったから」と言って、外国から取り寄せたものだというお菓子を持って我が家を訪ねてきてくれたのは冨岡様と夕餉を共にしたあの日から四日後のことだった。

ごめんくださーいという言葉を聞いて玄関に向かった私が軒先に立つ塾生仲間の姿を視認するなり「あれ? 今日って塾お休みじゃなかったっけ?」と言ったのに対し「休みなんだけど、ちゃんが好きそうなものがあったからどうしても今日渡したくて……家まで押しかけちゃってごめんね」とはにかみながら言った彼が差し出した風呂敷包みを「ありがとう」と言いながら受け取る。ずっしりと重そうに見えた包みは存外軽く、中身はなんだろうと思って訊ねるとキャラメルとチョコレートだと答えた彼が「日持ちはしないものだから早めに食べきるようにしてほしい」と説明してくれた言葉にうんうんと頷き、踵を返そうとした背中に向かって「じゃあまた塾で」と手を振って別れを告げる。本当に、この包みを渡すためだけにわざわざここまで足を運んできてくれたようだ。せっかくなんだし上がっていってもらえば良かったかなと思いながら振り返ると、腕を組んでこちらの様子を伺うようにして廊下に立っている実弥さんの姿が目に入り、驚きのあまり大きく肩が跳ねてしまった。てっきり縁側の方へいるものだとばかり思っていたのに、いつからそこにいたのだろう。

何を言うでもなく、あの真っすぐに突き刺さってくるかのような目つきでじっとこちらを見ている彼に向かって「どうかされましたか?」と口を開こうとしたそのとき、「いつもああやって話してんのか?」と遮ってきた言葉にさて何のことだろうと首を捻りながら答える。

「いつもですか? そうですね、早めに塾に着いてしまって先生がまだいらっしゃらない時なんかはよく流行りのお菓子の話だったり歌舞伎の話をしていたりもします。あの方ご実家がお店をやっているそうで、いつも塾に差し入れを持ってきてくれて……鬼殺隊ではちょっとしたものなら鴉を飛ばせば済みましたが、一般の人はそうにもいかないので大変ですよね」
「そういうこと聞いてんじゃねえ」

話している途中でぴしゃりとはねつけられしまい、「すみません」と言いながらすごすごと手に持った包みへと視線を落とした。……どうしてかはさっぱり見当もつかないけれど、実弥さんの機嫌を損ねてしまったらしいことだけは分かる。先程までの私の言動の一体何がいけなかったのだろう。思い返してみても特段変わったことは何もない普段通りのやりとりだったような気がするが、虫の居所でも悪いのだろうか。相変わらずむっすりとした顔で廊下に仁王立ちしている実弥さんの顔色を伺うように視線を送る。しかし彼がそれ以上何かを言うこともなく、押し黙ってしまった彼から向けられる貫くような視線に冷や汗をかきながら目線を足元へと落とすと、ぽつりと呟かれた「……お前は俺の女じゃねえのかよ」という言葉に勢いよく顔を上げた。すると、じっとこちらを見ている彼の三白眼気味の目と視線が合う。聞き間違いだろうかと目をぱちくりさせながら「あの」と声を絞り出すと、眉間にしわを寄せた彼が忌々しそうに舌打ちしながら言葉を続けた。

「玄関先でベタベタ男と話しやがって」
「べ、ベタベタってそんな……」
「……俺の知らねえとこで男とあんまり喋んな」

そんなことを言ったって通っている塾の生徒の大半は男で、鬼殺隊の隊士も多くは男性だ。そもそもこの世にいる人間のうち半分は男であって、実弥さんの預かり知らぬところでは異性と口をきかないなんてこと、到底無茶な要求だということはきっと彼自身も分かっているだろう。しかしそんなことは口にするだけ野暮だということも分かる。「おい」返事を催促するかのようにじりじりとにじり寄ってこようとする彼の圧に負け、目を伏せ小さく頷いた後しばらく黙り込んでいると、弱々しく頷いた私に気を良くしたのかさらに距離を詰めてきた彼に抱きすくめられ声が上擦った。

「さ、実弥さん」

こんなこと、これまでに一度だってされたことなかったのに。一体どうしてしまったというのだろう。まさか誰かに怪しい薬でも飲まされたのだろうか、それか血鬼術とか――と、少し考えてからそれはないなと思い至る。鬼殺隊の柱にまで上り詰めた彼が誰かに薬を盛られるなどというヘマを早々するわけがないし、鬼の始祖たる鬼舞辻を私たちが倒した今となってはもう、彼が鬼気術にかかる理由などどこにもないのだから。

しかし鬼気術でもないとするならば、今のこの状況はとても説明がつかない。力の抜けた手から先ほど受け取ったばかりの包みがどさりと床へ落ちてしまい、……拾わないといけないのに、抱きしめられているせいで身じろぎひとつ取ることが出来なくて困った。目の前の状況にとても追いついていけず、私の気がそぞろになっているのに目敏く気づいた彼が「言いたいことがあんなら言え」と言った言葉にいいのだろうかと不安に思いながらおずおずと口を開き思ったままのことを口にする。

「あの、実弥さん、そ、そろそろ離して頂けると、その……助かるのですが……」
「断る」
「そんな、困ります……」

「困っとけ」と言いながらけらけらと笑った実弥さんは先ほどとは打って変わって随分と機嫌を良くしているらしい。より一層引き寄せられた上に耳元で名前を囁かれ腰が砕け落ちそうになったところで追い討ちをかけるように「……嫌か?」と尋ねられ、ブンブンと首を横に振る。何年も前からずっと慕い続けてきた相手にこういう風にされて、嫌だと思う女がこの世にいるだろうか。言葉を交わすだけ、手を握ってもらうだけではもはや飽きたらず、その手で強く抱きしめてもらいたいと、誰よりも優しく触れてほしいと、本当はずっと思っていたのだ。

「嫌というわけではなくて、ただ、心の準備がまだ出来ていないといいますか、……まさか貴方の方からこういう風にされるとは思ってもみなかったので、その……どうにも落ち着かないというか……」

せめてもう少しだけでも距離を取れないものかと身を捩ってみても彼の腕の力が緩まる気配はなく、されるがままになるしかないのだとようやく諦めた私が硬い胸板に頭を預けるとまた実弥さんが笑った気配がした。少し雰囲気が和らいだ彼に、どくどくとけたたましく暴れまわっている心臓の音を聞きながら先ほどの彼の言葉を聞いて以来ずっと気になっていたことを訊ねてみる。

「……あの、さっき、そんなに仲睦まじいように見えましたか?」
「あァ。……家に上がろうとしてきやがったらぶっ飛ばそうかと思ってたとこだったぜ」
「で、でも、前に冨岡様がいらしたときは実弥さんも何もおっしゃらなかったじゃないですか」

しどろもどろになりながらも何とか声を絞り出すと、正面から「あいつは俺も知ってる奴だろうが」という語尾を荒げた彼の言葉が降ってきてさらに肩を縮こまらせることしか出来ない。「すみません」と反射的に口をついて出た言葉に「怒ってねえから謝んな」と続けた彼に怒ってるじゃないですかと返そうとしたものの、慈しむかのように頭を撫でてくる大きな手の方に気を取られて何も言えなくなってしまった。

手を握ったときとは比べ物にならないほどの大きな音を立てて心臓が早鐘を打っている。……どうしよう。実弥さんって、本当に私のことが好きなんだ。以前言われた彼の言葉を、決して疑っていたわけじゃない。けれど、あの風柱ともあろう人が私のような気立ても何も良くない女を本当に好いてくれているのだろうかと、好いてもらえるようなことを私はいつしたのだろうと、心のどこかでまだ半信半疑だったことも事実だった。白状してしまえば、彼にとって自分が特別な人間であると胸を張って自惚れてしまえるだけの自信をまだ私は持てていなかった。

でも、今のこの状況はもう、とても言い逃れできるようなものではない。彼も私と同じなのだ。町で知らない女の人と実弥さんが話しているのを見てこの胸が少しもやもやとしてしまうのと同じように、彼もこちらが知らない男の人と話しているのを見て機嫌を損ねてしまうくらいには、私のことを好いていてくれているらしい。今更ながらそれを思い知らされるような心地がしてたまらない気持ちになっていると、不意に体を離した彼の手に顎先を掬い取られ上を向かされる。先ほどまで考えていたことのせいもあるだろうか、向けられた視線に熱がこもっているような気がしてはっと息を呑んだ。「嫌じゃねえなら目閉じてろ」と彼が言い終わらないうちにぎゅっと両目の瞼を閉じる。……何度もしつこいようだけれど、ずっと慕っていた相手にこういう風にされて、もっと触れてほしいと思うことはあれど嫌だと思うことなんてない。

もし次にこういう風に触れてもらえる機会があるとするならば、そのときはもう少し上手くこの気持ちを伝えることが出来ればいいと願いながら近づいてくる彼の気配にそっと息を止める。そうして初めて重ねられた彼の唇は、私が思っていたよりもずっと暖かく、それでいて胸がぎゅっと締め付けられるような心地のするものだった。